「フォアグラ受験勉強」は粗大ごみ
近隣の小学生を相手にはじめた小さな塾ですが、団には小学受験を済ませた子・「定評ある(!)大手進学塾」の「受験指導」で、勉強に嫌気がさしたり、挫折した子も来ます。塾通いがはじめてであれば、「必要以上に過保護にされている子」以外、指導はそれほど問題ありません。が、フォアグラ受験塾転塾組・小学受験組は、ほとんど共通の学習トラブルや問題を抱えています。
まず、学習に対する「嫌悪感」「拒否感」「不信感」の存在です。むずかしいことでも、ともかく考えてみようという姿勢・やる気の欠如です(*印参照)。その原因は「勉強しなければならない意味」や「学ぶおもしろさ」をわからないまま、テキストのみ頼りの「抽象の詰め込み」をされたことと「長時間の宿題」によるものです。(*印 同じ姿勢は過保護・甘えが原因でもよく見られます。つまり、一人ですることや考えることが苦手、依頼心の強い子に育ってしまった場合)
落ち着いてイメージすれば誰にもわかりますが、「やる意味」・「おもしろさ」もわからないまま、長時間の「仕事」を毎日つづけさせられて、何年間もがんばり通せる人はいますか? いたとしても、それは「家庭や子どもというかけがえのない存在を守らなければならないという義務感や責任感があるから」だと思います。また生計を維持するための「収入」を手にすることができるからでしょう。
しかし、子どもは家庭を維持しているわけではないし、一定の収入が必要なわけでもありません。「抽象的な」学習を続けるには、そのためのモチベーション、「学習する意味」の確認や「学ぶおもしろさ」が欠かせません。今のままだと、多くの子どもたちは「おもしろさもわからない」まま、「先の見えない勉強」を、「収入も何も手にすることなく(得るものなく)受験までつづける」ことになるわけです。
「目的は受験合格のみ」、他の目標や目的が見えず、いやがる子どもたちに、お父さん・お母さんは「遠慮しながら」おべっかを使い、ほしがるものを何でも与え、「フォアグラ受験塾」に通わせつづける・・・つまり、「受験以外の目標が見えず甘やかされたまま」、「学校でも競争のたいせつさを教えられないままの覇気のなさ」、「塾では受験から離して学習を考えることができないし、学校での学習指導は中途半端」・・・それが子どもたちの現状ではないでしょうか? こどもたちにほんとうに与えなければならないもの。それはゲームやお小遣いではなく「学ぶ意味」と「学ぶおもしろさ」です。
難関受験塾では「良い学校へというプライドをくすぐるぐらいで」学習する意味を伝えないまま「フォアグラ定型指導」をつづけるが、「一部の優秀な子を除き」理解が行き届かないままの子どもたちに「抽象的な学習内容」を次から次と詰め込み、不足分は「膨大な」家庭学習に依存しつづける・・・その一方では、不条理な学習に戸惑う、あるいは反抗を重ねる子どもたちの顔色をうかがい甘やかしながら、追随していくお父さん・お母さん。
厳しい言い方ですが、「団を訪れてくれるフォアグラ塾出身者」を見ていると、そう判断できます。「勉強が嫌いな『甘えた』」をつくるには「最良(!)の方法」です。「フォアグラ受験勉強」がもたらすもの。それは、『大学入学以降はゴミ箱行き』の「学びのしくみ」です。
子どもたちには、まず何を伝えるべきか?
塾や学校の先生・お父さん・お母さん、こどもを指導する人が、まず伝えなくてはならないことは、「学習すること(勉強することでもいいですが)が、生きていく上で一生たいせつになるものであるし、しなければならないことである」という当たり前の認識です。そのたいせつさをきちんと伝えることができているでしょうか?
