さて、この年末は、満20歳となる高田馬場GLASSONION。
今年は、年明けから、"脱ブタ郎"
それをスローガンに、頑張ろうとし過ぎたダイエットの結果。
見事、腰痛…正式には、腰回り筋肉疲労からの激痛、な~んてことになりました(^^;;
その結果…
そのリハビリのために、腰を固定しながら、年末を締めくくる結末と、相成りました。👏😄🎊
2014
"腰痛&我がロッケンロール人生‼︎
おっちゃんもう歩けへん…"
(^^;;もう、無理はできん年令なんすかねぇ。
…で終わっては、あまりにも、今年の締めくくりが切ないので…、あれこれ書き残しておきま~す(^_^)
今年も、世の中では、たくさんの大事件や大事故、大きな紛争、戦争、大きな自然災害で、多くの人々が犠牲となりました。
その犠牲者の家族や友人や身近な人々の、その苦しみや悲しみは、無限大であること。
それを、決して、忘れてはならない。
そして、当然これは、イレギュラーな大事件だから、大ニュースとして、メディアが抜粋して伝えているにすぎないことも承知の上として…
震災以来、どうしても、そんなニュースを通り過ごせなくて、例え、それが全く見ず知らずの国や地域の出来事であろうと、合掌している自分がいます。
特に今年は、身近なところでも、大きな出来事が、たくさんあったからでしょうか、2014年は、とても印象に残る、大きな一年になりそうな気がします。
こうして、人生を体感することで、この世の諸行無常と、つくづく、人の有難さが身に染みるようになるものです。
と同時に、人の気持ちにも、思いを
寄せるようになるものです。
結局、それが、孔子言うところの、恕《ジョ、ゆるす、相手の気持ちを思いやる》なんでしようね。
社会に暮らすとは、白黒つけることではなく、曖昧こそがバランスなんじゃないのか、今は、とても、そう思うようになりました。
その曖昧の真ん中を、推察しながらする会話こそが、日本語の技であり、日本文化の極みなのだと思うのです。
所詮、飲み屋風情が、国だ政治だ、口にしたところで、豚に真珠みたいな会話にしかなりませんが、もしも、安倍晋三と言う国の代表に、お願いするならば…
無理に白黒つけようとすると、社会の成り立ちには、様々な要因が絡み合うから、白黒では、ただ矛盾がぶつかり合うだけで、余計に、収拾つかなくなります。
そう、問いたいと思うのです。
まあまあ~、そこそこに~とか、そんな日本語があるように、日本人は、そうしてノラリクラリと、どんな強力なパンチをも、最小限に受け止めながら、数々の難題を、上手に乗り越えてきたわけです。
戦後の日本人の賢さは、まさに、そこにあると思うのです。
パワーしか信じない奴は、相手からノラリクラリやられていると、やがて、必ずバテてきます。
必ず空きができるもんだから。
それを、待てばいいだけのこと。
日本には、武道と言う、民族の真髄があります。
これぞ、ウェイティングの妙です。
…
宮崎弁では、まぁ適当にね、それを、てげてげ、と言います。
実に曖昧な言い方ですが、これぞ、深い愛情のこもった意味あいなのです。
そもそも、曖昧とは、見て見ぬ振りではなく、それも愛、これも愛、きっと愛、たぶん愛…
なんですよ。
世の中は、持ちつ持たれつで、成り立っていると言うことへの、寛容さと許容範囲、なんだと思います。
右か左かではなく、左右なんです。
言葉一つ、言い換えたり置き換えたりするだけでも、相手への伝わり方は、どうにでも変えられるのですから…。
…
我らがロッケンロールを、時々、とどのつまりが、所詮、西洋文化の借り物なんだなぁと、ショボンとすることが、あります。
それでも、今更、我らがロッケンロールが、僕には、それなしでは生きてはいけないように、そんなもの全く必要ない人もいれば、聖なるXmasも、Valentine's DayもHalloweenも、なくてはならいとする日本人も、たくさんいるわけです。
そのどの人にも、そこに、生活が、雇用が、お茶の間が、そして、それぞれの都合が、あるわけです。
民主主義とは、人が食うため生きるための、万乗雑多あってこその社会だと思うのです。
だから、まとめよう、なんてしてはいけなくて、その都度、起きる問題に時間をかけながら、ノラリクラリと、社会の自浄作用を待つこと。
それが、最良の解決法だと思います。
…
この世で、人が、最も幸せを感じる瞬間とは、自分の思いが相手に伝わった時。
なのだそうです。
今年最も、ドキッとした発見でした。
