テレビ離れが著しいらしい。
ネットの普及で、情報が多種多様となり、日本のマスメディアの劣化もまた指摘されることが多い。
垂れ流しや押し付けの受け入れ、その関係でしかなかったのだから、当然と言えば当然だ。
実際お客さんからも、そんな話をよく耳にする。
自分とて、仕事柄もありテレビ離れして幾久しい。
だからと言って困った事など一度もない。
確かに国力と報道の許容量は等しい関係にはある。
国家を地域や職場やご近所付き合い等、生活環境に置き換えれば分かりやすい。
言わずが無難な真実もたくさんある。
国家レベル、社会レベル、地域レベルじゃ程度が違うとしても、所詮元は人間が作り出す構造である。
しかし、少なくとも自分の中では、環境が許す許容の中で、どれだけ真実を見つけられるか否かで、生き方の哲学には役に立ちそうな気もする。
日本のマスメディアの問題は、伝える記事の一つのセンテンス自体は嘘じゃないが、記事のテーマに対して、起こった事例だけを繋ぎ合わせ、それを報道とするから、真実はいつもすり替えられ、いつまで立っても本当が見えてこない。
やがて、真実はうやむやなままに次のテーマに鞍替えをする。
これが、日本のメディアが陳腐だと言われる理由だろう。
本当の被害者が誰なのか、その見極めはこの国では難しい。
他の国もそんなものなのだろうか。
先日テレビで、タイタニックをやっていて、ケイトのおっぱいを堪能した。
寝転がって観てたから、船は最初から傾いてもいた。
そのお陰か、ひらめいた。
これぞ人生そのものの姿ではないのかと。
いつの時代も、僕らは何やら得体の知れない大きなうねりに翻弄されながら、その中で生きていく。
それが、人間社会の真実でありもする。
時代を大海原とするならば、国家は観光船である。
国によって、船の大小はあれ、所詮はみな丸腰の観光船だ。
その観光船には上下の乗組員と上下の乗客がいる。
その観光船が遊覧中に予期せぬハプニングが起きる。
すると、まず第一ラウンドで運命は二分される。
後は運と気力である。
何を軸として生きるのか、それが個人の哲学なのではないだろうか。
ネットの普及で、情報が多種多様となり、日本のマスメディアの劣化もまた指摘されることが多い。
垂れ流しや押し付けの受け入れ、その関係でしかなかったのだから、当然と言えば当然だ。
実際お客さんからも、そんな話をよく耳にする。
自分とて、仕事柄もありテレビ離れして幾久しい。
だからと言って困った事など一度もない。
確かに国力と報道の許容量は等しい関係にはある。
国家を地域や職場やご近所付き合い等、生活環境に置き換えれば分かりやすい。
言わずが無難な真実もたくさんある。
国家レベル、社会レベル、地域レベルじゃ程度が違うとしても、所詮元は人間が作り出す構造である。
しかし、少なくとも自分の中では、環境が許す許容の中で、どれだけ真実を見つけられるか否かで、生き方の哲学には役に立ちそうな気もする。
日本のマスメディアの問題は、伝える記事の一つのセンテンス自体は嘘じゃないが、記事のテーマに対して、起こった事例だけを繋ぎ合わせ、それを報道とするから、真実はいつもすり替えられ、いつまで立っても本当が見えてこない。
やがて、真実はうやむやなままに次のテーマに鞍替えをする。
これが、日本のメディアが陳腐だと言われる理由だろう。
本当の被害者が誰なのか、その見極めはこの国では難しい。
他の国もそんなものなのだろうか。
先日テレビで、タイタニックをやっていて、ケイトのおっぱいを堪能した。
寝転がって観てたから、船は最初から傾いてもいた。
そのお陰か、ひらめいた。
これぞ人生そのものの姿ではないのかと。
いつの時代も、僕らは何やら得体の知れない大きなうねりに翻弄されながら、その中で生きていく。
それが、人間社会の真実でありもする。
時代を大海原とするならば、国家は観光船である。
国によって、船の大小はあれ、所詮はみな丸腰の観光船だ。
その観光船には上下の乗組員と上下の乗客がいる。
その観光船が遊覧中に予期せぬハプニングが起きる。
すると、まず第一ラウンドで運命は二分される。
後は運と気力である。
何を軸として生きるのか、それが個人の哲学なのではないだろうか。