『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

立体授業とは何か? ⑮

2015年02月28日 | 学ぶ

「フォアグラ受験勉強」は粗大ごみ
 近隣の小学生を相手にはじめた小さな塾ですが、団には小学受験を済ませた子・「定評ある(!)大手進学塾」の「受験指導」で、勉強に嫌気がさしたり、挫折した子も来ます。塾通いがはじめてであれば、「必要以上に過保護にされている子」以外、指導はそれほど問題ありません。が、フォアグラ受験塾転塾組・小学受験組は、ほとんど共通の学習トラブルや問題を抱えています

 まず、学習に対する「嫌悪感」「拒否感」「不信感」の存在です。むずかしいことでも、ともかく考えてみようという姿勢・やる気の欠如です(*印参照)。その原因は「勉強しなければならない意味」や「学ぶおもしろさ」をわからないまま、テキストのみ頼りの「抽象の詰め込み」をされたことと「長時間の宿題」によるものです。(*印 同じ姿勢は過保護・甘えが原因でもよく見られます。つまり、一人ですることや考えることが苦手、依頼心の強い子に育ってしまった場合
 落ち着いてイメージすれば誰にもわかりますが、「やる意味」・「おもしろさ」もわからないまま、長時間の「仕事」を毎日つづけさせられて、何年間もがんばり通せる人はいますか? いたとしても、それは「家庭や子どもというかけがえのない存在を守らなければならないという義務感や責任感があるから」だと思います。また生計を維持するための「収入」を手にすることができるからでしょう。

 しかし、子どもは家庭を維持しているわけではないし、一定の収入が必要なわけでもありません。「抽象的な」学習を続けるには、そのためのモチベーション、「学習する意味」の確認や「学ぶおもしろさ」が欠かせません。今のままだと、多くの子どもたちは「おもしろさもわからない」まま、「先の見えない勉強」を、「収入も何も手にすることなく(得るものなく)受験までつづける」ことになるわけです
 「目的は受験合格のみ」、他の目標や目的が見えず、いやがる子どもたちに、お父さん・お母さんは「遠慮しながら」おべっかを使い、ほしがるものを何でも与え、「フォアグラ受験塾」に通わせつづける・・・つまり、「受験以外の目標が見えず甘やかされたまま」、「学校でも競争のたいせつさを教えられないままの覇気のなさ」、「塾では受験から離して学習を考えることができないし、学校での学習指導は中途半端」・・・それが子どもたちの現状ではないでしょうか? こどもたちにほんとうに与えなければならないもの。それはゲームやお小遣いではなく「学ぶ意味」と「学ぶおもしろさ」です

 難関受験塾では「良い学校へというプライドをくすぐるぐらいで」学習する意味を伝えないまま「フォアグラ定型指導」をつづけるが、「一部の優秀な子を除き」理解が行き届かないままの子どもたちに「抽象的な学習内容」を次から次と詰め込み、不足分は「膨大な」家庭学習に依存しつづける・・・その一方では、不条理な学習に戸惑う、あるいは反抗を重ねる子どもたちの顔色をうかがい甘やかしながら、追随していくお父さん・お母さん。
 厳しい言い方ですが、「団を訪れてくれるフォアグラ塾出身者」を見ていると、そう判断できます。「勉強が嫌いな『甘えた』」をつくるには「最良(!)の方法」です。「フォアグラ受験勉強」がもたらすもの。それは、『大学入学以降はゴミ箱行き』の「学びのしくみ」です。

子どもたちには、まず何を伝えるべきか?
 塾や学校の先生・お父さん・お母さん、こどもを指導する人が、まず伝えなくてはならないことは、「学習すること(勉強することでもいいですが)が、生きていく上で一生たいせつになるものであるし、しなければならないことである」という当たり前の認識です。そのたいせつさをきちんと伝えることができているでしょうか?
 「学ぶこと」や「勉強」に「嫌悪感」や「拒否感」や「挫折感」を被せてしまえば、子どもたちの将来の可能性は大きくそがれてしまうのは必定です。「学ぶこと」を面倒くさがったり、苦手意識をもってしまえば、子どもたちの輝かしい未来や成長を望むことはむずかしくなります。 

