『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには⑧

2016年12月31日 | 学ぶ

お母さん・お父さんに伝える心(続)
 先週もお伝えしましたが、これらのテスト総評は旧年度(4~5年前)のものです。また、同一年度・同一学年のものとは限りません。それぞれのテスト結果報告に現在も総評は毎回添えています。

基礎課程(4年生・特進3年生)第1回5月度学力コンクール総評
 学校教育の指導レベルとまったくちがう問題ですから、かなりむずかしかったと思います。しかし、基礎課程の二人は、まだ試験問題に向かう態度ではなく、注意しても制限時間など意識になく、集中力がなかなかつづきません。また最後まできちんと考えることができず、時間がまったく足りなくなります。むずかしい問題でも、まず、いやがらずに読んでみるという学習姿勢が形作られないと、学力の進歩は期待薄です。多くを望めません。「頑張って何度も読み・・・」という、がまん強さを身につけなければならないわけです

 「軽佻浮薄」のご時世で、「何でも簡単に手に入ってしまう」という習慣が、「我慢できない」「努力やしんどいことはしたくない」という、「困ったちゃん」をどんどん増やしていきます。どんなことであろうと、うまくなりたかったり、できるようになりたかったら、まず結果が出るまで「努力を重ねる」という習慣が身につかなければなりません。その経験がないと、「努力する意味」が分かりません

 今後のきみたちのいちばんの課題は、そういう心構えになります。特にM君は「日本文」を読む経験(本を読むこと)を増やさなくてはいけません。「じっと落ち着いて本を読む経験をどれだけ積み重ねるか」で、今後の進学先や成績が決まってくると思います。頑張って、いろんな本を読み始めてください。おもしろい本はたくさんあります。まず、手に取ってみることです。お父さん、お母さん、本屋へ行って手に取らせてください

発展課程(6年生・特進5年生)第1回2月度学力コンクール総評
 ブログ(goo)でも学習方法や「学力の伸長についての考え方」を毎週展開していますが、もっともたいせつなことは、やはり「『一度しかない人生のたいせつさ』を、子どもに『接するぼくたちがいかに身にしみて感じているか』ということ」だと思っています。すべてそこから始まります

 ぼくたち(おとうさん・おかあさん)が「日々のたいせつさ」や「刻々と命が削られていくことの厳しさ」を感じていない限り、子どもたちにその思いは伝わりません。「時間や人生はまだある」とのんびり構えている限り、「努力しなければならない、すぐ始めなければならない、今日しなければならない」という気持ちは起きません。「いつでもできる」と思ってしまうからです。
 しかし「いつでもできると思っている内に、いつの間にかできなくなってしまっている」のが人生です。子どもたちに同じ轍を踏ませて、「後悔先に立たず」とならないようにしたいものですね。
 「子どもを大きく立派に育てる」には、まわりにいるぼくたちが、かれら以上に気を引き締めなければならない。そんな気持ちで子どもたちに接する大人でありたいといつも願っています。

発展課程(6年生・特進5年生)第11回12月度学力コンクール総評
 京都大学の大学院を出てから就職をしたのに、医師になりたいと、もう一度勉強を始めた一期生のK君について、お話ししたことがあるかもしれません。先日、がんばっている慰労をしようと食事に行きました。また、同じく京都大学に進んだY君も先日久しぶりに教室に来てくれました。
 同じ京大に進んだK・T君もそうですが、彼ら三人全員に共通するもの、それは、いくつになっても失わない「人生に対する真摯さとピュアな気持ち」です。前向きで目標に向かって真剣に手を抜かず進んでいく姿勢です。

 彼らの「裏表のない眼」に出会うたび、「塾をはじめてほんとうに良かった。教えられたな」と感じています。もう少しがんばろうという気持ちが生まれます。いつも大きな力をもらえています。
 Y君が、「先生、今何がいちばんほしい?」と云ってくれたので、「ぼくは、子どもの育て方や学習指導法がほんとうにわかったから、できるだけ多くの人に伝えたい」と答えました(ほんとうは、『きみたちのようにもう一度やり直す時間のある人生を』と答えたかったのですが。笑い)
 現在の団員諸君も、彼らのように大きく育ってくれることを願ってやみません。
 
発展課程(6年生・特進5年生)第3回4月度学力コンクール総評
 今回は2004年度の問題です。このときの新6年生の成績を添付しておきますが、進学先はYO君がN学園郡山校。ご存じのように彼は今年阪大の歯学部に合格しました。他に、KさんはST学園・標準。G君はS・理数、KOさんはOJ学院。そして、今年神戸大学に合格したT君は、当時団に入ったばかりで別紙のような成績でした。T君は人一倍根性があり、それが今回の神戸大合格を「後押し」したのだと考えています。
 

いずれにしろ、毎回お話ししていますように、学力の伸長については本来の能力だけでは決して決まりません。いわば、「人間としての総合力」の勝負になります。生来の能力・素直さ・裏表のなさ(まじめさ)・根性・好奇心など、「すべての能力のかけ算」で答えがでます。
 ですから、いずれかの項が0(ゼロ)だと、生来の能力がいくら高くても、よい結果は出ません。「合格」はできても、人生の収支はともないません。子どもを育てるには、そのあたりの冷静な目と客観性が欠かせません。

発展課程(6年生・特進5年生)第7回8月度学力コンクール総評
 夏休みが半分過ぎました。このテストはN学園に進学したS君等のときのIテスト(9月実施)です。成績表を貼付しましたが、受験した二人が最高の成績を上げたときで、問題自身もやさしい方に属します。二人ともよい点ですが、S君の場合は決して飛び抜けた能力の持ち主ではなく、決められたこと、指示された課題をきちんと遂行していったことが合格のポイントでした。
 努力は成績に比例します。また、どんなことをするにも能力の差はつきものです。それを補うには努力しかありません。楽をして「うまくいくこと」は決してありません。一度はあっても、二度はありません。二度うまくいったとしても、そのお陰でトータルの人生がダメになります。そのあたりの事情がしっかり自覚できるようになれるかどうかが、これからの三人の課題だと思います。
 「朱に交われば赤くなる」とのことわざがあります。「玉石混交」という言葉もあります。一生懸命努力をして行き着いた学校には、同じように努力をして合格した子が集まっています。そのなかで切磋琢磨できるか、成長できるかどうかが、社会で通用する力(学体力)が身につけられるかどうかの分岐点になるということです。
 裏表なく努力を重ねてください。「ガリ勉をしろ」というわけではありません。
 倦まずたゆまず、「毎日きちんとやるべきことをやる」ということです。そうすれば、必ず学習成績は上がってきます。さぼれば下がります。それが「人生のリアルな一面」だということをわから(せ)なければなりません

 以前から漢字のたいせつさについて話してきましたが、Iさんの例で少しわかりやすくお話しします。Iさんは前回の模擬テストでもそうですが、「5年生のテスト」ではN君より良い点数がとれます。しかし成績報告でわかるように発展課程(6年)のオリジナル問題では、N君に大きな差をつけられます。いつも注意している漢字学習の重要性がこのあたりで大きく影響するわけです。
 模擬テストの5年の問題は、そんなむずかしいことばや漢字は出てきません。だからすんなり頭に入ってきますが、6年のオリジナル問題は漢字の実力がないと、いちいち、ことばで引っかかることになります

 そんな読み方しかできないと、読解云々どころではありません。だからこそ、できるだけ早く漢字の実力をつけ、それに基づいて読解力を養っていかなければならないわけです。高い能力をもっていても、「いつの間にか~」ということになるわけです。
 計算問題や漢字練習は学力の「イロハ」です。裏表なく課題を続けていかないと、よい頭がそのうち平均以下になってしまうことも、稀ではありません

