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ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

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ウクライナの非共産化に大きな効果をあげた「レーニン像撤去運動2018年10月05日グレンコ・アンドリー

2022-03-23 11:53:58 | 連絡
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【グレンコ・アンドリー】 
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。35歳」。
2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。
2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。
2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
 
 
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<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載
第3回>
〇共産主義の謀略と日本の被害
ウクライナと同じように日本も共産主義から多大な被害を受けている。1930年代から東アジアの共産化を目指していたソ連にとって、大日本帝国は最大の憎悪の対象であった。それ故、ソ連は如何なる手を使っても日本を壊滅させたかった。
そのために日本を戦争に引きずり込み、日本の国力を弱小化させる必要があった。
 そこで、ソ連は様々な謀略をめぐらせたのである。
①まず、スターリンと毛沢東は日本と中国国民党を戦わせるために、1936年に蒋介石を捕え、日本と戦争する約束をさせた上で、彼を釈放した。その翌年に支那事変が起こった。同時に、日本国内に共産主義勢力の工作員が強硬路線を主張し、戦争を扇動していた。
しかし、この事変の所為で日本の国際的な立場が悪くなったとは言え、日本自体を潰し、共産化するには不十分だった。 
➁そのため、次にソ連は日米戦争を仕掛けたのである。アメリカの中枢部には、ソ連が率いるコミンテルンの工作員が大量に入り込んでいたことは既に明らかになっている。
また米大統領のルーズベルト自身も共産主義シンパであり、スターリンに憧憬の念を抱いていた。これを示すが如く第二次世界大戦以前も戦時中においても、ルーズベルトが実行していた政策は全てスターリンに有利なものばかりだった。
この状況で、ソ連に操られていたアメリカは日本を挑発した。
➂それに対して、強硬路線を扇動していた国内の隠れ共産主義者に煽られ、日本は挑発に乗ってしまい、日米戦争が勃発したのだ。つまり、この戦争も完全なソ連の謀略によって起こったものであると言える。この戦争で日本は320万人の同胞を失ってしまった。亡くなった方々は共産主義の完全なる被害者と言ってもよいだろう。国民だけでなく、国家も大きな打撃を受け、日本領土の多くが奪われた。
④また7年間日本の占領統治を行っていたGHQにも共産主義シンパが多く、GHQによる日本人の洗脳工作も共産主義者の謀略にほかならない。GHQを通して共産主義者は日本の国家体制を大きく歪めた。日本の伝統や国体、または国際常識を無視した、理想だけを語る憲法が押し付けられた。当然このような憲法に基いて、国家が順調に発展するわけがない。