 「本で読む・調べる・考える」という、ごく基本的な行為をごくあたりまえのこととして行える、初めての遭遇でも課題解決に向かって前進することができる、そういう姿勢と成長を目標にしなければならない、そう思います。おとなとして自立するためにたいせつな条件です。
 写真家の深瀬昌久さんに激励を受けた趣味のことについては以前触れました。ある日、古本屋のカメラ雑誌で写真コンテストに出会い、写真を始めようと思ったのですが、ぼくの中では、「学校に行こうと」か「誰かに教えを請おう」とかいうアイデアはまったく浮かんできませんでした。まず始めたのが中古のカメラを手に入れること(もちろんアナログです)と、現像要領を学べる本探しでした。それによって必要なもの・必要なことを調べ、ひとつずつ手に入れ、試行錯誤をくり返していきました。

 「習えば早いじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、そうとばかりは言えません。「試行錯誤をして失敗の中から獲得した手応え」と「マニュアル通りの経験」では、その後の応用や進歩・考えることの深さは比較になりません。これは多くの習い事に共通する真理だと思います。
 そうした経験がなければ、ぼくの写真がコンテストで、深瀬さんの目に留まることもなかったのではないでしょうか。写真のおもしろさがわかることもなかったかもしれません。写真が好きになって変わったこと、見えるようになってきたこと、考えられるようになったこともたくさんあります。
 「自ら学ぼうとすること」、「自ら学ぶこと」、「学ぶことを嫌いにならないこと」は、こうしたささやかな体験にも現れてきて、そのちょっとした積み重ねが僕たちの人生のふくらみや深さを形作るのではないか。生きていくことの手応えや豊かさをもたらしてくれるのではないか。年齢を重ねた今、心の底からそう観じています。

 フォアグラ授業や熱意のない学習指導がもたらす「学び」に対する嫌悪感や徒労感から子どもたちを解放しましょう。お父さん・お母さんそして指導する先生の思いひとつで、子どもたちは大きく羽ばたきはじめます。
 仕事や日常生活を問わず、日々「新しい問題」に出会い、悩み、格闘しているのが、ぼくたちの現実です。それを解決に導ける唯一の方法が「自ら学ぶこと」です。子どもたちには、その「唯一」を習得してもらわなければなりません。これは子どもを育てるおとなの義務であり、おとなに育てるための責任だと思います。

 お父さんやお母さんも、「嫌々」や「遠慮しながら」というレベルではなく、彼らの輝かしい未来のために、「学ぶこと」「学べること」をたいせつにしなければならないこと、それは「子どもたち自身のためである」こと。そのことを念頭に置き、「まず自らの過去を振り返り、何を話し、何を伝えるのかを考えていく」とよいのではないでしょうか。「先輩」のその反省や成功体験、是非を問わない「心からの一言」は子どもたちへの何よりの応援メッセージであり、大きな力を生み出すモチベーションに変わると思います。
 自らの経験に基づく情報であろうと、伝記や書籍からの情報であろうとも、「受験や志望校選択」の前に、まずたいせつなことは「学ぶこと」であるという真実。子どもたちに関わるぼくたちはそれを伝えることを肝に銘じる、そのために最善の努力を払うべきだと考えています。それによって、子どもたちは自ら前を向き歩き始めます(もちろん環境によって、全員とはいきませんが、多くの子は)。

 少しずつ納得していくにつれ、「勉強」に身が入っていき、子どもたちの目がキラキラしてきます。一方、彼らの目の輝きがわかるようになるにつれ、もっとおもしろいことを学んでほしい、おもしろいことを見つけ、やりたいことを見つけること、そのためにはどうしようか、そういう思いが、どんどん強くなってきます。未だ途上の立体授業の指導内容や方法は、そうして変化を遂げていきます。
 来週は、もう一つの問題点、小学受験した子の「悪習」の一例、そして立体授業の果たした役割を考えてみます。

なお、学習探偵団では新入生を募集しています。
 腕白ゼミ(特進2年生・3年生)・基礎課程・充実課程・発展課程(それぞれ若干名)。
 卒業生のようす・クラス編成・指導法は、ブログ各編・ホームページをごらんください。 


立体授業とは何か? ⑭

2015年02月21日 | 学ぶ

黒い石は「ただの石」?
 課外学習の行程、教室から駅までの通りや道沿いの風物、草や木にも、目を留めれば子どもたちが興味や好奇心をひかれるものがあること、子どもたちの「環覚」を育てたり、磨いたりすることができる「指導材料」が隠れていることをお伝えしました。