「学ぶこと」や「勉強」に「嫌悪感」や「拒否感」や「挫折感」を被せてしまえば、子どもたちの将来の可能性は大きくそがれてしまうのは必定です。「学ぶこと」を面倒くさがったり、苦手意識をもってしまえば、子どもたちの輝かしい未来や成長を望むことはむずかしくなります。
「本で読む・調べる・考える」という、ごく基本的な行為をごくあたりまえのこととして行える、初めての遭遇でも課題解決に向かって前進することができる、そういう姿勢と成長を目標にしなければならない、そう思います。おとなとして自立するためにたいせつな条件です。
写真家の深瀬昌久さんに激励を受けた趣味のことについては以前触れました。ある日、古本屋のカメラ雑誌で写真コンテストに出会い、写真を始めようと思ったのですが、ぼくの中では、「学校に行こうと」か「誰かに教えを請おう」とかいうアイデアはまったく浮かんできませんでした。まず始めたのが中古のカメラを手に入れること(もちろんアナログです)と、現像要領を学べる本探しでした。それによって必要なもの・必要なことを調べ、ひとつずつ手に入れ、試行錯誤をくり返していきました。
「習えば早いじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、そうとばかりは言えません。「試行錯誤をして失敗の中から獲得した手応え」と「マニュアル通りの経験」では、その後の応用や進歩・考えることの深さは比較になりません。これは多くの習い事に共通する真理だと思います。
そうした経験がなければ、ぼくの写真がコンテストで、深瀬さんの目に留まることもなかったのではないでしょうか。写真のおもしろさがわかることもなかったかもしれません。写真が好きになって変わったこと、見えるようになってきたこと、考えられるようになったこともたくさんあります。
「自ら学ぼうとすること」、「自ら学ぶこと」、「学ぶことを嫌いにならないこと」は、こうしたささやかな体験にも現れてきて、そのちょっとした積み重ねが僕たちの人生のふくらみや深さを形作るのではないか。生きていくことの手応えや豊かさをもたらしてくれるのではないか。年齢を重ねた今、心の底からそう観じています。
フォアグラ授業や熱意のない学習指導がもたらす「学び」に対する嫌悪感や徒労感から子どもたちを解放しましょう。お父さん・お母さんそして指導する先生の思いひとつで、子どもたちは大きく羽ばたきはじめます。
仕事や日常生活を問わず、日々「新しい問題」に出会い、悩み、格闘しているのが、ぼくたちの現実です。それを解決に導ける唯一の方法が「自ら学ぶこと」です。子どもたちには、その「唯一」を習得してもらわなければなりません。これは子どもを育てるおとなの義務であり、おとなに育てるための責任だと思います。
お父さんやお母さんも、「嫌々」や「遠慮しながら」というレベルではなく、彼らの輝かしい未来のために、「学ぶこと」「学べること」をたいせつにしなければならないこと、それは「子どもたち自身のためである」こと。そのことを念頭に置き、「まず自らの過去を振り返り、何を話し、何を伝えるのかを考えていく」とよいのではないでしょうか。「先輩」のその反省や成功体験、是非を問わない「心からの一言」は子どもたちへの何よりの応援メッセージであり、大きな力を生み出すモチベーションに変わると思います。
自らの経験に基づく情報であろうと、伝記や書籍からの情報であろうとも、「受験や志望校選択」の前に、まずたいせつなことは「学ぶこと」であるという真実。子どもたちに関わるぼくたちはそれを伝えることを肝に銘じる、そのために最善の努力を払うべきだと考えています。それによって、子どもたちは自ら前を向き歩き始めます(もちろん環境によって、全員とはいきませんが、多くの子は)。
少しずつ納得していくにつれ、「勉強」に身が入っていき、子どもたちの目がキラキラしてきます。一方、彼らの目の輝きがわかるようになるにつれ、もっとおもしろいことを学んでほしい、おもしろいことを見つけ、やりたいことを見つけること、そのためにはどうしようか、そういう思いが、どんどん強くなってきます。未だ途上の立体授業の指導内容や方法は、そうして変化を遂げていきます。
来週は、もう一つの問題点、小学受験した子の「悪習」の一例、そして立体授業の果たした役割を考えてみます。
なお、学習探偵団では新入生を募集しています。
腕白ゼミ(特進2年生・3年生)・基礎課程・充実課程・発展課程(それぞれ若干名)。
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