 ⑤さらに、日本人の精神を潰すための洗脳工作が行われ、日本人に平和ボケ、自虐史観や贖罪意識が植えつけられた。公職追放によって能力の高い人が追い出され、その代わりに多くの共産主義者が公職に就いた。  恐ろしいことに、この状況は戦後から73年経過後も殆ど変化が見られない。
⑥現在でも日本人は教育やメディアを通して、共産主義の洗脳を受け続けているのだ。つまり、この73年間、日本人は連綿と洗脳され続け、日本もまた共産主義者に蝕まれている。戦前の謀略と合わせれば、日本は既に約80年間にわたり共産主義から被害を受け続けている。
〇赤い残党を駆逐せよ
以上のように、日本とウクライナは共産主義勢力から甚大な規模の被害を受けている。それにもかかわらず両国は共産主義に対して非常に寛大であり、連綿と被害を受け続けているのに無抵抗である。  しかし、この状況をそろそろ終息させるべきではないだろうか。
ウクライナは既に非共産化の動きを見せ始めた。2014年にロシアはウクライナへ侵略したが、前述した通り、この侵略も共産主義による被害の一つである。ウクライナ人の意識の中では、今の戦争は、ロシア帝国主義(大ロシア主義)との戦いでもあるが、同時にこれは共産主義に対する戦いであることに間違いはない。 
実際に今のロシアは完全にソ連のお陰で存在している国家であり、現在のロシア人の歴史認識はソ連の歴史認識である(詳細は別の機会で)。また、法的にも現在のロシア連邦は自分のことをソビエト連邦の後継者と名乗っており、国連安全保障理事会の常任理事国の席をソ連から受け継いでいる。
また、ロシアの大統領であるプーチン本人はソ連の国家保安委員会、つまりKGB出身である。現在のロシア連邦はKGBに乗っ取られて支配されているので、共産主義国家ソ連の延長線であると言っていいだろう。 
 だから、現在のロシアとの戦争は共産主義に対する戦争であるという認識は、形式上なら異論はあり得るが、本質的には正しいものであろう。
そして、この戦争を契機として、ウクライナ人はようやく共産主義の恐ろしさに気付き始め、非共産化の必要性を理解する人が次第に増えている 
〇レーニン像撤去運動
 非共産化の最初の大きな活動とは、レーニン像と記念碑の撤去だった。
2013年末の時点、ウクライナ各地にレーニンの記念碑が2000基以上立っていた。
それが、2018年秋の時点、ロシアに占領されている地域以外、ウクライナにあったレーニン記念碑は殆ど撤去された(企業や個人の私有地など、目立たない場所での銅像や彫刻はまだ残っているのだが)。 
 厳密に言えば、レーニン像撤去の開始時期は、ロシアによる軍事侵略が始まった時点ではなく、その直前にウクライナで起きていた反政府デモの最中であった。
しかし、当時のウクライナ政権は親露売国政権であり、ウクライナにおけるソ連の名残そのものであった。あの反政府デモも、ある意味で対露独立戦争の諸段階だったとも言えるので、大きな流れとしては、独立心や民族アイデンティティの復活の時期は、ウクライナ非共産化の初段階であるレーニン像撤去開始時期と重なる。
さて、レーニン像撤去運動は2013年12月8日に始まった。その日、キエフ中心広場の一つだったベッサラビア広場に面していたレーニンの記念碑(キエフで最も有名だったレーニンの記念碑)がデモ隊によって破壊された。その破壊に対する反応は独立派勢力の中でも複雑であった。何故なら、穏健な独立派勢力の中では、ソ連にシンパシーを持っているウクライナ国民をなるべく刺激しないという方針は主流であったので、レーニンの記念碑(しかも一番有名なもの)の破壊は逆効果をもたらし、反政府デモの印象が悪くなり、それが勢いを失うのではないかという恐れもあり、それに賛同しない人もそれなりにいた。