発展課程(6年生・特進5年生)入試実践テスト第一回総評
 第一回は、中学受験に対する姿勢や甘さの自覚を促したいと、あえてM星中学の本年度一次入試問題を使用いたしました。ごらんのようにそれぞれの成績の現実がはっきり現れました。

 全員、どの科目も受験者平均点に達していません。今まで、M星中学は十人以上受験していますが、団の合格率は8割以上です(ぼくのアドバイスを聞いていただければ100%)。3~4年生からきちんと指示を守って団の指導レベルで学習すれば、決してむずかしい学校ではありません。
 かつて不合格だった二人は、指導を守らず、決められた少量の日々の課題(家庭学習)さえ、「ちゃらんぽらん」にやっていたからです。6年生になっても宿題を指示通りきちんとできませんでした。
 漢字や計算問題の宿題でさえきちんとできていなければ、入試などとてもじゃないが乗り越えられません。受験生のイロハです。
 もう一つ、それに併行しますが、机に座って1~2時間毎日学習できるという習慣が身につかなければ、仮に「頭の良さ」で標準以上の私立中学に合格できても、その先はありません
 生まれつきの頭の良し悪しはまちがいなくあります。誰でもが、優れた能力・すばらしい頭をもって生まれるわけではありません。しかし、子どものときであれば、その差を克服して「素晴らしい頭を築きあげること」はまちがいなく可能です。
 そこで忘れてはいけないことは、その能力の程度に応じて自らが積みあげなければいけないものの大きさが違ってくることです。能力が低ければ、それに応じた努力を続けなければいけないのは、どの世界、どの社会でも同じではないでしょうか

 職人であれ、スポーツであれ、芸術であれ、潜在能力が不足しているほど、腕を上げるために努力が必要になることは変わりません。認めなければならない厳しい現実です。それを認めて、前を向く子でなければ、能力を養ったり、力をつけたりすることとは縁遠く、低い能力が高くなることはありません。「その壁を克服していく子ども」に育てることが、指導者と保護者のたいせつな役目であり、可能にするのが本人の努力です
 三人とも、相変わらず、簡単な漢字や小数・分数の混合算など計算問題のまちがいが多すぎます。これらは毎日の宿題を丁寧にこなしていくだけで、誰でもすぐ克服可能です。数か月の辛抱です。そこをクリアしないと難関校の合格は見えてきません。

発展課程(6年生・特進5年生)第8回9月度学力コンクール総評
 ぼくたちは、顔やスタイルがちがうように能力にもちがいがあります。一生懸命やっても誰もがオリンピック選手になれるわけではありません。しかし、「生来の能力を十全に発揮するように努力を重ねれば、少なくとも、ふつうの仕事では一流として通用するような力は身につく」と、ぼくは信じています。それが運動神経と脳のはたらきのちがうところです。

 しかし、生来の能力の差を克服して相手を凌駕するには、やはりそれ相応の努力が必要です。差があればあるだけ、努力の量も必要になります。そこがポイントです。みんなが「折れてしまう」ところです。あきらめれば、それだけの人生にしかなりません。哀しいことに、それがわかるのは、努力してもどうしようもなくなってからなのです
 子どもたちにいちばん教えるべきは、そのことではないでしょうか。「心をこめておこなった努力は人を裏切らないが、努力しなければ、人生が人を裏切る」と云うことです。必要なことは裏表なくきちんと努力する真摯さです。

Yさんへの手紙
2016年12月19日

  Y さま
 昨日は、ご苦労様でした。昨日もお話ししましたように、ぼくは世の中に出て素晴らしい活躍ができる子、頭がよいだけではなく、世のため人のために仕事ができる子を育てたいと願いながら指導を続けてきました。おかげさまで20年を超え、別紙のようにすばらしい子たちが育ってくれています。
 最初は生徒募集もしていたのですが、「まず先に指導をしなければいけないのが、お父さん・お母さん」のようなご時世になり、ぼくの指導と心情をわかってくれる人たちの子どもをしっかり育てたいと思い、伝手で頼ってきてくれる人の子どもたちを指導しながらの現在です。
 以前、散髪屋さんのTリンの隣の教室で指導をしていた姿を、間近でご覧になっていたM尾米店の亡くなったご主人が、「あんな先生がいるんなら、まだ日本はすくわれる(身に余りすぎなのですが)」と奥さんに言っていただいたそうです。それ以降、その言葉が、指導する折々で、心の大きな支えになってくれます。

 たいせつなお孫さん、協力しながら、大きく、大きく育てましょう。指導に対するご理解を心からお願い申しあげます。
 以下ご確認ください。
 
 予定表、弟さん用とお兄ちゃん用の両方同封してあります。お兄ちゃんはお話ししましたように発展課程(特進5年・6年生)の在籍になります。一月に6年生の入試がありますので、現在は冬期講習も含めて、平常授業も中学入試対応のレベルで指導しています。一月の半ばまでは難度の高いレベルでびっくりするかもしれませんが、2月新学期から最初から新しくやり直しますので、ご心配のないように。

 また、早く慣れたほうが良いので、できれば12月から予定表に基づき、来られる日に出席してください(12月分の授業料は二人とも結構です。なお次月からの授業料は前月の20日ごろに月謝袋(同封)をお渡しし、月初の授業料納入日にお持ちいただくようになっています)。 
 入塾料は不要ですが、教科書を購入していただかなくてはいけません。同封の申込書の丸印合計金額に消費税分を添えて納入してください。
 
 ようすを見て、ついていくのがつらい場合は時間をつくって補習等で補います。安心するようにお伝えください。
 
                                                                                                                                                                         学習探偵団
ご覧いただいているみなさま、いつも拙文をお読みいただき、ありがとうございます。来たる年がみなさまにとって、すばらしい年になりますように。


勉強のできる子を育てるには⑦

2016年12月24日 | 学ぶ

 毎年暮れ、その年の想い出に立体授業や課外学習のようすを、個人別に次年度のカレンダーにしてプレゼントしています。そのカレンダーの紹介です。KAEDEの分もあります。

お母さん・お父さんに伝える心
 以前から、時々団の家庭連絡用成績報告を紹介しました。毎月の学力コンクールの結果報告等ですが、その中に各自の成績を見て、さまざまな検討ができるように、毎回結果総評を掲載しておきます。参考にしていただける部分もあると思うので、今回はその中から抜粋して数編を紹介します。「お母さん・お父さん・子どもたちに伝える心」を読みとっていただけると思います。
 なお、これらは旧年度のもので、また同一年度・同一学年のものばかりではありません。順番も前後していることを、ご承知おきください。

基礎課程(4年生・特進3年生)第6回10月度学力コンクール総評
 試験前に話したことですが、三人とも少しずつ頭を使って考えると云うことができるようになってきています。お母さん方は、そんなのいつも考えてるじゃないのと思うかもしれません。しかし、考えると云うことを教えてあげないと、子どもたちは考えることがなかなかできないものです問題を読んで何を聞かれているのか、どう答えるべきかなど、きちんと考えて答えを出せるまでになるには、たいへんな道のりがあります。
 多くの子は考えることを知らないまま、大きくなっていくような気がしてなりません。書いてあることとのコミュニケーションがきちんととれないと、考えることはできません。まず読むことに「埋没」できなければ、考えることができないのです。国語の試験問題などかなりむずかしいのに、試験のようすを見ていると、三人とも、それなりに考えることができるようになってきていて、うれしい限りです。