 目的地に行けば砂利道の石ころに隠れているもっと貴重なものが見つかることもあります。いずれも、気をつけて見なければ「ただの黒い石」にしか見えませんが、石器加工途中のサヌカイトの破片や小さな原石、古い時代の瓦や土器の破片等・・・。見つかったものは、大人から見れば「がらくた(!)同然」でも、子どもたちの学習の行く末を考えれば、これ以上ない『宝物』です


 発見のひとつひとつが子どもたちの学習の「次のステージ」への階段を準備してくれるからです。抽象に終始しがちな机上の「テキスト学習のイメージの補完」をしてくれます。調べた結果が仮に「ただの石」であっても、「それを調べる過程や経験」と「その間引き起こされた興味や好奇心」が、子どもたちの「以後の学習に対するモチベーション」になっていくことが期待できます。かけがえのない発見です

 ふだんの生活でも、「ものに感じ、ものに気づく」という感覚(つまり「環覚」)が身につけば、子どもたちの「観察する機会」が増えます。おもしろいものや不思議なことにであうチャンスが生まれ、「しょうもない草」や「ただの石」という感覚、退屈で「無感動な日常」から脱出することが出来ます。「考える力」が育つことが期待できます。

 時宜を外さず、お父さんやお母さん・指導者が「疑問」や「不思議」で問いかけ、きっかけをつくれば、考え・調べ・究明する中から、対象や事象の「なりたちとしくみ」を知ることができます。「なりたちとしくみ」を知っていくことは、こどもたちが「名前やまとめ」の羅列という、抽象的な学習のつまらなさを克服するための、最善の方法ではないでしょうか? 「なりたちとしくみ」がわかれば、暗記だけでは終わりません。「しくみ」は利用したり、応用したり、使うことができるからです。

 一方で、ものづくりを始めていれば、その経験から工夫やアイデアが生まれます。「創造や発見」というクリエイティブな行為の端緒です。つまり「見て、考えて、作って・・・」という一連の行動のパターンが子どもたちの成長には、もっともたいせつなのではないでしょうか。エジソンのお母さん・ファインマンのお父さんとのやり取りと成長の過程が、子どもたちの成長の「たいせつなしくみ」を暗示しています。

「なりたちとしくみ」を究めるーてこと自転車
 昨年、「自転車の組み立て」を立体授業で取りあげましたが、最も身近な乗り物である自転車も、その「なりたちとしくみ」は、「初歩の物理」が抽象に終わらずおもしろく展開する「宝の山」です。 
 ペダルのイラスト(だけ!?)が、『てこの原理』の学習用に取りあげられますが、ハンドルやチェーンのしくみとはたらき・ブレーキなど、多様に『てこ』が使われています。

 タイヤや付属部品も仲間に入れれば、『電気』が登場し、『光』が登場し、『摩擦』が登場します。そのはたらきやしくみを「ていねいに」調べれば、理科の学習の大半をカバーする指導材料になるかも知れません。
 「てこの原理」を「教科書のイラストで学び計算問題を解答させる」学習は、受験や「テスト」が欠かせない今、必要やむをえないことかもしれません。しかし、あくまでも「抽象」と「原理」です。多くの子どもたちがおもしろがり、興味が向かうのは「『てこの原理』より『自転車』」です

 『ありきたりのもの』・『身近なもの』であるからこそ、「学習内容の重要性と親近感」を呼び起こすことが期待でき、「勉強も捨てたものじゃない」という「発見と驚き」・「おもしろさ」が生まれます。自転車はぴったりです。自転車で教える交通道徳も大切ですが、それ以上にたいせつなのは、その「なりたちとしくみ」の学習だと考えています。「立体授業」のテーマは自然体験だけではありません。
「車窓」という教科書
 さて、道すがら季節に応じた話を進めながら駅に着きました。子どもたちはそれぞれ財布を取り出し、自ら目的地までの切符を買います。子どもたちが自分の切符を管理します。

 切符をいつの間にか誰かに買ってもらうのではなく、自ら買うことで自立の意識・たいせつなものを無くさない自己管理(メタ認知)のトレーニング・順番を守る等「他の人の利用を考え迷惑をかからないようにする」という対社会のルールも身につきます
 近年、近くのコリアタウンに社会見学にくる生徒や学生をよく見かけますが、「商店街であることを忘れている」ルールに欠ける振る舞い、他者の通行の邪魔になっていることなど一向に気づかない、それでも付き添いに注意されることの少ない集団がほとんどです。