人生の全ての答えを、言われてしまったような、驚きでした。
そして、もう一つ。
自分の中には、もう一人の自分がいる。
悩み事や、腹の立つ時は、一人で考えるな、二人で考えろ。
日常なんて、悩みと怒りで、できてるようなものです。
だから、その都度、その言葉を、思い出し実行するようにしたら、なぜか、思い出すだけでも、気持ちがスーッと軽くなるのでした。
一人で考えると、どうしても、一方通行になってしまうけれど、もつ一人の自分と考えると、心が円滑になり軽くなるのです。
まるで、呪文みたいな言葉です。
今だから解る、この二つの大発見も、30年前の僕には、おそらく、馬耳東風、だったはずです。
…あれから、30年
1991~こんな商売やってるからでしょうが。
人種の違いとは、外見からの違いではなく、中身の違いだと、それだけは、ハッキリと、わかってきました。
実は、この違いの認識こそが、これから、重要だと思うのです。
それを、認め合うことが、民主的、なのだと思うのです。
実際に、ここでは気狂い呼ばわりされる人が、あっちでは、天才と尊敬される、そんな人が、世の中には、たくさんいるではありませんか。
いろんな中身を持った、違う人種がいることを、みんなが、相互理解することが、みんなが、仲良くやっていけることなんだと。
…
その始まりがどんなに、仕組まれたものだろうと、商業主義的な産物であろうと、そこに生活が根づくと、それが、結果的に文化なんです。
人間関係も、世界も、政治も、社会も…
料理のレシピみたいなもので、いろんな嘘と、いろんな本当とが混ざり合い、とりあえず今日の味になるわけです。
人生やってると、本当なんて、怖くて口にできなくて、嘘とわかりながら、嘘を本当のように語りあう。
そんな場面って、誰にでもあるはずです。
そうすることで、誰も傷つかない。
今日の味が、美味い不味いを決めつけるより、明日は試しに、もうちょい何か足してみよう。
なんだと思います。
無理して、白黒つけようとすると、人間関係なんて、すぐに壊れます。
社会も世界も同じで、ギクシャクして、バランスが壊れてしまいます。
先日、TVドキュメンタリーで、狂言師のをやってましたが、狂言の話は、狐に始まり狸に終わる、のだそうです。
今年は、年明けから、"脱ブタ郎"
それをスローガンに、頑張ろうとし過ぎたダイエットの結果。
見事、腰痛…正式には、腰回り筋肉疲労からの激痛、な~んてことになりました(^^;;
その結果…
そのリハビリのために、腰を固定しながら、年末を締めくくる結末と、相成りました。👏😄🎊
2014
"腰痛&我がロッケンロール人生‼︎
おっちゃんもう歩けへん…"
(^^;;もう、無理はできん年令なんすかねぇ。
…で終わっては、あまりにも、今年の締めくくりが切ないので…、あれこれ書き残しておきま~す(^_^)
今年も、世の中では、たくさんの大事件や大事故、大きな紛争、戦争、大きな自然災害で、多くの人々が犠牲となりました。
その犠牲者の家族や友人や身近な人々の、その苦しみや悲しみは、無限大であること。
それを、決して、忘れてはならない。
そして、当然これは、イレギュラーな大事件だから、大ニュースとして、メディアが抜粋して伝えているにすぎないことも承知の上として…
震災以来、どうしても、そんなニュースを通り過ごせなくて、例え、それが全く見ず知らずの国や地域の出来事であろうと、合掌している自分がいます。
特に今年は、身近なところでも、大きな出来事が、たくさんあったからでしょうか、2014年は、とても印象に残る、大きな一年になりそうな気がします。
こうして、人生を体感することで、この世の諸行無常と、つくづく、人の有難さが身に染みるようになるものです。
と同時に、人の気持ちにも、思いを
寄せるようになるものです。
結局、それが、孔子言うところの、恕《ジョ、ゆるす、相手の気持ちを思いやる》なんでしようね。
社会に暮らすとは、白黒つけることではなく、曖昧こそがバランスなんじゃないのか、今は、とても、そう思うようになりました。
その曖昧の真ん中を、推察しながらする会話こそが、日本語の技であり、日本文化の極みなのだと思うのです。
所詮、飲み屋風情が、国だ政治だ、口にしたところで、豚に真珠みたいな会話にしかなりませんが、もしも、安倍晋三と言う国の代表に、お願いするならば…
無理に白黒つけようとすると、社会の成り立ちには、様々な要因が絡み合うから、白黒では、ただ矛盾がぶつかり合うだけで、余計に、収拾つかなくなります。