基礎課程(4年生・特進3年生)第8回12月度学力コンクール総評
 頭の良さは「持って生まれた能力」で決まるもの、みなさん方の多くは、そのようにお考えになっているかもしれません。しかし、日々、頭の柔軟な可能性の塊のような子どもたちを見ているぼくにとっては、大きなまちがいだと云うことがよくわかります
 頭の良さを育てるために、まずたいせつなことは、子どもたちの教科書に出てくる学習対象に対する体験知です。つまり、教科書に出てくるものやことに、どれだけ「なじんでいるか」と云うことです。知らないもの、見たことがないような物に対する学習や知識の暗記を強制されるほど、苦痛なことはないはずです
 たとえば、みなさんが、まったく知らない人のアルバムを見せられて、それぞれの身長・体重や出身地・経歴などを教えられ、「それを覚えなさい」といわれれば、どうでしょう。今の子どもたちにとって、小学校や中学校で学ぶ学習内容は、どんどんそんな感じに近くなっています。
 体験の中から興味や好奇心を引き出し、考えるきっかけをつくってあげること、そして、むずかしいことでも我慢して考え始めること、考え続けること、ぼくの造語ですが、「学体力」を身につけなければなりません。
 頭の良さは生まれつきでは決してありません。頭の良さを育てる環境を用意すれば、そして、我慢することを教えれば、たいていの子は、素晴らしい頭の持ち主になってくれます。ぼくは、今、それを教えています。

基礎課程(4年生・特進3年生)第4回8月度学力コンクール総評
 成績が上がるようになる、それほど本来の頭が良くなくても、いつの間にか結構すごい頭になっているという例を、ぼくは毎年と言っていいほど見てきています。京大や阪大・国立大学の医学部に進んだ子はたくさんいますが、どの子も最初からすごい頭の持ち主ではありませんでした。いつの間にかすごくなったのです
 そのためにはたいせつな条件があります。まずやるべきことを陰ひなたなくきちんとやれるようになること、素直で柔軟であること(その上での頑固さはいいですが、ただ「頭が固いだけ」だというのは頭の悪さの典型です)、そしてできれば負けん気が強いこと。その条件を身につければ(めんどくさがらず意識してしつけることで十分可能です。実は、それも条件に入るわけです)。
 昨日京大工学部へ進んだK・T君が教室に遊びに来てくれて、授業のようすを見ながら後輩に算数のアドバイスをしてくれていました。京都から帰る度に立ち寄ってくれますが、教室を出るとき、後輩の発展課程(6年)の三人に、「君たちはむちゃくちゃ運がいいねんで、この塾に来れて先生に教えてもらうことができるなんて、むちゃくちゃ幸運なんやで」と云ってくれました。
 彼には、いつも元気をもらうのですが、ほんとうに教師冥利に尽きる一瞬でした。「世の中、金じゃない」と思えるのは、こういう経験ができるからです。「見掛け倒しで人間らしい付き合いができにくい世の中」で、「人の心が理解できない情けない人間関係も蔓延しています」が、K・T君、Y・S君など、素晴らしいOBたちと、末永く「人間らしいつきあい」ができているからです

発展課程(6年生・特進5年生)入試実践テスト第3回総評
 今回は今年のKS中学前期の入試問題です。ご存じのように昔から進学校として、ある程度名前が通っていましたが、近年少しレベルが落ちてきています。男女共学で、女の子のほうが最低点が高いのはいつものことで、従来から入学段階では女子の学力のほうが高い学校です。ある程度の成績をあげられるようになれば、「押さえの学校」候補のひとつかもしれません。
 中学受験と云うことで、こうして話を進めていきますが、いずれにしろ、それ以降の成長・伸長は、むずかしいこと、見たことがないような問題を「知恵の輪」を外すように、手がかりを見つけるため何度も試行錯誤を続けられる根気と負けん気があるか、粘り強く考えることを続けられるように育っているか、ということが大きな飛躍のたいせつな条件になっていきます。「学体力」です。
 今の子は甘やかされている子が多く、何でも簡単に手に入るように育てられているので、辛抱したり、我慢強く努力することがありません。それが大きな問題です。それがなかったら、ほんとうに賢い子にはなれないのです。
 「『学体力』を身につけるには何が必要か、どうしなければならないか」ということを少しずつお話ししようと母親教室を始めました。母親教室は、別にお母さんだけを対象にしているわけではなく、子どもの可能性をできる限り伸ばしたいと考えているお父さんにも、絶対役に立つと思っています。
 子どもをうまく育てるには、決して「子どもの頭の良さ」だけが条件ではありません。「家庭環境や考え方、習慣、しつけなどの総合力」が大きくものを言います。保護者のみなさんには耳の痛い話かもしれませんが、子どもを何とか一人前に、いや一人前以上に、と考えていれば、避けて通れることではありません。

充実課程(5年生・特進4年生)第1回2月度学力コンクール総評
 今月度は充実課程最初のテストです。充実課程は5年生のクラスですので、新5年生の問題をテストしました。
 習っていないことがたくさんあるので、たいへんだったと思いますが、いつも云っていますように、問題の難易度のレベルにかかわらずとりあえず読んでみて考えてみるという姿勢が、何よりも大切だと考えています。考えるという姿勢が身につかなければ何事も始まりません。まず読んでみる、わからなくても、もう一度読んでみる、そこからわかることが始まります。今書いている本にファインマンの小さいころの学習姿勢を紹介しますが、ぼくはぼくで考え続けたことで、別にまねをしたわけではないのですが、学ぶと云うことの姿勢は全く同じでした。
 何でも用意され、自ら考えると云うことが必要なくなっている現代は,どんどん考えない子どもたちを増やすように進んでいるとしか思えません。わからないことも、しつこく考えているうちに解答が見つかるのが普通です。経験からも断言できます。点数での判断ではなく、考えるという経験を重ねている子どもたちのがんばりをご理解ください。必ず将来に大きく花開きます。

充実課程(5年生・特進4年生)第3回4月度学力コンクール総評
 ご覧のように前月度に引き続いて、今月度も1999年の問題を使用しました。奈良学園から大阪大文学部(哲学科・大学院進学)へ進んだK・F君、また西大和学園から京都大学工学部へ進んだK・T君と現在の特進生3人との力関係の把握をしたかったからです。当時の成績表を添付していますので推察できると思いますが、3人ともすばらしい可能性をもっていることがおわかりだと思います。指示を守って団で普通に勉強してくれれば、大学進学に限らず、すばらしい実りを手に入れてくれるでしょう。
国語の成績について付言しますと、漢字の点数をご覧いただくとおわかりのように、現在の点数の差は漢字力の差によるところが大だと思います。いずれにしろOBの二人が同時期に42/46点ですから,3人ともすばらしい力をもっています。がんばって大きく花開いてくれるよう願ってやみません。しっかり応援してあげてください。

充実課程(5年生・特進4年生)第5回6月度学力コンクール総評
 成績表に貼付してますように、今回は駸々堂(五ッ木)テストの4年生用(過去問)を使用しています。後記のK君が受けた時期は12月ですから、4年生の後半以降になります。今回の諸君は半年以上早い受験になるわけです。さらに学習指導要領が変わり、習っていない範囲も出ていますが、答案を見ていると、どれくらい理解ができているかはわかります。
 お世辞ではなく、今年の四年生諸君の「生来の」能力は素晴らしいものがあります。ひらめきやセンス等、それぞれの諸君の持ち味はもちろんちがいますが、うまく育ってくれれば、ほんとうに楽しみな素材です。
 しかし、子育ては、ぼくだけの力ではどうにもなりません。目先の成績に一喜一憂したり、余計な不安を感じることなく、日々の行動や習慣に目を光らせ、素直でがまん強くものごとに立ち向かえるよう、子どもたちを導いてください。なお、卒業生と実績を見ていただければわかるように、団を信頼していただければ素晴らしく育ってくれます。わがままや一時の気まぐれに行く先を見まちがうことなく育てていただきますよう、重ねてお願い申しあげます。
 なお、別紙の成績表のK・F君は現在、阪大の大学院で論理学や哲学を勉強しています。時々顔を見せてくれますが、今年も赤目渓流教室に参加してくれると思います。話を聞いていただく機会があれば、アドバイスをしてもらってください。

