「ブラス!」万歳
今まで見たイギリス映画は心を動かされることがあまりなかったのですが、今週、「ブラス!」を見て、びっくり。傑作です。イギリスを誤解(!)していました。閉鎖に揺れる炭鉱町のようすと感動を呼ぶ人間模様をきれいに描き切っています。
サッチャー首相の時代、首相は歴史に名を残しましたが、その裏でよくある「名もなき人々」の苦しみ。この作品は監督自身の脚本で、自らの意向を十分反映できたのでしょう。シナリオを勉強するにも良い作品だと思います。大きな賞には恵まれていませんが、サッチャー首相に対する政治的状況を配慮したのでしょう。もしそうであれば、とても残念です。
このブラスを始め、今週は偶々130分を超える作品を4本見ることになりました。まず、マックイーン主演の『ネバダ・スミス』とクリント・イーストウッドの『アウトロー』。あとの一本は、「陽のあたる教室」。先の2本は西部劇、「陽のあたる~」の方は高校の音楽の先生の半生です。
この題名も、どうして「陽のあたる教室」なのか、意味不明です。原題は「Mr.Holland's Opus」つまり「ホランド先生の音楽作品」。作曲が得意な先生ですから、こちらの方が、まだ意味がよくわかります。「(ホランド)先生のシンフォニー」とか「幸せのメロディ」とかいう題では、どうだったのでしょう。いずれにしろ、先生方(お父さん・お母さんも、そして大きな可能性ある子どもたち)、「ブラス!」と「陽のあたる教室」は、いい映画だと思いますよ。元気が出るでしょう。
さて、先の西部劇2作ですが、130分を超える映画になると、監督を含むクリエイターの力量がはっきり現れます。ストーリーの練りこみ不足で、どうしても傍用のストーリーや登場人物が必要になり、逆に、手に持ちきれない材料を抱えてしまい「収拾」がつかなくなってしまう。
娯楽性に長けたクリント・イーストウッド監督はさすがに、何とかうまくまとめていますが、「ネバダ・スミス」は、まるで「安ホテルのバイキング」です。一見うまそうな料理が並んでいるのですが、「目先だけ」で、全部味見しても、味わい深いものはなく、腹いっぱいで「しんどくなった」だけ。「こんな映画に出てたのか?マックイーン」という感じです。
ぼくたちの生理的な問題もあるのか、よほど自信がない限り、映画はやはり120分以内に収めておくのが無難なのでしょう。それ以上になると、相当なストーリーテリングの能力が必要になります。もって瞑すべし。
もう一本は「ワーロック」。典型的な西部劇のパターンですが、最後まで見ることが出来ました。ヘンリー・フォンダとアンソニー・クインが、何か同性愛者のような描かれ方をしているのが余計ですが、監督の趣味?かもしれません(笑い)。
映画だけに限らず、いつも子どもたちには「『本物』を見分ける目をもってほしい」と願いながら指導します。これは、ぼくの指導することが、いつも真である、正しいというわけではありません。「自立して」判断できる能力と、自信と勇気を持ってほしいという意味です。判断する意志や判断能力もなく流されないでほしい、そう思っています。
かつて、「大スポ」(こうした新聞を持ち出すことで、引いてしまう人がいるのではありませんか? それがすでに、情報を個別に判断する機会を失している、とぼくは思います)で、北野武さんが、「日本の映画賞は大手映画会社の持ち回りになっている」という意味のことを発言されていましたが、今のように(DVDですが、)映画をたくさん見るようになると、アカデミー賞(今は日本の映画はほとんど見ないので、アメリカ)などのタイトル受賞と映画の評価は、まったく別にしなければならない、ということが、今更のようによくわかります。
シェイクスピアのことばです。
There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.
そもそも良いとか悪いとかいうことはなくて、考え方次第なんだ。(拙訳)
劇作の天才は、「個の視点」の必要性と「個別の考察」のたいせつさを強調しています。それがないから、「いじめ」も始まるわけです。もう一人、物理の天才アインシュタインのことばです。
Any fool can make things bigger,more complex and more violent.
It takes a touch of genius and a lot of courage to move in the opposite direction.
