「いただきます」の心
・・・「人は生命あるものを食べて生きざるを得ない」という認識があってはじめて、「人を思う心」や「心からの優しさ」が育つはずだと、ぼくは信じています。「生命あるもの」を食べている営みを学ぶ一例が今回のトラフグ料理です・・・前回の一節です。
言いかえれば、これは「いただきます」の心です。「いただきます」というあいさつは未だ多くの家庭で「健在」でしょう。しかし、その中身はどうでしょう?
「生命をいただいていること」の「有り難み」が、どこまで子どもたちに伝わっているでしょうか? 「飽食の時代」といわれて久しいですが、家庭や日ごろの生活のなかで、まだ「本当のいただきます」は生きているでしょうか?
「切り身や出来合いのものを買ってきて、お皿に並べて」という毎日の食事。「生きものの生命」と、「それを背負わなければならない自らの生命」の重さ、そしてたいせつさを感じることができているでしょうか? 自らと他の命のたいせつさを背負って、人としての考え方や生き方を振りかえる環境は整っているでしょうか? 心からの優しさが育つはずの「下準備!」はできているでしょうか?
今は忘れられている「子育ての原点」です。小さいころから「生きもの本来の姿・形が見えないなかで育っている子どもたち」が、「生命をいただいているという感覚」を身につけることは不可能に近い。そう思えてなりません。
「食事は金で買うもの」ではありません。「他の生きものの生命をいただくもの」なのです。
「生死」が教えてくれること
かつて子どもたちは「生死の只中」で生きていました。
野に出れば小動物の生死はもちろん、カエルやネズミを飲み込むヘビ、梢で「はやにえ」になって風に吹かれるバッタやトカゲ。
まだ銃規制がそれほど厳しくなかったあの当時、中折れ式の空気銃で小鳥をねらう、やんちゃな子どもたちも決して珍しくありません。そういうぼくも、一週間あまり従兄に借りていた鉄砲で興味本位にウグイスを撃ってしまい、情景が頭に焼き付いています。小さな痛みになっています。
栄養補給の卵を手に入れるためヒヨコから育てたニワトリは、老齢で用済みになると子どもたちの目の前で解体され、「ハレの日」の食卓に並びました。近くの魚屋さんでは海で泳いでいるときの姿のまま魚たちが「ヒバ」の上で並び、客の注文に応じて切り分けられるようすを、手を引かれた子どもたちがあたりまえのように目にしました。
人も同じです。病に伏した病人や老人がいる家は珍しくなく、家からの野辺送り。新しい小さな命を迎えるのも、近くの産婆さんや家族が準備する産湯、そして胸の高鳴りを押さえきれない子どもたちでした。
こうした環境によって、生と死は子どもたちの心に、いつの間にかきちんと収まっていったように思います。生命には「始まりと終わりがある」、「寿命があるということ」を納得せざるを得ない、心に落とさざるを得ない環境でした。
ところが、今はどうでしょう?
薬や栄養補助食品、医療関連のコマーシャル・・・テレビ番組の数々。数限りなく日々放映されているテレビ番組のなかで、「生命の限り」を見せて、そのたいせつさを考えざるを得ない、かけがえの無さを見つめることができる番組はいくつ見つかるでしょうか? さらに映像がもつ「そもそもの限界」。「他人事のような感覚」、また「どんなできごとであろうと、第三者的な手応えに鈍磨してしまう感覚」から逃れうることは至難の業です。
たまに流れる番組も、骨子は、生命を正面から見るのではなく、逆に「大人をも怖がらせて死から目をそらさせる」番組、またそれとは比較にはならない数が流れるコマーシャルも、あたかも「永遠の健康や生命を可能にする」ようなキャッチコピー、惹句の氾濫です。
死なない人はいません。 ではありませんか? 商魂のたくましさによって、「限りある命」まで忘れさせられてしまっているのが現状です。
「生死」の現実や寿命の手応えのないなかで、はたして子どもたちにとっての「一日」や「一時間」はどれだけ意味をもつでしょうか? こうした環境で育った感覚の「ずれ」を自らも振り返り、まずお父さん・お母さんが時間のたいせつさの意識を修正すべきではないでしょうか? 「目標」や「時間」や「今」のたいせつさを子どもたちに伝えるべきではないでしょうか。その中にあるのが生活や学習です。
「天国へ逝くフグ」を見る目ー環覚の育成
さて、今回紹介したトラフグ調理の写真の子どもたちの表情の変化(特に目)に注目してください。写真は調理過程順に掲載してあります。
まず最初。生きて元気に動いている「トラフグ」をしめて飛ぶ血に悲鳴さえ上がります①。こわごわ三井先生の包丁さばきを見ているうちに、子どもたちは怖さより好奇心の方が先に立ちます。のめり込みます。怖さは一瞬です②。切り分けにも次第に慣れてきて、「人が食べる姿」にきれいに整えられていくフグの変化のようすに興味津々です③。
同じ変化は、赤目渓流教室で子どもたちが自ら小魚をさばいていく経緯にも見られます④。最初はこわくても、次第に落ち着き、その過程を好奇心いっぱいに追う。つまり生きている魚が食べるために調理されていく過程をきちんと見届けることができます。
魚にはもちろん目があり、鰭があり、エラがあり、骨格があり・・・とつぶさに観察もできるわけです⑤。その過程では目や内臓に毒! があることや、エラの役割、多くの魚ではふつうエラを食べない理由、フグのひれを干してお父さんの大好きなひれ酒に使うなど、興味引かれる情報が「てんこ盛り」です。そして、最後の「いただきます」⑥。動・植物に対する団の指導は、こうした多くの「立体授業」とともに進んでいきます。
簡単なメダカのイラストでの受験事項の暗記学習との、魚に対する「環覚」の育ち方の比較にならない相違を納得していただけるのではないですか? 学習内容は、こうして強い印象とともに身近になります。
(なお、約一月前から「ある日」という写真をいつも1~2枚掲載しています。ぼくは昔写真にのめり込んでいたことがあります。またそのエピソードは後日紹介する予定です。)