充実課程(5年生・特進4年生)第6回7月度学力コンクール総評
 I君(4年)は以前にも上級の充実課程のテストの国語でトップをとったことがありますが、もっている力は素晴らしいものがあります。面倒くさがったり、雑になったりすることなく、ぜひその力を大きく伸ばす方向で努力してほしいと思います。
 勉強は最初は面倒くさくてしょうがないものです。おいしくもないし、気持ちも良くもないので、子どもたちはなかなかその気になれません。しかしそれらの壁を乗り越えたときに知力は生きていくのに欠かせない力になります。経済的な意味だけではありません。お金では解決できない精神的な支え、そして生きていくのに欠かせない「伴侶」になってくれるのです。それがわかったとき初めて「努力して勉強した意味」が明らかになります。その快感がわかるようになるまで、どうかあきらめずに努力して欲しいと思います。大学まで16年間、人生でいちばん大切ともいうべき十六年間が無駄だったということのないようにしてください。
 なお、G君も、かなりがんばれるようになってきました。その調子で努力すれば二年後には、努力が大きく実ってくれるでしょう。M君も相当学力や読解力がついてきたことが解答用紙を見ているとよくわかるのですが、集中力を持続することができません。そして、できないものだとあきらめ、努力を放棄してしまう癖があります。
 これはM君だけではなく、何でも簡単に手に入ってしまう現代っ子の大きな欠点です。二人との点数の差の大きな原因はそのあたりにあります。試験中も注意しましたが、その癖を直すようにしないと、もっている能力を大きく開花させることはできません。注意をよく守ってください。

充実課程(5年生・特進4年生)第8回9月度学力コンクール総評
 ごらんのように、M君が勉強を少しずつきちんとやるようになって、力がついてきました。勉強は、いつも云ってることですが、努力したことがそのまま結果に表れてきます。努力すればするほど点数や学力に反映します。
 人は裏切ることがありますが、勉強した努力の量は人を裏切りません。漢字と計算問題の宿題をどんどん進めてください。半年くらい一生懸命がんばれば、みんなに追いつけます。
 I君は消しゴムや鉛筆を忘れることが続いています。字も汚いし、鉛筆で消して答えを横に書いても平気なところなど、「学習する姿勢」という根本的なところを考え直さないと、生来の高い能力を溝に捨てることになります。
 「めんどくさがり」や「いいかげん」は、学力の伸長や高い能力を発揮するための、いちばんの「障害物」です

 来週は続編です。


勉強のできる子を育てるには⑥

2016年12月17日 | 学ぶ

計算技能の習熟と『未』学習範囲の先取り学習とは
 前回、日々の課題(宿題)を課す意味についてお伝えしました。そして、漢字と計算(技能)については、「できるだけ早く覚える(慣れる)方がよい」というアドバイスをしました
 その際、「漢字と同じく計算も、『考える』ための障害にならないように、『計算することに頭を使う』という状況から早く脱出しなければなりません」とも述べました。この「アイデア」については、その後の学力伸長、ひいては「考えることを深めなければならない」大学受験にもかかわってくる大きなポイントなので、もう少し敷衍します。

 小学校低学年での「計算技能主体」から、「受験を控えた中・高学年の算数」になると、「必要になるアタマのはたらきが」少し変わってきます。「条件を整理して論理的に考え、計算段階までに至る読解力の有無」が問われる算数、言いかえれば「計算するまでの『あれこれ』を読み解く力をつけなければならない」のです
 「(漢字と同じく)計算も、『考える』ための障害にならないように、『計算することに頭を使う』という状況から早く脱出しなければなりません」と、先週書いたのはその意です。問題文の意味を丁寧にたどらなくてはいけないときに、計算力がおぼつかなければ、思考をまとめることはできません。

 たとえば、小学校4年生用の算数の問題集には次のような文章題が並びます(下記はいずれも「中学入試完成算数4年 教学研究社」より)。最初の「四則計算のルール」の単元ですが、「何をどう求めるか」をたどってみてください。ふつうのおとなでも、「どれだけ面倒か!」がよくわかるのではないでしょうか。

上記書p31(引用三問とも、一部ひらがなを漢字に直してあります)
①  60個のおはじきを、一人に9個ずつ分けたところ、まだ残りが多かったので、もう6個ずつ分けたところ、ちょうどなくなりました。
(1) 分ける人の数を□で表した式をかき、答えを求めなさい。
(2) もう一人増えたので、分けた中からいくつかずつ集めて、みんな同じ数にして分けました。いくつずつ集めましたか。

④  5月の連休には、ある動物園ではたくさんの入園者がありました。1日目の入園料は2日 目より456000円多くありました。3日目は2日目より278000円少なくて、1754000円でした。この3日間の入場料の合計はいくらになりましたか。

⑤  右の図のように、㋐から㋓まで、この順に飛行機の便があります。
(1) ㋐から㋑まで乗ると9500円で、㋐から㋒まで乗ると、25000円になります。このとき、㋐から㋑までと、㋑から㋒まで別々に乗るときより2500円安くなっています。では、㋑から㋒まで乗るときの値段はいくらになりますか。
(2) ㋑から㋓まで乗ると27000円で、これは㋑から㋒までと、㋒から㋓まで別々に乗るときより2500円安くなっています。では、㋒から㋓まで乗るときの値段はいくらになりますか。
(3) ㋐から㋓まで乗るとさらに安くなり、㋐から㋒までと、㋒から㋓まで別々に乗るときより、4500円安くなっています。では、㋐から㋓まで乗るときの値段はいくらになりますか。

 「『これでもか』というほど厄介な設問」になっていることがよくわかると思います。こういう問題を読み解き、まず「何を求めなければならないのか?」を探らなければなりません
 そのためには「文中のどの条件(数値)が必要で、その計算(式)はどう組み立てるべきか?」「図や表をつかって、問題をどのように整理すべきか」等という「理解力・解釈力・応用力が備わっていること」が前提になります。計算をするのはそのあとです。計算力だけでは手に負えません。「読解力」がなければ計算をするところまでにも至らないのです
 ですから、初学者の「『計算式をただ計算する』という算数力」とは「まったく異なる世界」なのです。たとえば、計算力があっても、「めんどうくさがっては」ダメなのです。受験学年近くになって、「この子は算数が得意だったのに、どうして成績が悪くなったのですか」という状況が生まれるのは、こうした状況把握ができていないからです。

 また、「国語が良くて(読解力があって)、算数が苦手な子は成績を飛躍的に上昇させることも稀ではない」が、「算数が得意で(だと思っていて)国語が苦手な子は、よりむずかしい」と、ぼくが保護者に伝えるのは、こうした背景があるからです
 まず、「面倒で、厄介な問題に『ひとりで』立ち向かえるようになること」、そして『〈条件が錯綜して読みにくい問題〉を丹念に読み解き、解答に至るまでの論理性や執着力をもち続けられること』、つまり『学体力』が必須です
 難関大学に進学したいと思えば、中学進学以降、さらにバージョンアップした、この力が要求されます。先週掲示した「自学するための受験参考書」の体裁をもう一度よくご覧いただくとよくわかるのではないでしょうか。生半可な学力では太刀打ちできず、必要なのは「学体力」です。

 進学成績をご覧いただくとわかるように、団OB教室を経たOB生は、半数以上がその必要な力を身につけて育ってくれました。ふだん、ぼくが「未習単元の課題を課す」という、特異な(?!)方法を採るのは、その習慣がこうした力を引き出すスプリングボードになるからです
 また、「少しがまんしてやる」、「がんばってやる」、「あきらめない」という「心の構え」は立体授業や日ごろの指導で身につくもので、それらの総合が団の指導です。そして、いずれもが「学体力」の養成に集約しています

