イムジン河 ザ・フォーク・クルセダーズ 2002
イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ
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日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年前後にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。
臨津江(リムジン江)で分断された朝鮮半島についての曲で、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないか、誰が祖国を分断したかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。
元来は、のちにフォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカ・バンドで作詞を担当する松山猛が京都の中学生時代に、松山の中学と喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校生にサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れ、この曲を耳にした。
九条大橋でトランペットの練習していた松山は、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディと歌詞を伝えられ、彼の姉が綴った1番の歌詞と日本語訳と朝日辞典を渡された[19]。
後年に松山は、当時アマチュアの「フォーク・クルセイダーズ」メンバーと知り合い、加藤和彦に口頭でメロディを伝え、加藤が採譜したものが本楽曲で、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。
文光珠から伝えられた1番だけでは歌唱には短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた[20]。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、1966年の初演で聴衆が大きく拍手した。
デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として、アマチュア時代から歌う「イムジン河」を1968年2月21日[21]に東芝音楽工業[22]から発売する予定であった。
東芝の高嶋弘之ディレクターは、フォーク・クルセダーズを「帰って来たヨッパライ」でデビューを説得していた頃はすでに、「第二弾は『イムジン河』で行ける。
『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」[23]と考え、東芝関係者らはその算段で臨んで発売前にラジオで数回放送した。
「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日で発売予定前日の1968年2月20日[21]にレコード会社は「政治的配慮」から発売中止を唐突に決定し、出荷済み13万枚のうち3万枚が未回収となり[24]、以後放送自粛の風潮が広がるも京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオで放送を続けた[25]。
ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のB面曲として発売される予定であった「蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」は、1970年に「大蛇の唄」としてシングル発売された。
1967年に発表した自主制作盤『ハレンチ』には、このシングル版とは別バージョンで、松山の3番の歌詞がなく代わりに朝鮮語の歌詞を含む「イムジン河」が収録されている。
原曲と1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版は、メロディとリズムが3か所で異なる[4]。その後もキム・ヨンジャやザ・フォーシュリークは原曲のメロディで歌い、都はるみや再結成後のザ・フォーク・クルセダーズは1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版のメロディで歌っている[4]。
1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版の編曲者は小杉仁三だが、小杉は当時クラウンレコード専属の編曲家であったことから「ありた・あきら」のペンネームを用いた[26]。