 社会的ルールや気遣いの臨機応変の指導は必要がないのでしょうか? 一事が万事、ぼくは「そういう気遣いは、あらゆる社会的行動にも通じる気遣いであると考えています。駅のホームで待っているときはもちろん、電車の乗り降りの際も、子どもたちがエチケットやルールを覚えるよい機会であることを忘れないようにしたいと思っています。
 電車がきました。せっかくの機会、車中から見せたいものはたくさんあります。

 四季で移り変わる光の強さ・空の色と雲のようす・山の色の変化・植物の成長のようす・・・。
 「山は緑」という視点から、遠目でも針葉樹林・広葉樹・竹林という区別ができるようになっていきます。やがて車窓から朴の木や山桜はもちろん、ヒノキとスギ・広葉樹のクヌギやナラを見分けられるようになります

 こうした経験によって、「文字の」山・「教科書に出てくる」山ではなく、「立体的な」山・「生きている」山というイメージが子どもたちの頭の中で育っていきます。山を越えてくる高圧線のケーブルを見て、山々の向こうにあるダムのイメージを手にすることもできます。
 これらがすべて里山・森林問題・公害問題・稲づくり・漁業・・・と、「山に関わるテキストによる学習」を立体的に補完してくれます。ふだんの授業でも「この間のサア・・・」という「振り」をすればイメージが想起され、子どもたちの理解には強力な援軍になります。

 小さい頃から乗り、通勤生活でもよく利用した近鉄線の沿線風景は、指導のさらなる情報を提供してくれます。大阪と奈良の境で山腹の斜面を占領しているぶどう畑は生育の条件を子どもたちに思い起こさせるには絶好です。大和川の鉄橋をわたれば、川の汚染をテーマにできます。

 トンネルを過ぎ奈良県に入ると、キジの夫婦が春によく顔を見せるポイントがあり、桃太郎や古典に出てくる鳥にであえることがあります。近くの土手に今は貴重な笹百合(数本です)が見られる所もあり、遠くの二上山は古来多くの和歌で有名です。
 季節に応じて子どもたちを呼び寄せ、それらを伝えます。前回も伝えましたが、「車窓風景」という「マス」でしか見えないと「環覚」は育ちにくいのですが、スポットで対象に注意を促し回数を重ねていくと、次第におもしろいものに自ら目を留められるようになります

 車内で子どもたちは、よく最後尾の車掌室の窓から遠ざかる景色を見に行きますが、線路が彼方に消えていく光景は、「遠近法の視点」や「平行」の学習材料になります。途中特急に追い抜かれたり、隣で行き違ったりする電車の風景は、「通過算」のよいイメージづくりになります。
 「環覚」が整うと、学習と日常生活が身近になります。体験が少ないと、また「対象に気づく目」がないとイメージの補強が難しくわかりにくいのですが、そういう状態を克服できる手だてが増えてくるということになります

 大人は『知っているつもり(!)』でも、子どもたちの周りは知らないことばかりであるという認識を決して忘れてはならない。通学路であれ、校庭の片隅であれ、遠出の車窓であれ、子どもたちの体験すべて、「ただの石」や「しょうもない草」で終わらないようにしなければと考えています。
 なお、植物の分類等の写真は、いつものように「小学館の図鑑NEO植物」、「どんぐりの図鑑」(北川尚史監修・伊藤ふくお著・トンボ出版)、「どんぐりハンドブック」(いわさゆうこ著・八田洋章監修・文一総合出版)を利用させていただきました。ありがとうございました。

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立体授業とは何か? ⑬

2015年02月14日 | 学ぶ

知りたくなる気持ちはどうして生まれるか?
 「土筆ハイク」の往来での「子どもたちとのやり取り」、原点に戻ります。

 周囲・環境に目を向け、おもしろさを感じ、ふしぎなものや興味あるものを見つけられるようになる(「環覚」を育てる)こと。「勉強が決して、机上のテストのためだけに暗記を重ねるものではないこと」、つまり「考えるため」の材料に満ちていて「おもしろくなる要素がいっぱい詰まっているもの」であることに気づくこと。それが指導の大きな目的です。
 ひいては「学ぶこと」や「学問すること」の本流に身を任せられる」ようになってほしい・・・これは子どもたちに対する僕の夢です。
 

 そのためには、道に転がっている石ころが『ただの石ころ』ではいけないし、道ばたに生えている草が『しょうもない草』であってはならない、その存在を認め、微妙なちがいに気づき・・・ということが始まらなくてはなりません
 ぼくたちが「もっと知りたくなる(!)」のはどんなときか? それは友達になったり、好意をもったりしたときではないでしょうか? 