 しかし、次第に社会の雰囲気が変わり、レーニン記念碑の撤去は過激な行為ではなく、独立国家のあるべき行為と脱ソ連の象徴となった。
2013年12月8日から、2014年2月21日の政権交代の間に、他に18箇所のレーニン記念碑が撤去された(正式に、政権交代そのものは2月22日だったが、21日には既に政権が事実上、機能を停止し、活動家が大規模なレーニン記念碑撤去を始めた)。
当然、当時の政権側からすれば、それは犯罪行為であり、反政府活動家が逮捕の恐れを承知の上で、撤去を実行したのだ。政権交代後、行政の妨害や弾圧の恐れはなくなったので、
2014年2月21日から28日まで、315基のレーニン記念碑が撤去(破壊)された。そのころはレーニン記念碑はウクライナ人を大量に殺した共産主義の象徴であり、撤去するべきだと言う認識が社会に浸透した。この運動は「レーニン落ち」(ウクライナ語ではленінопад)と名付けられた
2014年3月以降、勢いが減ったがレーニン記念碑撤去運動が続いた。2014年年末まで、後200基が撤去された。勢いが減った理由は当然、民族アイデンティティの後退や運動員の怠慢ではない。実は先に撤去され始めたのは大きな都市の広場など、もっとも目立っている場所にあった記念碑だった。  もっとも目立っている場所の記念碑が全て撤去された後、段々運動員はさほど目立っていない場所の撤去に取り掛かった。置かれた場所の目立つ度が減るに連れて、一ヶ月あたりの撤去件数も減った。当然全てを撤去するのは目的であるが、さほど目立たない場所の記念碑を撤去する意欲は、目立っている場所と比べると低い。そして、全てのレーニン像を探すことも中々大掛かりな作業でもある。  それでも、2015年には約300基、2016年には500基のレーニン記念碑が撤去された。レーニン記念碑以外にも、他の有名な共産主義者の記念碑も撤去された。全体的に、レーニン記念碑の撤去運動は三段階を経ている。
 第一段階は、運動員は政権の禁止を押し切って、行われていた撤去。 第二段階は、政権交代後、政府や行政の容認の上で、運動員が行った撤去。 第三段階は、反共法(詳細は次回)に基いて、行政そのものが主体になって行っている撤去。
 第三段階は現在でも続いている。しかし、たまに撤去が困難の場合もある。例えば、ソ連にシンパシーを持つ親露住民の多い自治体においては、反対者が多いので撤去が難しい。住民の反対があっても、法的義務なので、その反対を押し切ってレーニン記念碑の撤去を実行することも多いが、やはり住民の反対を正面から突破せずに、行政は撤去を延期するという逆の例もある。
当然ロシアに占領されているウクライナ領土、つまりクリミア半島とドネツィク州、ルハーンシク州の一部においては、レーニン記念碑は全て健在である。  そして、ロシア政府はウクライナで行われているレーニン記念碑撤去活動を「歴史を侮辱する蛮行」という風に猛批判している。また、ウクライナ国民の一部は未だにソ連の呪縛から解放されず、ソ連の常識を引き摺っているので、レーニン記念碑の撤去に反対している。  またこれが無意味な行為だと言う人もいる。確かに、唯物的な考え方からすれば、記念碑なんて石の塊に過ぎず、それが破壊されたら何が変わるのか、と思われるかもしれない。
しかし、独立ウクライナにおいて、どこでも当たり前のように立っているレーニン記念碑は、精神的な足かせであったと言えよう。あたかも「この国は共産圏なんだ」と言い張っているかのように。だからその撤去は、脱ソ連か、非共産化、脱ロシア化の大きな意味を持っている。
 