ものごとをより大げさに、よりむずかしく、さらに意味不明にすることは どんなバカにだってできるものだ。しかし、それらを逆方向に導こうと思えば、ちょっとした才能と大きな勇気が必要になる。
(拙訳・新聞の紙面と写真の本は本文の内容とは関係ありません)
子どもたちには「大きな勇気」をもってもらいたいと思います。それが少しずつ世の中を良くしていくことにもつながるはずだから。
大きなイチョウの葉
団では、月に二・三回、土曜日に全員が集合する「立体授業」という授業があります。子どもたち全員と様々な作業もしていきます。
当初始めたころは、「勉強」と関係ない、という理由で参加しない子もいましたが、OB諸君の成長のようす(成績や人間性)を見ることで、次第に保護者の理解が得られるようになりました。
拾ってきたどんぐりや苗木を育てたり、カブトムシやクワガタの飼育、飛行機づくりや釘立ての釘を細工したり、弓矢づくりをしたり、庭木の手入れをしたり…ジャンルの制限はありません。それらの作業を通して、子どもたちの日常生活や家庭でのしつけ具合もはっきりわかります。よくない行動は修正しなければなりません。それらを作業の中で指導していきます。
「米作り」や「稲刈り」もそうですが、一連の作業や工作も一人でできない子が、「一人の社会人として一人前に育つ」などということは考えられません。それ以前に、中学・高校で「自主的に勉強をすすめられること」など到底想像できません。また自分のことを(さえ)一人でできない子が、やさしく人のことを考えたり、みんなに迷惑をかけないで日常生活を送れるはずがありません。立体授業の一連の授業や作業を通して、このあたりの問題も克服を図ります。
20年以上の指導の中ではっきりしたこと、それらの行動や作業に対する子どもたちの「習性」が整うにつれ、成績や学習も軌道に乗ってくること。それらの継続で、やがて大きなすばらしい実りを手にするようになります。そのためには、指導に対するおとうさん・おかあさんの理解は欠かせませんが。もちろん、これらの指導は補助的な役割です。
立体授業の第一の目的は、「環覚」の養成です。年間のそれぞれの課外学習に対するスライド映写などの「補助的授業」を通じて課外学習のテーマを敷衍したり、掘り下げたりしながら、学習対象に対する興味や好奇心の掘り起こしを図ります。
今回はそれらのふだんの指導の一例を紹介します。
写真①の樹を見てください。所用で出かけた本町周辺で撮影したものです。
ぼくは写真をやっていた関係で、周囲の「微妙な変化」によく目が向きます。この場合、「イチョウの葉」の異常な大きさに目が留まりました。周辺のイチョウの2倍ほどもあります。
下の方に目を向けると、大きな木が切り倒されて生えてきた「ひこばえ」です(写真③)。今まで数十メートルあっただろう大木の根から約3メートルの細い幹が出ています。葉の異常な成長は、その成長のしくみのアンバランスがもたらした結果でしょう。子どもたちにはよい学習材料です。
まず子どもたちには拾ってきた葉っぱを見せます。次に大きさを比較した写真②を見せました。そして、葉が大きくなった理由を考えさせました。子どもたちからいろいろな解答(考察)が出てきます。当然、それらは「当たらずとも遠からず」までもいきません。しかし、それが「かけがえのない学習」だとぼくは考えています。
答えに至らずとも、周囲にある様々な対象物に興味をもつこと、目を留めること、不思議に気づくことがたいせつだからです。いつも通る道端の街路樹が生命あるものだと気づくこと。それらを材料に、「考えること」「わかるおもしろさ」が始まります。
先生の話やテキストの中ではなく、実際に陽光の中で、日々「光合成」や根からの給水による成長と再生を繰り返している、「生きていく努力をしている」ことが、「現実の存在」によって、確認する機会とタイミングが生まれること。すべて、そこからです。
「学習対象の実物」に目がとまり、「『ただの葉っぱ』や『しょうもない木』ではなくなること」が「とっかかり」です。子どもたちがさまざまに考えを広める過程で、環境に対する認知度や理解が進んでいきます。成り立ちとしくみに対する興味が膨らんでいきます。それが小さな科学者が誕生するしくみです。
イチョウの葉をぼくが持って帰ろうとした理由は、このように、「ただ葉が大きかったから」だけではありません。年間を通した立体授業で「イチョウ」は何度も登場します。「イチョウという存在」を、子どもたちが頭の中で『立体的』に組み上げる応援をしたかったからです。
春先の土筆ハイクでは、トクサ類とともに、「生きている化石」というイチョウの一面が現れます。化石採集では、古生代からの歴史で再度顔を出します。現存種が一種類だということも学習します。またミカン狩りの立体授業では種子植物と裸子植物という区分で登場します。黄葉や紅葉の対象でもあります。
たとえば、これらを裸子植物と被子植物や雄花と雌花という「学習用」の「ことば」で伝えるだけで何かおもしろいことが始まるか、興味や好奇心がわきおこるか、何か考えはじめるかを考えてください。みなさん、考えはじめましたか?
ぼくたち(子どもたち)が日ごろ出会うのは「木の代表」や「木の特徴」ではありません。そんなものには終生出会えません。出会えるのは、すべて「個別の実物」であり、葉や実一つ一つの「つくり」です。それらを抽象したものが学習対象や学習内容です。
「おとな」は「わかったつもり」(実はわかっていないことが多いのではないでしょうか)で問題を作り、採点をし、それで用足れり、です。子どもは「実際に見たこともないもの(抽象)」を、「字面でしか見ない」で問題に解答し、「実際には何も見ていない、わからないままで学習を終える」のです。
ぼくも含めて、ほとんどの人がそういう「学習経験」しかありません。だからその「異常さ」がわからないのです。
冷静に考えてみてください。その学習から「科学」が生まれますか? 「研究」が始まりますか? そうした「学究」生活に至るきっかけがどこかにありますか? 日本の大学のレベルがどんどん落ちてきている理由は、こうした面だけを見ても明らかです。学習指導に対して大きな発想の転換が求められている時だと思います。