ジュリア・ロバーツ讃―ほんとうの美しさとは?
 まず、「アバウト・ア ボーイ」。ヒュー・グラントが、いかにも「はまり役」の、「遺産相続」小金持ちの「遊び人?!」を演じています。ひょんなことから、小生意気な少年と知り合いになり…という作品です。

 二本目は「陰謀のセオリー」。メル・ギブソンとジュリア・ロバーツの「活劇!サスペンス」。
 偶々、同時期に「一流の集中力」(豊田一成著 ソフトバンク新書)を読んでいました。たいせつな「からだのしくみ」や学習指導の参考になるように、集中力や自律神経・快感神経のはたらきなどについての本は、よく読みます。その中の一節です。
 
 …私はサッカーのゴールキーパーを指導するときに、」ペナルティキックのときはキッカーの右目に視線を投げろ」とよく言います。人間の顔は左右で感情の表れ方が異なり、左半分は意識した表情をつくることが得意ですが、右半分には本音が表れるのです。極端な言い方をすれば、人間の弱みは顔の左側では隠せても、右側では隠せないのです。(同書p166、下線は南淵)
 
 ぼくは今スポーツにはあまり関係がないのですが、この一節を読んで、写真の方に「おもしろい関係があること」に気づきました。右半分と左半分のエピソードです。
 女性(女の子)のスナップ写真を撮ってきた経験からいうと、大半(おそらく8割以上)の女性は左半分側面から(モデルの。したがってカメラマン側からは右手側から狙って)撮った方が、格段にきれいに(魅力的に)撮れます。興味をもたれた方は、是非試してください。なお、(特に女性の)肖像画やポートレートは圧倒的に左側面からのポーズが多いはずです。
 

さて、「『左側きれい』の理由はなぜか」ということです。撮影経験からその事実は知っていたのですが、その理由は調べたこと(考えたこと)がありませんでした。どうも、左脳と右脳のはたらきのちがいを基に説明されているようです。左半分が右脳で、右半分は左脳に「表情変化のアドバンテージがある」というわけです。
 左脳と右脳のはたらきのちがいは、一般的に右脳が感覚・感性をつかさどり、左脳が言語や論理的な思考を支配すると言われています。脳内の研究で感性と感覚にかかわるものですから、これは厳密な研究結果ではありません。大きなくくりではまちがいないでしょう。

 それから考えると、「表情を変えるのに、論理的な思考をしていては間に合いません」から、写真を撮るようなときには、華やいだ雰囲気が多いだろうし、おしゃべりしているときや、カメラマンのサービストークに表情豊かになるのは、「やはり左半分」なのでしょう
 先ほどのキッカーとゴールキーパーの場合に「左半分は意識した表情がつくれる云々」とありました。「『一瞬で相手をごまかすための表情』が感覚で捕えないと間に合わない」ことを考えると、「引用」も納得できます。ちなみに、さっきの「キッカーの心理を読むために、相手の右目に視線を投げること」の意味を、著者は次のように書いています。
 
 …右目に視線を投げろというのは、相手の正直な胸の内に訴えかけるということなのです。もしもキッカーが、「ペナルティキックをはずしてしまうんじゃないか?」という不安を抱いていれば、「その気持ちはお見通しだぞ」という心理的なゆさぶりをかけることができるわけです。(同書p167)
 
 つまり、「感覚でその場をごまかそうとしても、本音は(論理的思考の)右目にあらわれている」ということなのです
 さて、ジュリア・ロバーツの「陰謀のセオリー」から遠く離れてしまったようですが、実はそうでもありません。「きれいに『なりたい』という世の流れ」に、ロバーツは次のように苦言を呈しています。「ほんとうの美しさとは何か」。拙訳で紹介します(下線は南淵)。


 ジュリア・ロバーツが「すっぴん」の自撮りをインスタグラムに公開し、美容産業に「賢者の矢」を射ち込んだ。
 ビヨンセのヒット曲「プリティハーツ」の歌詞を引用して、「完璧を求める病気にかかってるのよ、みんな」と書いているのだ。
 「幾重にもメイクを塗り重ね、ボトックスを手に入れ、理想のサイズを手に入れるため断食だってするのよ」
 彼女はこう続けている。「眼に見えるものばかり治したって、見えないものまで治すことはできないわ。「手入れ」が必要なのは心の持ち方なのよ。もう、いいかげん、そういう立場に立つべきよ。
 自分のありのままを愛せない人が、誰かに愛してもらえるなんて思う? 自分自身でいられることに幸せを感じなくては。外見がどう見えるかなんて関係ないわ。たいせつなものはあくまで中身よ」。

 「私は今日、すっぴんをどうしても投稿したかったの。しわがあることだってよくわかっているけど、今日はそんなことより、もっとわかってもらいたいことがあるの。私は現在の私を受けとめたいし、みんなにもありのままの自分と自分の生き方を受けとめてほしいの。等身大の自分を愛してほしいの」。

 ロバーツの美しさは、もうサイコー。つきぬけてるわ。しわの有無なんて問題外よ。(修正する必要なんてまったくないわ)。
 (Sophie Brown/Social Media Winter at The Huffington Post UK)
 
 「きれいな人が好きな」ぼくも反省しなくてはいけませんが、右から見ようと左から見ようと、右脳がどうであろうと、左脳が何であろうと、たいせつなことは「美しいものを『心』に積みあげていくこと」、「美しい心をもち続けること」。それが、弾ける若さやきらめく美しさが影を潜め、年齢を重ねても、ますます美しくなれる最高の方法でしょう。そして「それによってナチュラルに形づくられる外見こそたいせつなもの」だと思います。女も男も。

 美は、決してファンデーションでも、マスカラやシャドー・つけ睫毛でも、口紅との「共演(!)」でもありません。まして高価な装いでもありません。逆に、それらはすべて、「年齢とともに不自然になる取り合わせ」のはずです。
 若いころから写真を撮りつづけていると、表情に現れる内面の美しさもよく見えてきます。みなさんも一度ぜひ振り返ってみてください。ちゃんと見えてくると思います。
 観察眼が鋭く、頭のよいジュリア・ロバーツは「それらがわかっていることが、『隠すことができない』眼の表情や目の輝きに現れてくること」、それが「ほんとうの美しさと女性らしさであること」を伝えたかったのです。ロバーツ万歳。

 なお、引用の最後の、取材記者の原文は、
 We think Roberts looks uh-mazing, and we can’t spot a single wrinkle! ですが、この場合のspotは写真の用語で「スポッティング」という、「写真の小さな傷などを小さな筆先で修正する」という意味です。念のため。


勉強のできる子を育てるには⑤

2016年12月10日 | 学ぶ

子どもたちは、どのように成長するか?
 その子によって多少の時期のずれはありますが、3年生くらいから団で学び始めた子どもたちは、5年生の半ばを過ぎる頃になると掃除や飼育などの「作業」もきちんとできる(あまり注意をしなくてよい)ようになります
 「きちんとできる」という意味は、「『すすめている作業』や『任されている仕事』に対して自分の役割を自覚し責任をもてるようになる」ということです。また、経験を重ねるごとに、作業のすすめ方や次にやるべき「行程!」がイメージできるようになり、効率よく進められるようになります。当然時間も早くなります。こういう子どもたちの行動の変化が学習にも大きく反映します。

 学習というと、「教室で」または「座ってノートと鉛筆をもって」と想像されてしまうことが多いと思います。しかし、「一見学習とは関係がないように見える行動面の成長」を学習(学力の伸長)とまったく切り離して考えてしまうことは正しくありません
 「説明を聞きながら自らのイメージを膨らませ、作業を進める、問題を解決していく」頭のはたらきは、「授業での問題解決・学習内容の理解のしくみ」とも重なります。作業を通じた頭の使い方と指導は「一般に考えられているように無駄や邪魔になるというより、逆に学習にも大いに役立つ」ものです。
 たとえば、「米作り」にしろ、「生物の飼育」にしろ、さまざまな作業を通じて、「目的をかなえ、結果を手にするための努力」という経験を積みます。「当初は意に沿わない作業やお手伝い」を我慢してやりつづけるからこそ、出てきた結果が「満足感」と「自信」に変わります。そのとき子どもたちは、「努力することや作業を頑張ってやりとげることの意味」を手にします
 逆に、頑張ってやらなければ、成果は上がらず満足感や自信は生まれません。学習のすすみ方もそっくりだとは思いませんか? 「苦労や努力がムダにならないという体験」を繰り返すことによって、意識は「当初の苦労・しんどいから次第に苦労ではなくなる」という経過をたどります。

 お手伝いや作業の行程のなかでは、当然「叱られる」という体験をたくさんします。しかし、作業に慣れてきて次第に成長する彼らを見ていると、心から褒めたくなります。次に「頼りがいを身につけた」彼らに、役割や自信をさらに鼓舞する、という指導もおこないます。「一歩まちがえば『裸の王様』を育ててしまう、褒めるだけの指導」とのちがいです。
 入団当初の子どもたちのようすを見ていると、現在の子どもの指導方法には「見直さなければならないところ」がたくさんあります。「部屋で勉強していなさい」とか、「もう宿題した」とか、勉強の部分では家庭でもそれなりに注意されますが、それ以外のたいせつなことは見逃されてしまっていることが多いのではないか。特に受験生の場合は。

 「部屋や机に座っていることが勉強」「勉強がいちばん大事」等という従来の「固定観念?」から脱却し、「生まれてきた子どもにとってほんとうにたいせつなものは何か」「成長して社会に出るには」という「成長の先を見通す視点」・「『頭(脳)の発達』に対しても、もっと広範で柔軟性をもった視点」からの教育や指導が必要とされる時代になったのではないか
 「お手伝い」や「作業」という、「『いつもの学習とはちょっとちがう脳の使い方』をすれば、広がりをもつことができれば、より脳が発達するであろう」ことは、認知をつかさどる「スキーマ」の形成やその役割から考えても想像に難くありません。その「広がり」が「次の考える枠組みを規定する」わけですから。

 「『学習の幅を広げること』が、『学習のマイナスになる』ようなおかしなこと」は初期の特例を除き、ふつうなら考えられません。それより、子どもの場合、「決まりきった机上のトレーニングだけに終始する方が脳の(頭のはたらきの)柔軟性や創造性のバランスの良い発達を阻害することが多い」のではないでしょうか。
 いずれにせよ、米作り・カブトムシやスッポンの飼育・土筆やミカンやカキの収穫・・・という「一連の課外学習や立体授業の数年」を通じて、「叱られながら覚えてきたこと」が、5年生後半以降になると、次第に身についてきます。単に「知識の埋め込み」ではないので、成長には回数と時間がかかりますが、その代わり一度身につけば、決して忘れません。そして、その気持ちのありようが「学体力」(関連ブログ頁をお読みください)の礎となります。
 5・6年生の現団員諸君たちも今までのOB教室生と同じように、能力が高く、よく気がつき、周囲や後輩にやさしい青年に育ってくれることでしょう。スッポンやカブトムシの世話を「さまざまなことに気づかいながらおこなう」という「気配り」や「心がけ」は、当然後輩や周囲の人に対する「やさしさの土台」になるはずだからです。

 よく聞く「虫(スッポン!?)が気持ち悪い!」という子どもじみた発想(感想)では、こういう考え方や指導方法を手にする(に目を向ける)ことはできません。子どものまわりにある、すべての「環境」が子どもに対して与える影響を考えずして、バランスのよい成長を手にすることができるでしょうか? 「虫には限りませんが、机上の受験勉強や学習以外の、子どもにかかわる成長の広がりにも、もっと目を向けること」が「勉強ができる子」を育てる秘訣。だとぼくは考えています。

日々の課題(宿題)の意味
 団の宿題は他受験塾に比べれば、おそらく「半分にも満たない量」で、ダラダラじゃなく、きちんと進めることを繰り返していれば、6年生の量でも一時間前後でできます。また、中学受験にもそれで十分だと考えています。要は毎日時間を決めて、きちんとできるかです。

 「宿題を課す理由」は四つあって、まず一つ目は日々の学習習慣をつけることのたいせつさ、です。やらなければならない時には、きちんと机に座って(学習机に限りません)学習できる、という習慣です。
 それが定着しないと、大学合格までの学力の見通しは立ちません。また、子どもたちを指導しているとよくわかりますが、アルゴリズムや、知識をはじめとする学習内容は、彼らの頭の中で形成途中で、まだきちんと「定着」していません。身についていません。
 少し学習をさぼって、考えること・繰り返すことがおろそかになると、数か月を待たず成績が下降します。早ければ、数週間の「サボり」で結果にあらわれます。団で毎月学力コンクールを実施しているのは、それらの傾向を早急に判断できる、という理由もあります。それらの失敗を最小限に留めるためです。

 二つ目は早期の漢字習得
 漢字はやはり「繰り返し」をしないと覚えることができません。また、特別に漢字の時間を設けて指導するのは時間的にもむずかしく、家庭学習に依存しなければなりません。
 特に漢字の繰り返し演習のようなルーチンワークは学年が上がるほど嫌がります(手抜きをするようになります)。したがって学年配当にかかわらず、ドンドン先取りを意識して、「漢字のストレスなく問題文を読めるような状況」を早くつくることがたいせつです。
 江戸時代の「素読」をみてもわかるように、未だ物心がつかない頃から漢籍を読ませるような時代もありました。湯川秀樹博士も自著で、その素読による漢字の早い時期の習得がずいぶん役に立ったと述べています。なお、ドリルの注意として、漢字単一ではなく、漢字のことばが熟語として文中で使われているものを利用します。それをしないと、同音異字(音合わせ)のまちがいが減りません。またことばの使い方にも慣れることができません。

 三つめは「計算技能」の習熟です。これはみなさんも振り返るとわかるように、計算をする機会が減ると、極端にスピードが遅くなり、まちがいが増えます。「文章題の理解はできるが、計算まちがいが多い」では意味がありません。漢字と同じく計算も、「考える」ための障害にならないように、「計算することに頭を使う」という状況から早く脱出しなければなりません。「早く」といいましたが、その時期は3年生、遅くとも4年生の間に習熟すれば、それほど問題は発生しません。
 最後の四つ目。これが特にたいせつだと、ぼくは考えているのですが、「『未』学習範囲の先取り学習」をできるように育てておくこと
 宿題は多くの場合、習ったことをドリルで復習・演習するというのが一般的です。もちろん、そうした学習もたいせつです。しかし、もっとたいせつなことは、「まだ習っていない範囲を、解説等を読みながら内容理解し問題に答えていく」という学習(姿勢)です。
 小・中・高と学年が進むにつれ、指導する先生は、「生徒がわかっているということ」を前提として授業を進めていきます。特に難関進学校の場合は、選抜された諸君ゆえ、そういう傾向が高いのではないでしょうか。また、それまでの学習経験で、受験問題の暗記や解法を「受け身」ばかりで学習した子たちのなかには、そのスピードや授業内容にも戸惑い、ついていけなくなる子が多くなる可能性が高くなります。
 可能性を広げる、本来の(目指すべき)学習は、研究者の姿勢を考えてみればわかるように、「みずから参考書(参考文献)を読み、考えや発想を進めていく」という姿勢です。それによって自己の能力を高め、仕事や人生の可能性の幅を広げる、という経緯をたどります。「自学」です。そういう能力を身につけることによって、難関大学受験も可能になる、ぼくはそう考えています。

 写真例示の本は、ぼくが使ったものも含め、いずれも古いものですが、定評があった(ある)難関大学受験参考書です。「こういう難度の参考書を自学できること」で合格が可能(容易)になります。「自ら読み通せること」が可能にならなければなりません。予備校で、懇切丁寧に指導を受けて合格しても、「内からの駆動力」を基にする学力がついているかどうかは甚だ疑問です。
 自ら率先して進められる力、長い目で見通して、そういう力を身につけられることを理想とするのが、団の指導です。「学体力」の大きなポイントです。いつもこれらの意味を念頭において宿題を課しています。

クリント・イーストウッド讃
 最初は「アイアンマン」。肩の凝らない映画です。取りあげるべきかどうか迷ったのですが、「背景やシナリオも含めて」、「いかにもハリウッド映画」というポイントが決め手でした。

 ふたつめは「狼の死刑宣告」。愛する息子を殺された会社勤めのサラリーマンと街のならず者との壮絶な復讐劇。

 次は「陪審員」。デミ・ムーアが子どもを守るために弱い女から強い女に成長する物語。「(ひとりの)人間の成長(変身)を表現する」のは映画ストーリーの常道ですが、シナリオもそれなりにまとまっています。ちなみに、先の「狼の死刑宣告」も、ふつうのサラリーマンが「復讐の鬼」に変わりました。

 それにしても、この頃のデミ・ムーアより、年を重ねて「鋭さと強さ」を増した「G・Iジェーン」のようなデミ・ムーアの方がはるかに「色気」がありますね。映画女優としては、よいステップを踏んできているということでしょう。

 「恋に落ちて」。ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープの(不倫)純愛(?)物語。
 おたがいに、「それなりに幸せな夫婦生活」を送っている二人の、ふとした出会いから・・・「それはあかんやろ!(笑い)」という作品です。でも、「そういうことが実はよくある」ということが不思議でもなんでもないと思えるように、ぼくも年をとりました。いいのかな?

 「マルコムX」。デンゼル・ワシントンがやはり「いい味」です。組織、あらゆる組織は必ずダークな面をもっている。組織が大きくなれば、ダーティな面をもたざるを得なくなる、というのが社会経験からのぼくの結論です。かつての黒人解放運動の一面が垣間見えます。
 最後は「ミリオンダラー・ベイビー」。不幸な環境で育った女の子の自分探しと、家庭に恵まれない初老のボクシングトレーナーの物語です。
 2004年、なんとイーストウッドが74歳の時の作品です。そして、この作品で二度目のアカデミー賞受賞。74歳を過ぎてのちも、創作意欲が衰えず作品を作り続けているパワーには敬服します。

 次々にアイデアや企画が脳裏に浮かび、それらを表現・実現したいという意欲、つくり出す喜びと、おそらく苦悩。人生で「何かを生み出す力(彼の場合は映画俳優から映画製作)」を手に入れ、それが評価されること・期待されることが、逆に「生きる力・生きていく力」を鼓舞する、というしくみになっているのでしょう。素晴らしい「生きるしくみ」です。しかし当然それには、しかるべき能力や知力が要求されます
 日本は高齢社会になり、あちこちで孤独死や自殺のニュースが流れることが多くなりましたが、「何かをつくり出す、生み出す」という生き方が、「年をとってからいきなり身につく」ということは、ほとんど考えられません。小さいころ(若いころ)から、いろいろな体験を繰り返し、好奇心を養い、自らのやりたいこと・伝えたいことを探すという「魂の彷徨」があって初めて可能になることだと思います。子どもたちに伝えておきたいことが、また一つ増えました。


勉強のできる子を育てるには④ 

2016年12月03日 | 学ぶ

学の好き嫌い
 学がカワニナを食べるようになったことは先週お話ししました。ところが、食べると書いてあった「鳥の笹身」をまったく食べませんでした。「ささみ」を食べないで、貴重なカワニナをワンサカ食べたある日の学(学)とハゲエモン先生(ハ)の会話です。
 
 「お前は、どーおして好き嫌いがそんなに激しいんだっ? このカワニナ、いくら金がかかってるか知ってるか?」 
 「・・・・・・」

 


 「鶴橋から橿原神宮駅、近鉄往復。そこから貸自転車800円。交通費2000円、それに貴重な俺の時間、3時間! それを一日で食べてどーすん  の?」
 「・・・・・・」
 「すききらいはアカンやろ」
 「・・・・・・」(居眠り)

 

 

 「お前、トシ(年齢)なんぼやの? 好き嫌いしたら、子どもに『示し』つくか? おっちゃんやろ、もう? その『でっかさ』。隠してもわかんねんから!」
 「・・・(! 別に隠してない。言われへんだけ!)」(怒)

 

 

と、こういうやり取りの次の日。なんと、学がモーレツに笹身を食べ始めたのです! あっという間に、1本をペロリ。それも、カワニナを食べる以上のスピードで! 「やれば、できるやんけ。学!」
 シジミ・カワニナ・ささみ。もう少し好き嫌いがなくなると、餌に困らなくて済みそうです。

子どもたちにとってのほんとうの教科書とは何か?
 まさかスッポンを飼うことになるとは? 
 前にもお話ししましたが、立体授業や課外学習での活動はイレギュラーやハプニングがつきものです。人生がそもそもイレギュラーやハプニングの連続ですね。

 立体授業で、「環覚」を育てる指導も、その場に応じた柔軟性や対応が「思わぬ学習効果」を生むことがあります。「学の飼育」もその例にもれません。
 餌の魚や巻貝・二枚貝などの観察はもちろん、たとえば、予想外かもしれませんが、水槽や底砂や備品を洗ったり、バケツや水槽に水を入れるときの作業の経験が、算数の入試問題でよく見かける「水位の問題」や「水の体積変化の問題」のイメージトレーニングになります。「考えにくい問題」を解くときのイメージの応援に大きな効果を発揮します。
 

生物が生物を食べる」という、小さな子どもたちには少しショッキングな「食物連鎖」もきちんと心に受け入れざるを得ません。そこから「生命のたいせつさ」や「自然界における人間の役割」も考えはじめることになります
 このように、子どもたちの日常生活の「いちいち」が発見、好奇心や思考・発想のスタートラインになる、それらが、ファインマンのお父さんをはじめとする、子どもを優れた科学者に育てた保護者(教育者)の指導視点だったのではないでしょうか?

 飼い始めるときは、そんなに学習のための「『余禄!』がある」ということなど思いもかけませんが、「子どもたちの作業や行動は、視点を変えれば、ほとんど何らかの学習内容に関係すること」がわかってきます。つまり、「学習」は単に「机上の学習」に終わらず、日常生活で活きていたり、使われていたり、行動で「裏付け」がとれるものばかりです。そしてそれらの発見と認識が、「机上の学習」をも高度に導く「『本来の』学習」なのでしょう。

 
 こういう指導法は、自ら意識して「発想」を広げないと確認できません。その努力がなければ、たいてい通り一遍、ワンパターン。指導書頼り、「サンプル!」の周りをウロウロするだけで終わります。
 ところが、少し見方を広げ、「発想を促す努力」をしてみることで、自ずから「ほんとうの教科書」が目につくようになります。「環覚」の成長です。「そこから手に入るもの」が子どもたちの「テキスト」です。

 その「テキスト」を習得しても「受験問題が即解答できる」「受験にすぐ役立つ」というわけではありません。しかし、子どもたちは死ぬまで中学受験を続けるわけではありません。受験は長い人生から考えれば、一時の取り組みです。それよりもっと大事な「学ぶことのおもしろさ」を見つけること、その「テキスト」を追い続けることによって、やがては「社会や人類に貢献できる研究」に大きく成長する可能性さえ生まれるでしょう。ファーブルの弟への手紙やファインマンの著書を読めば、よくわかります。彼らは「現実の抜粋!」ではない「真の教科書」を読んだのです。
 省みれば、子どもたちの学習内容は、本来、生活行動や体験・自然現象に潜む「なりたちやしくみ」の「要約」・「エッセンス」ではないでしょうか? その発見を通した「ああ、そういうことだったのか!」という子どもたちの感覚が、「学ぶたいせつさ」や「学ぶおもしろさ」を取得できるコアになるはずです。