つまり、その存在を認めたときです。それが、さらなる興味や関心を誘発します町往くヒトが「マス」としてしか見えなければ、「個人が見えないまま」であれば「付き合い」は始まらないし、来歴や過去にも興味はもてません
 「多くの子どもたちの今の勉強」を例えると、「架空の(!)単子葉植物」のイラストはテキストで知っていても、街路樹の根元にも猫じゃらしがよく生えていることには気づいていない(目を向けられない)、また、猫じゃらしを見ても『単子葉植物』であることに「気づかない」という関係です。エノコログサには種類がたくさんあるのに、どれも同じものにしか見えない、という関係です

 これでは、学ぶおもしろさは始まりません。その結果、親も子も偏差値や点数や合格『だけ』が大切になり、おもしろさや知りたい心が始まらないまま、「しんどいだけの勉強」が終わる、ということになります
 「次を知りたい・もっとわかりたい心」は、小さい頃に「学ぶおもしろさ」を手に入れることで生まれてきます。小さい頃から「受験学習」しか知らず、詰め込み詰め込みの『フォアグラ指導』では決して手に入れることは出来ません。どんな意味においても生きていく上で、欠かすことが出来ない知的好奇心や学ぶおもしろさがわからない子どもが生まれて当然です。

 さらに悪いこと(!?)に合格すれば、その「受験学習ストレスの反動」と「一瞬の達成感と目標消失による気の緩み」が、難関中高一貫校進学後の「大学受験半数浪人」に結びつくのではないのか。本来なら中高の六年間で『学ぶおもしろさ』を追究した結果の大学進学になるはずの予定が・・・これはぼくの半生を振り返っての苦い体験でもあります。
 「学ぶおもしろさ」と表裏の「知りたい心」は、まず「気づく」「注目できる」ところから始まります。最初からそれが出来る子は、ほとんどいません。周囲が目を向け、関わって出来るようになります。それが「環覚の育成」です。「指導」のスタートラインです。

 出会い、注目することから、「知り合い」になる・・・その過程で「誰か」が「ファインマンのお父さん」や「エジソンのお母さん」の役割をする(ブログ「ファインマン・・・」を参照してください)ことで、「もっと知りたくなる」が始まります。さらに「わかること」が増えてくることで、学ぶおもしろさがわかり、モチベーションがあがり、脳のはたらきが盛んになり、より高度になる・・・それが本来の学習の流れだとぼくは考え、子どもたちと追いつづけています。
 環覚をどう育てるのかーイチジクの花
 さて、「土筆ハイク」など課外学習の道筋で、コケや桐などの木々についての指導展開をお伝えしましたが、ここで少し「気づき」とふだんの授業からの切り口について考えてみます。

 腕白ゼミという三年生のクラスがあります。国語と算数の学習の合間に自然探索の時間を設け、近くの公園や神社を訪れています。次の写真はそのとき通る道のひとつで、いずれも同じ日に同じ場所でとったものです。

 左の最初の写真ではイチジクが見えません。ところが次の写真ではイチジクの存在がはっきり確認できます。このように少しの画角の変化で大きく変わります。また、タイミングや植物に対する興味、ペースでも結果は違ってきます。植物に興味のある人や環境に対して環覚が育ってきた人は、下のようにイチジクがはっきりその存在を主張するようになるのです。

 おもしろいものを見つけられる「環覚」が育つというのは、この上の写真のような見方から、下のようにとらえられるようになることだと考えることができると思います。はっきり見えませんが、上の写真にも、よく見ればイチジクは写っています。しかし、植物に興味がなかったり、知らなければ、ただの草むらにしか見えません。
 以前課外授業で道を歩くときのペースについてお伝えしましたが、「環覚」を身につけたり、養成する際にたいせつなリズムは「ゆっくリズム」と「立ち止まりズム」・「振りかえリズム」です。例えば、自動車ではもちろん、ゆっくり走る自転車でも、少し速すぎます。ふだんでも周りに目を配りながら、季節感があるもの・おもしろいものに目を向ける習慣をつづけることで、子どもたちは次第に興味があるものに目を向けられるようになります。