共産主義支配100年! ウクライナの悲劇2018年09月28日グレンコ・アンドリー

2022-03-23 10:19:37 | 連絡

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【グレンコ・アンドリー】
 1987年ウクライナ・キエフ生まれ。35歳。
2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。
2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。
2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。
月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
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<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載
第2回> 
〇1360年頃のウクライナ
〇1922年ウクライナソ連邦に併合

〇ワルシャワ条約加盟国対NATO加盟国


〇ロシア帝国から独立するも、すぐにソ連に組み込まれたウクライナ
さて、今回は、日本とウクライナが受けた共産主義の被害について具体的に述べたい。まずはウクライナから。
 1917年の時点ではウクライナはロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた。本来、この両帝国崩壊後に、ウクライナは独立を果たすはずであった。
 なぜなら、当時の世界の流れでは、複数の民族を支配している帝国が崩壊する時、その諸民族が独立し、民族国家を作るからだ。
その流れによって、第一次世界大戦後、ヨーロッパではポーランド、チェコスロバキア、フィンランド、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立し、スロベニア、ボスニアとクロアチアが南スラブ連合であったユーゴスラビアに入った。
この諸民族の解放独立の流れにはウクライナもあった。 
実際、1918年にウクライナは独立した。
しかし、直ぐにボリシェビキの赤軍はウクライナを攻めこんだのだ。
1918年の3月にドイツ帝国とソビエト・ロシアの講和条約によって、赤軍はウクライナから撤退し、ウクライナの独立を認めた。 
しかしドイツ帝国の降伏、更には崩壊の後、
ボリシェビキはウクライナの独立を認めるという約束を破り、1919年から再びウクライナを攻撃した。そして最終的にウクライナ西部以外のウクライナを占領し、新しく作ったソビエト連邦に組み込んだ。
ウクライナは赤軍と戦争していたが圧倒的な戦力の差のため、敗北してしまった。
①敗北の最も大きな理由は戦力の差であるが、それだけではない。
➁ボリシェビキのプロパガンディストが大量にウクライナの中に入り込み、農民層や労働層を洗脳したのだ。当然、独立したばかりのウクライナはこのような宣伝戦に対応できず、ウクライナ国内にボリシェビキへの協力者も出現した。
➂また、指導層の中には保守的な国家主義者だけではなく、お花畑的な社会民主主義者も相当数存在しており、国家の基本理念をめぐって対立していた。そのため、強い民族国家を築くことは不可能だった。  
つまり、国内が一致団結しなかったため、民族が一丸となり赤い化け物に対抗することが出来なかったのだ。 
〇過酷だったソ連の支配
ソ連の支配はウクライナの歴史上、最も過酷なものだった。それまで、ウクライナはポーランドやロシア帝国に支配されていた。ロシア帝国の支配も惨憺たるものだったが、
共産主義国家ソ連の支配は想像を絶するほど残虐極まりなかった。 
形式上、ソ連は法的手続きを経て成立された。共産主義者の狡賢さはここにおいても明らかである。赤軍のウクライナ占領後、ソビエト・ロシアがウクライナの併合を宣言したのではない。
共産主義者は傀儡国家ソビエト・ウクライナの成立を宣言し、そのソビエト・ウクライナがソビエト・ロシアとの連邦を「希望した」という形をとったのだ。
またソ連では、階級の廃止や平等が謳われ、後にできたソ連憲法では、表現の自由、集会の自由が明記された。
勿論これが出鱈目であることは誰にでも分かるだろう。 
そして、ソ連は形式上構成国の民族文化や伝統、言語の自由な発展の承認を公式に宣伝していた。法律や国家の宣伝だけを見れば、ソ連は自由と平等の楽園のように思える。
しかし現実は宣伝されたものと真逆だった。表現・集会の自由など当然存在せず、反対派は徹底的に排除された。
また、それぞれの民族の伝統文化や言語の自由な発展が形式上認められていたが、それが民族意識の上昇に繋がると判断されると、徹底的に弾圧を加えた。ウクライナの場合はまさにそうだった。
それ故、1920年前半にウクライナ語の使用が認められても、言葉の働きが民族アイデンティティの上昇や民族の覚醒と連関すると考えられ、
次第にウクライナ語に対し、ソ連共産党幹部が警戒するようになった。
〇農民層を潰せ! 「人工飢餓」による大量殺戮
全体的にウクライナ人が民族意識を抱くようになることを共産党は非常に恐れていた。
何故なら、
①ソ連を構成していた民族の中でウクライナ人はロシア人の次に多く存在していたからである。
また、立地的に重要で、