 そして、ぼくたちの、「それらを子どもたちの手に届けようとする気持ちと心意気」が、現在のさまざまな学習問題解消の「はじめの一歩」だと、ぼくは感じています。

睡眠時無呼吸症候群再説
 以前、ぼくが睡眠時無呼吸のCパップの治療によって「体調が激変した」という話をしました。その変化を考えるにつけ、何十年も「そのこと」をわからずに過ごした「ハンディ」を、子どもたちには絶対味わってほしくない、今、その思いでいっぱいです。
 4月にCパップをつけはじめて今月で約8カ月、160~170あった収縮期血圧が130前半で、拡張期は70前後です。当時より体重は約5キロ増えていますから(これも困ったものですが)、そのままでは血圧の上昇はあっても下降はありません。Cパップ治療をしなければ、「子どもを叱ったとき既に(!)血管が切れている!」はず(笑い)です。それが「穏やかでいられる」のは、決して「年のせい」ばかりではなく、Cパップのおかげです。
 Cパップによって「酸素が十分供給されることを知った身体が、酸素を送る量を増やすために血圧をあげる必要がなくなったから」です。さらに無呼吸がなくなり熟睡できる(無呼吸による緊急反応で目が覚めます)ので、疲れがすっきり取れて、いつも目覚めがさわやかなのです。朝、すぐ身体が動きます。Cパップをつける前は、夜中に何度も目が覚め、熟睡した感覚がまったくなかったにもかかわらず。

 以前の紹介のように、ぼくは小さいころから「怖い夢」を見る、「水中にいて息ができず、もがいて浮かびあがろうとしても叶わず、もう駄目だと思ったとき目が覚める・・・」というような経験を何度も味わいました。「大きな鼾をかいて、途中で長い間止まる」と指摘されたことも数え切れません。
 ところがそのころは、「睡眠時~」という病気の知識も一般的ではなく、「いびきが大きな病気に関係している」という認知度も低く、「いびきが止まっている間、息も止まっている!」などということは考えもしません。
 呼吸が整わず、酸素の供給が十分ではないので新陳代謝はうまくいかず、疲れがとれなく、「朝から不調」・・・ふつう、そんなことには思いも及びません

 こうした経験を振り返ってみると、認知度が低く、忙しい毎日を送っているお父さん・お母さんはもちろん、睡眠時無呼吸症候群という病気の潜在患者は、考えているよりはるかに多いと思うのです。いびきが止まる人はもちろん、「大きな鼾をかく人で、朝疲れが取れていないと感じている人」は、一度専門医をたずねてみてはいかがですか。もしそうであれば、治療することで身体と体調が「劇的に」変化します

 特に子どものことが気がかりです。育ちざかりに、酸素供給が十分ではない身体を抱えていれば、「身体のすべての発達」が滞るだろうし、熟睡できない身体では、学習や運動はもちろんさまざまなパフォーマンスでも支障をきたします。
 成長過程でそうしたハンディを抱えてしまえば、成績はもちろん、「性格形成」にさえ影響が出るでしょう。疲れてしまえば、「頑張ろう」という気力も失せるはずです。何事にもダラダラして積極的になれない、ということも考えられます。「子どもたちの大きな鼾」に注意してください。疲れが取れて、身体が楽になったことがよくわかる朝、いつもそう思います。

 掲示の「睡眠時無呼吸症候群」(安間文彦著 文芸春秋)は2003年の本ですが、一節を引用しておきます。知識をきちんと持たず、病気として重視しない下記の状況はまだ続いているようです。
 
 ~睡眠時無呼吸症候群に対する認識が世間一般では不十分であると書きました。それは患者のみならず、医者の場合も同様なのです。なぜなら、睡眠時無呼吸症候群はたった三十年前に(注、出版年度から考えると約40年前)はじめて名前がついたばかりの新しい病気だからです。働き盛りの医師のほとんどは、大学の医学部でこの病気に関する講義をうけていません。山田二郎さんのかかりつけの医師が、うるさいイビキをかくことやイビキがとまることを病気だと考えないのも、無理からぬことでした。(上記書p51~52、注/下線は南淵)

DVD紹介
 今週はAMAZONのレビューを見て買ったものの、途中で嫌になったものが二作ありましたが、紹介するものはそれぞれ見ごたえがありました。一番目はウッディ・アレンの「マッチポイント」。

 アレンの作品は世評が高いので何作か有名作品に目を通しましたが、どうも僕の性に合わないようで、我慢しても、途中で取り出してしまう、ということが続いていました。
 この「マッチポイント」は、購入時から作者名も見ないまま見始めたものです。最後の「皮肉なオチ」もおもしろく、そのとき製作者名を見て、「なかなかやるじゃん」と思った作品です。
 ところでウッディ・アレンの作品に出演するほとんどの女優の見かけがパッとしないのは、リアリティ追求の故か、作者の好みなのか、ぜひ知りたいところです(笑い)。「蓼食う虫は、勝手に食え!」と言っておきます。

 「クリムゾン・タイド」は、デンゼル・ワシントンとジーン・ハックマンの共演。エリート士官とたたき上げの上役のリーダーシップ争い。潜水艦内の緊迫した場面が見所です。
 
 今週偶々見たジーン・ハックマンの後二作もよい作品でした。「ポセイドン・アドベンチャー」は、「タイタニック」に先立つ豪華客船転覆事故からの脱出劇です。「神を問う甘さ」は少し気になりました。

 「ミシシッピー・バーニング」は今尚くすぶり続けているアメリカの奥深い問題、人種差別をテーマにした映画です。人種問題はあるものの、こうした作品に出演する俳優がいて、名作がつくられ、相応に評価されるという国、アメリカはやはり「捨て置けない大きさ」があります。

 ぼくたちの国を見渡してみると・・・。
 かつては「思いやり」と「慎み」と「惻隠の情」の人間関係に代表されましたが、今は「我欲」と「なあなあ」と「自己顕示欲の塊」に変わりつつあります。「欲得があっても、それを凌駕する価値観もある」という、「変わってはいけない日本らしさ」「日本人の思い」がどんどん消えつつあります。「表面だけの損得しか見えない」底の浅い人間関係の蔓延です。

 心情が蝕まれていく、その先にあるものは融和ではなく敵対であり、平和ではなく戦争です。和める社会ではありません。
 また、巷を見ていると、相変わらず「『出る杭』が打たれ過ぎる寂しい国、哀しい社会」でもありますね。先ほどの「クリムゾン・タイド」で例を挙げれば、日本では、デンゼル・ワシントン扮するような優秀なエリート士官が「より大きく」育つようなことは少ないでしょう。成長過程で、多くは潰されたり、ふてくされたり、やる気をなくしたりすることになるでしょう。何とかしたいものですね。未来のために。
 

「モガンボ」は典型的二枚目俳優のクラーク・ゲーブル、グレイス・ケリー、エヴァ・ガードナーの作品です。クラーク・ゲーブルは「軽い」役でも、なぜか軽くならないのは「背が大きいから?」。まっ、そんなことはないか。

 登場する二人の有名女優グレイス・ケリーとエヴァ・ガードナーを比べると、お人形さんみたいなケリーより、ガードナーの方が断然いいとぼくは思います。写真を撮りたいのはエヴァ・ガードナーです。みなさんのご意見は?

 最後は「i am sum」。知的障害のある父親の「愛と子育て」です。「子育てには、想像以上に環境が大きな影響を与える」と観察しているぼくには「受け入れがたいところ」もありますが、良い映画です。「親子の愛の行方」を探すにはぴったりです。