 ちなみに、かつて三年生の腕白ゼミの授業ではじめてこの道を通りかかったときも、ほとんどの子がイチジクに気がつきました。体験学習で訪れる郊外には必ずどこかに、イチジクの木があります。田舎では庭の片隅に植えてあることもよくあるからです。気づいたのはイチジクを見分ける目ができたからです。緑一色や草むらという意識から脱け出し、おもしろいものを見つける目が育ってきていると言えるでしょう。
 こうして見つけるイチジクは、子どもたちの興味をひきだし、「ただの木」も、実はおもしろいことを知らせる格好の教材になります。

 「みんな、イチジクの花って知ってる?」
  
 「いつ咲くねやろな? 咲いてるとこ、見たことあるか?」

 問いかけに、子どもたちは記憶を辿りますが、いくら考えても思い出せません。

 イチジクの木は見ても、花を見た経験はないからです。ぼくたちは写真のように、いつもイチジクの花を食べているからです。
 はじめて知る子どもたちはびっくりします。子どもたちの「花に対するイメージ」が大きく変わります。新鮮な印象とともに、植物に対する興味が少し立ち上がってきます。

 「花とは何か」という問いが、そこから生まれてきます。花のもっている意味、姿、形・・・単に教科書で完全花・不完全花のイラストで区別を暗記するのとはまったくちがった感覚がそこから生まれます。

  このように、道端のイチジクからでも、さまざまな可能性を広げながら、多彩な方向に指導を展開できます・・・無花果という漢字の意味・花のつくり・イチジクとイチジクコバチの共進化・果物や野菜の「食べる部分」・イチジクの増やし方・天狗のうちわに似た葉の形・クワ科の植物から蚕へ・実をとると出てくる白い乳液からゴムの木へ、あるいはタンポポへ・・・。ちなみに僕はまず切って見せることからはじめました。

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立体授業とは何か? ⑫

2015年02月07日 | 学ぶ

子どもたちは何から学んだか?
 かつて、子どもたちは何から学んだか? 

 ぼくが育ったのは、当時の片田舎の多くがそうであったような、「着るものはもちろん、食べることもぜいたくは言えず、おやつは月に数回あればいい方」という時代でした。テレビがあるのは何十軒のうち数軒。現在の子どもたちとちがって、お小遣いもなく(田舎にはお店もありませんでした!)、遊具や施設も整っていない。すべてが不足していた時代でした。

 そのなかで子どもたちが出来ることと言えば、自らの周囲や目の前にあるものを使って遊ぶことだけです。当時はその不足を恨んだものですが、今は、その環境や方法をうまく活かす指導者がいれば、おもしろく遊べるだけではなく、「勉強」にも大きな実りを期待できる時代だったのではないか、という気がします。

 「今日は何をどうしたいか」、それにふさわしい場所や材料・めぼしいものを見つけ出すことから遊びは始まりました。テーマ・ロケーション・方法・道具・登場人物・・・考えてみれば、毎日連続ドラマをつくっているようなものです。

 低学年は野球のバットやボールも竹や端切れの手作りで、ボールが高く上がることや遠くへ飛ぶことはほとんどなく、それでも愉快に遊んでいました。バットに限らず、弓矢や木刀・水鉄砲・竹トンボ・・・すべて手作りです。タニシやドジョウ・土筆やキノコは収穫が遊びで、その後祖母の手によって副菜に変わりました。

 自分で遊び道具を作ろうとすれば怪我はつきものです。刃物を使うには細心の注意を払わなければならないことが、子どもの時から体験できました。身に危険をともなう行動はメタ認知のはたらきも促します。さらに、毎日作業をくり返していくと工夫する技量が身につき、工夫するたいせつさがわかり、よいアイデアも浮かんできます。

 仲間と競争をする中で、「よりおもしろく、より多く、より強く、より遠く、より早く・・・」という試みに目覚めます。友だちを出し抜く面白さ。向上や上達を図る積極性が生まれます。職人仕事や日頃の手作業を思い浮かべると、その辺りの事情はよくわかるのではないでしょうか。
 遊びがたくさんのことを教えてくれました。今、ぼくが課外学習や立体授業で子どもたちに伝えられる「遊び」はそうした中で覚えたものです。
 

