昭和39年 夏 沖縄県那覇市与儀交差点は、建材流通の盛んな場所であり、十字路南側与儀小学校の道向かいには材木屋、運送業者が軒を連ね、小型三輪車、馬車などか行き交う。その一本奥の通りの与儀市場には商店、旅館が混在する。視点を戻せば十字路角には一番目立つ「南方連絡事務所・現那覇警察署」があり、道向かいの道路沿いには様々な店舗が古ぼけた木造で点在し、建物の裏側は原っぱで(現与儀公園)子供たちの遊び場である。
もうひとつ目につくのはパイプラインの黒いコンクリートブロック製の箱であり、これは米軍が燃料を那覇軍港から嘉手納基地まで地下のパイプによって輸送する施設で、この箱は点検口の役割だったと思われる。現在箱はほとんど撤去されて残っていないが、宜野湾市にはパイプライン通りの名称だけが残されている。
再度視点を十字路に戻すと、南方連絡事務所の後ろ側に「琉米文化会館・現赤十字病院」があり、施設の目的は米国市民と琉球国民の交流の場としての定義付けとしての開設。
が、当時小学2年生(多分)の私には関心外であり、時々会館内の図書館で本のインクの香りでアメリカを想像する位が関の山で、関心はもっぱら建物周辺を1周する犬走りにあった。
実はこの場所ローラースケートするには最高の場所である。かなり五月蠅かったと思うが、大らかなアメリカ人スタッフ、取り立てて怒る事も無く黙認してくれていた。でも、せこいと言うか用心深い小学生は、ならべくアメリカ―との未知との遭遇を避け滑る滑る。夢中で滑る。
滑り終えてへとへとになり、スケートを脱ぎ右手に下げて帰ろうとする私の視線には、大きな革靴とスーツのズボン。
「コリヤ、ナーン、デー、スカイ」
白人男性推定年齢55歳以上身長2メートル青目ネクタイ着用白ワイシャツが黄色人種少年年齢8歳身長1メートル20センチ位黒目ぼっちゃん刈りランニング半ズボンに声をかけてきた瞬間です。
本人はにこやかに微笑みしつつ、優しく声掛けしたつもりであるが私はいきなりの出来事にパニック。一瞬で固まり「あ~う^」アメリカ―、こちらの反応が無いのでさらに
「コレ、コレ、ナーンデースカ」
ああ、読者の皆様、パ二くる小学生の脳髄内部に、冷静に問題処理機能が活動開始したことを驚愕の眼差しで見守って頂きたい。なんだなんだなんだ・・・英語か?ちがうちがう日本語だ、jbsヴぃsv:dbjv:・・・・わかった!!「これは何ですか?」だ。
「ろ~ら~すけ~と」(蚊の鳴くような小声で)
「ロ~ラ~?、OH!! ROLLER SKATS!! GOOD BOY WAHAHA」
初めてのアメリカ―との会話。」
それから20年後 ロス にて初めての金髪青目女性推定年齢22歳ジュディに
「これは私が初めての白い女です。青目と金髪が美しすぎてメクラになります。とても遠い日本から来ましたし、来るでしょうこの為に。とっても間抜けな今の私です。死ぬまで生きていますが死ぬまで忘れない思い出になる事をこころの底から欲望します。」と言い、
「なんて可愛い人なの」とハグされ、彼女のうなじの金髪の産毛が綺麗だねと薄っすら思う日が来るとはね。

栄町ラボにて。