15年前の今日僕は神戸にいた。何をしていたかというと、カップ沖縄そば、洗濯機、毛布、などの援助物資をはこんでいたのだす。有村産業の協力(船を提供)で、沖縄県民の善意を阪神方面の皆様にお届けしていた訳です。
芦屋方面、どちらかというと金持ち方面エリアは被害が少なく、下々の三宮などは壊滅的被害不公平だな~と思いつつ芦屋をベースキャンプにし、まずは炊き出し。
コーナン大学、学校当局の許可を得て炊き出しを開始しようとしたが、学生ジジ会の責任者「わしらとは関係ない今すぐ出ていけ」などとほざきおる。ボランテァ一同一瞬にして殺意の塊と化すが、ぐっと我慢し炊き出し継続の交渉を続ける。「被害のない学生の皆様におかれましては本日はお日柄もよろしゅうございます。しかるにほれ、家屋財産など一度に失ってその日のまかないなど、お困りになり、とほおに呉れておる、下々民百姓をお助り下さらんか、それには只自冶会館入り口方面一角をご提供くださるだけで、良いのでござる。」
「じゃあいいよ」の返事を聞き流し、自己チューガキは放置のまま炎の勢いで即効炊き出し開始。味噌汁、おにぎりなど配布ののち洗濯機を設置。地域の皆さんルールを守り不思議なほど平穏な空気で日本人の美徳を見せてもらった。大変な時にあわてず騒がず自己犠牲。
それから沖縄から運んできたトラックが全滅(バッテリー冬場に耐えられず)したり、トラックの荷台で夜を明かした沖縄県民遭難しそうになったり、ドラマがありました。
TVと現実の違いは臭いと音でした。焼跡の臭いの凄まじさ。震災初期に瓦礫下の被害者の息遣いや助けを求める声をかき消したのはマスコミのヘリコプター。
岡山まで鈍行列車の後新幹線で博多。電気と風呂の素晴らしさを2回も堪能した僕は翌日平和な島沖縄に帰郷。ただ、この経験があったからいい人になったかというと、何の変化もござりません阿保なままの猫に小判。すぐ忘れるバンド気質は死んでも治らないのでせおうか?
追 ハイチの皆様に平穏と幸せが早く戻りますように
BY チャーリHACHI