子どもたちは何を学んだのか?
 現在の子どもたちの遊びのように、完成品を買ってもらってばかりでは、つくりあげる喜びはわからず、自信も手に入りません。ところが、子どもたちに、次の積極的な行動を促すのは、喜びと自信です

 今は「手先を使い、できあがりをイメージしながら行う」という作業が「たいせつな前頭葉の働きの強化に大きく寄与すること」が明らかになっています。子どもの時からの「イメージし作りあげる」という作業が、その後の行動や成長にも少なからず影響を及ぼすことは容易に想像できます。作る喜びを知らず自信がなければ、自ら環境や周囲に関わり材料を探し、手を加え改善する、改良を施すという積極的な姿勢や習慣も育ちません。

 つまり、「何でも買えばいい、壊れたら新しく買い換えればよい」のではなく、ものに対峙し状態を観察し、成り立ちやしくみを知る。見極める。その経験によって手を加えたり修理したりすることも始まります。ファインマンが少年時代、電気器具の修理で小遣い銭まで稼いでいたことが思い起こされます。
 この話の展開によって、「僕たちの時代、昔の方がよかった」と言いたいわけではありません。遊びの中に、まぎれもなく「子どもたちの健やかな成長のしくみ」が整っていたことを伝えたいのです。

 それらを経験することによって、周囲や環境のsomethingがもっと「自己主張」し、子どもたちの身近になること、周囲や環境と関わることによって、気づき、考え、行動することが始まることを期待しています。覚えることや考えること・学べることが増えてくると、次はおもしろさが始まります。団のOB諸君の成長のようすを見ていると、それがよく実感できます。

私感・「環覚」が結実しない理由
 ところで僕たちの頃、田舎には自然体験が豊富で、さまざまなことを知っていた子どもたちが多かったと思います。それがなぜ研究や発明・発見に結びつかなかったのか。今のぼくの考え方なら、すごいことになっているはずではないのか? そう思われる方がいるかもしれません。

 今、ぼくはそうならなかった理由がよくわかります。「ファインマンのお父さんやエジソンのお母さんがいなかったから」です(ブログ『ファインマンの父とエジソンの母』を参照してください)。「不思議なこと」を見つけても、「おもしろいこと」に気づいても、何も解釈・解決されないまま、つまりおもしろさがわからないまま、その記憶は片隅に追いやられ『不思議は実らず、不思議で終わってしまったから』です

 子どもたちの「環覚」は潜在的にそれなりに整っていても、それを結実させる環境が整っていなかった、ということだと思います。そんな家庭や先生に恵まれている人たちが少なかったということです。先ほど話したように、貧しかった家や学校では本も用意できないし、現在のように「不思議」や「なぜ」をうまく解明してくれる先生は少なく、良書も少なく、あれこれ余裕がない分、その啓蒙活動も足りなく、実らなかったのでしょう。生い立ちを読むと、その恵まれた少ない例の代表がノーベル賞学者の福井博士や白川博士・益川博士などでしょう。

 今は事情が真逆です。すばらしい本は十分出版されているが、「子どもたちの『環覚』が整わないので興味や好奇心が向かわない」、「それらとリンクしない」ということでしょう。子どもたちの『環覚』を整えれば「学びの状況は大きく変わる」と考えるゆえんです。
 「通り」であろうと「田舎」であろうと、子どもたちには「すべて目的地!」になるような指導を目指しませんか。子どもたちの「環覚」を整える一助になるように。

昔の遊びから
 さて、今回は団で子どもたちに伝えている「昔の遊び」を少し紹介しました。課外学習で田舎に出かけた時、そこで「何をすればよいのか」、子どもたちが集まると「何を始めたらよいか」のヒントにしてください。環境に目覚める「きっかけ」ができると思います。

 以上の古い写真・遊びのイラストは先に表紙で紹介した書籍(「グラフィックカラー昭和史〈特別編〉昭和の子どもたち④遊びと仲間」学習研究社・「昭和子ども図鑑」文 奥成 達 絵ながたはるみ・「なつかしの小学一年生」熊谷元一著 河出書房新社より。

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