➁資源の豊かなウクライナが離脱すれば、ソ連が成り立たなくなる。
したがって、ソ連にとって全ての構成国の中でウクライナを失うことは最大の損失を意味していた。
実際、1920年代にウクライナで頻繁にソ連支配に対する蜂起が起きていた。ウクライナ人は自由のない全体主義体制や、これまでの生活様式を破壊する農業の集団化に対して反発し、立ち上がっていた。  
蜂起を弾圧するために毎回、ソ連当局が治安部隊を出動させなければならず、ソ連からすれば蜂起は非常に厄介なものだった。そしてウクライナのこういった状況を共産党幹部は恐れていた。
これについて、スターリンは有名な言葉を残している。即ち、「このままでは我々はウクライナを失うかもしれない」と。
 だから共産党幹部はウクライナの民族アイデンティティを徹底的に潰すことにした。そのために、そのアイデンティティを最も色濃く保っていた農民層の大量虐殺を起こした。
この農民層を潰せば、ウクライナ民族を骨抜きにできると思っていたのだ。
そして、残されたウクライナ人を「ソ連人」として作り変えることが最終目的であった。
農民を大量に殺すために、ソ連当局は農民から全ての食料を没収した。
その口実として、都市部で食料が足りない、或いは輸出するために食料が必要だと言っていた。
しかし、文字通り一切の食料を没収されたので、明らかに農民を餓死にさせることが目的だったと言えよう。
しかも食料がなくなった地域から誰も逃亡せぬよう、道路も封鎖された。
ソ連はこのような人工飢餓やその規模の隠蔽を企てたため、ソ連公式の見解では、不作のため限定的な飢餓が発生したとされている。
人工飢餓の犠牲者数はまだ確定されていないが、当時の人口統計や出生率などの分析によれば、飢餓で200万人から600万人が死亡したと推測されている。
〇教育とプロパガンダでソ連への愛国心を強制
この人工飢餓以外にも、スターリン時代にはウクライナのエリート層が排除された。
独立を意識していたウクライナの運動家、作家や芸術家は処刑、或いは自殺に追い込まれた。  このスターリンの大虐殺のため、民族の芯が取り除かれ、アイデンティティも殆ど喪失されることとなった。
ソ連は残ったウクライナ人を洗脳し、「ソ連人」として、そのアイデンティティを改変しようとした。 
 第二次世界大戦の際、ウクライナは独ソ戦争の戦場になり、再び大打撃を受けた。ウクライナ人の4人に1人は死亡してしまった。
ウクライナ人は大量にソ連の赤軍に動員され、ドイツ軍との戦争に駆り出された。
ソ連軍は焦土作戦を取り、ウクライナを焼け野原にしてしまった。 
スターリンの死亡後、大量殺戮は減少したが、民族の弾圧や徹底的な洗脳はソ連崩壊まで絶え間なく続いていた。
ソ連が行った教育では、ソ連という「祖国」に対して愛国心を持たなければならなかった。
しかし自国、つまりウクライナに対して愛国心を持つことは絶対に許されなかった。
自国に対して愛国心を持つ者はブルジョワジー、ナショナリストやファシストの残党としてレッテルを貼られ、徹底的に弾圧された。
またソ連人であることを誇りに思うよう促され、ウクライナ人であることに対して、誇りを持つことは禁止された。このような意識構造を作り上げるために、ソ連の教育や国家プロパガンダは全力を尽くした。
〇独立後も解けない洗脳
ソ連崩壊によりウクライナは独立を果たしたが、ソ連による洗脳の呪縛から突如解放されることはなかった。独立しても国民の大多数がソ連の常識を引き摺っていた。その常識は、ソ連が偉大な祖国であり、ウクライナの独立にはあまり価値がないというものであった。
また、ソ連時代の宗主国であるロシアは友好国、姉妹国であるという認識も根強く残った。  
ウクライナの指導層の殆どはソ連共産党の元党員だったので彼等は国家発展に尽力せず、私腹を肥やすことだけに専念した。
そしてソ連の常識を引きずっている国民はこのような人間を何回も選挙で当選させたのだ。  このように、ソ連の呪縛が愛国心のない国民と指導者を生み出し、ウクライナの独立後の発展は非常に困難となった。この状況が次の被害の原因となった。
〇2014年、再びロシアの侵略
発展に至ることなく、弱小国家となったウクライナは2014年にロシアに侵略された。ロシアの侵略による被害は、完全に共産主義が原因である。もし、以前にウクライナが共産主義による洗脳を受けず、健全な国家発展を遂げていたら、ロシアの攻撃は不可能だったであろう。  
結局、現在でも被害を被っているウクライナは、既に100年以上、1917年から2018年に至るまで連綿と共産主義からの大打撃を受けていると言える。 
この特集の次回記事
ウクライナの非共産化に大きな効果をあげた「レーニン像撤去運動」
2018.10.05

 

「ウクライナ」(2) 小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師 2022.3.9日本記者クラブ

2022-03-23 09:27:16 | 連絡
ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師が、プーチンの狙いや現状と今後ありうるシナリオなどについて話した。 司会 杉田弘毅 日本記者クラブ企画委員(共同通信)

日本記者クラブ会見リポート
https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/36275/report