そう、問いたいと思うのです。
まあまあ~、そこそこに~とか、そんな日本語があるように、日本人は、そうしてノラリクラリと、どんな強力なパンチをも、最小限に受け止めながら、数々の難題を、上手に乗り越えてきたわけです。
戦後の日本人の賢さは、まさに、そこにあると思うのです。
パワーしか信じない奴は、相手からノラリクラリやられていると、やがて、必ずバテてきます。
必ず空きができるもんだから。
それを、待てばいいだけのこと。
日本には、武道と言う、民族の真髄があります。
これぞ、ウェイティングの妙です。
…
宮崎弁では、まぁ適当にね、それを、てげてげ、と言います。
実に曖昧な言い方ですが、これぞ、深い愛情のこもった意味あいなのです。
そもそも、曖昧とは、見て見ぬ振りではなく、それも愛、これも愛、きっと愛、たぶん愛…
なんですよ。
世の中は、持ちつ持たれつで、成り立っていると言うことへの、寛容さと許容範囲、なんだと思います。
右か左かではなく、左右なんです。
言葉一つ、言い換えたり置き換えたりするだけでも、相手への伝わり方は、どうにでも変えられるのですから…。
…
我らがロッケンロールを、時々、とどのつまりが、所詮、西洋文化の借り物なんだなぁと、ショボンとすることが、あります。
それでも、今更、我らがロッケンロールが、僕には、それなしでは生きてはいけないように、そんなもの全く必要ない人もいれば、聖なるXmasも、Valentine's DayもHalloweenも、なくてはならいとする日本人も、たくさんいるわけです。
そのどの人にも、そこに、生活が、雇用が、お茶の間が、そして、それぞれの都合が、あるわけです。
民主主義とは、人が食うため生きるための、万乗雑多あってこその社会だと思うのです。
だから、まとめよう、なんてしてはいけなくて、その都度、起きる問題に時間をかけながら、ノラリクラリと、社会の自浄作用を待つこと。
それが、最良の解決法だと思います。
…
この世で、人が、最も幸せを感じる瞬間とは、自分の思いが相手に伝わった時。
なのだそうです。
今年最も、ドキッとした発見でした。
人生の全ての答えを、言われてしまったような、驚きでした。
そして、もう一つ。
自分の中には、もう一人の自分がいる。
悩み事や、腹の立つ時は、一人で考えるな、二人で考えろ。
日常なんて、悩みと怒りで、できてるようなものです。
だから、その都度、その言葉を、思い出し実行するようにしたら、なぜか、思い出すだけでも、気持ちがスーッと軽くなるのでした。
一人で考えると、どうしても、一方通行になってしまうけれど、もつ一人の自分と考えると、心が円滑になり軽くなるのです。
まるで、呪文みたいな言葉です。
今だから解る、この二つの大発見も、30年前の僕には、おそらく、馬耳東風、だったはずです。
…あれから、30年
1991~こんな商売やってるからでしょうが。
人種の違いとは、外見からの違いではなく、中身の違いだと、それだけは、ハッキリと、わかってきました。
実は、この違いの認識こそが、これから、重要だと思うのです。
それを、認め合うことが、民主的、なのだと思うのです。
実際に、ここでは気狂い呼ばわりされる人が、あっちでは、天才と尊敬される、そんな人が、世の中には、たくさんいるではありませんか。
いろんな中身を持った、違う人種がいることを、みんなが、相互理解することが、みんなが、仲良くやっていけることなんだと。
…
その始まりがどんなに、仕組まれたものだろうと、商業主義的な産物であろうと、そこに生活が根づくと、それが、結果的に文化なんです。
人間関係も、世界も、政治も、社会も…
料理のレシピみたいなもので、いろんな嘘と、いろんな本当とが混ざり合い、とりあえず今日の味になるわけです。
人生やってると、本当なんて、怖くて口にできなくて、嘘とわかりながら、嘘を本当のように語りあう。
そんな場面って、誰にでもあるはずです。
そうすることで、誰も傷つかない。
今日の味が、美味い不味いを決めつけるより、明日は試しに、もうちょい何か足してみよう。
なんだと思います。
無理して、白黒つけようとすると、人間関係なんて、すぐに壊れます。
社会も世界も同じで、ギクシャクして、バランスが壊れてしまいます。
先日、TVドキュメンタリーで、狂言師のをやってましたが、狂言の話は、狐に始まり狸に終わる、のだそうです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます