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中国人が異民族を「同化」させようとするワケ、日本人とは本質的に異なる“頭の中”#2024.10.24#楊 海英:静岡大学教授

2024-10-28 16:09:10 | 連絡
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楊 海英
静岡大学教授
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1964年、南モンゴルのオルドス高原生まれ。
静岡大学人文社会科学部教授。
日本名は大野旭(おおの・あきら)。
北京第二外国語学院アジア・アフリカ語学部日本語学科卒業。
同大学助手を経て、1989年に来日。総合研究大学院大学博士課程修了。
専攻は文化人類学。博士(文学)。
著書に、第14回司馬遼太郎賞受賞の『墓標なき草原(上・下)』(岩波書店)、第3回「国基研 日本研究賞」受賞の『チベットに舞う日本刀』(文藝春秋)と『日本陸軍とモンゴル』(中央公論新社)などがある。
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気が付けば近所や職場に中国人がいることが珍しくない日本社会。
中国人の考え方を知る上で、知らなければならないキーワードが「同化」である。
モンゴルに生まれて中国で学び、日本に帰化した著者が述べる、「日中文化の本質的な違い」とは? ※本稿は、楊海英著『中国を見破る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
 
■町中華から“ガチ中華”へ
数年前から“ガチ中華”が増えたという話を聞くようになった。
いわゆる「町中華」が日本人の舌に合わせた中華料理であるのに対して、“ガチ中華”は中国人が好む本場の料理を食べられる店のことをいうそうだ。
 ブームの火付け役となったのは東京・池袋にある中華店だといわれる。
池袋といえば豊島区の大繁華街で、日本を代表するターミナル駅がある。
その豊島区に居住する外国人の国籍は中国人がおよそ半数にも上っているという。
東京全体を見ても、2024年1月時点の都内在住外国人約65万人のうち約40%が中国人(都総務局人口統計部データ)であり、
26万人近い中国人が都内に住んでいることになる。
これだけ多くの中国人がいれば、昔ながらの町中華ではなく、中華圏の人々が好む味の中華料理店が東京で増えるのは当然かもしれない。 
いうまでもなく、日本には、古くから多くの中国人が移住してきた。
華僑と呼ばれた従来の移住者は、横浜、神戸、長崎といった各都市でチャイナタウンを形成している。
つまり中国のローカルルールはチャイナタウンのなかに限定して、地元の日本人とは良好な関係を築くことで共存共栄を望んできたように思う(日本が好きになって、私のように、日本に帰化する人も多数いたにちがいない!)
■背後に見え隠れする国家の存在
そのように日本のルールを尊重しながら地元社会との間では衝突を避け、静かに暮らしてきた人たちがいる一方で、そうでない中国系の人たちもいる。
 たとえば、2022年10月にサンシャイン60のフランス料理店で起きた大乱闘事件は記憶に新しいところだろう。
サンシャイン60といえば池袋のシンボルタワーであり、家族連れや中高生も訪れる有名スポット。
そのような場所で起きたことは衝撃的だった。
また地方の私立高校では、経営難から脱するために、中国人留学生を積極的に受け入れていたら、いつのまにか留学生ばかりの学校になったという例もある。
日本でもようやく経済安全保障推進法が成立したが、中国人留学生を介して、先端技術が流出、漏洩するリスクに対する責任を日本企業が負う時代になっている。
 さらには、マネーロンダリング、スパイ、日本国内の攪乱といった非合法な行為を目的に入国した中国人が、一般市民が暮らす社会に潜伏していることも否定できない。
そうかと思えば、共産党支配に嫌気がさし、純粋に日本で暮らすことに希望をもち、祖国と決別し、移住してくる中国人もいる。
 そうしたことは何も「中国人」だけに限ったことではないだろう。
しかしこと「中国人」に関しては、それぞれの背後に「中国」という国家の存在が見え隠れすることに注意を払う必要がある。
日本人にとっては、長年の歴史から身近な存在であるだけに、その本質が見えにくくなっていることに気づかなければならない。
■「心が異なる」相手は同化させる
紀元前の非常に古い文献である『左伝』(春秋左氏伝)に「わが族に非ざる者は、その心もまた異なる」という有名な言葉が記されている。
 要するに、中華以外の人間は心がわれわれと違うので、自分たちとは違う人間だと言っているのだが、これを「異心論」という。その「わが族に非ざる者」に対し、中国がたどり着いたのは「同化させるべき」だという考え方だった(私はこれを「同化論」と呼ぶことにした!)。

 欧米でいう「カルチャー」に、「文化」という訳語をつけたのは近世の日本人で、中国語の「文化」は意味がまるで違う。
それは、相手を「文明化」させることであり、別の言い方をすれば、「中華化」することだ。
つまり中国人(漢族、漢人)と同化させることである。
この「中華化」は、「華化」「華夏化」と言い換えることもできる。
「華夏」とは、まさしく「中華」そのものを指し、あるいは「中華民族」そのものを意味する言葉だ。
異民族を華夏にすることこそ、中国人にとって「文化」だといえる。
漢字圏に生きる日本人だからこそ、見えにくい例のひとつである。 
■中国語の祖型
ところが話をややこしくするようだが、最初に「われわれは華夏だ」と称したのは漢人ではない。
五胡十六国時代の五胡、つまり万里の長城を越えて南下してきた北方異民族の匈奴(きょうど)と鮮卑(せんぴ)が、自らを「華夏」と呼んだのである。
 これは1990年代にNHKの後藤多聞氏が、台湾の中央研究院で電子化された漢籍をつぶさに検索したところ、最も古い「華夏」の文字が五胡十六国時代の文献で見つかったことからわかったものだ。
 五胡十六国、つまりテュルク系言語やモンゴル系言語を話す匈奴系・鮮卑系の人々が大挙して万里の長城以南の地に入り、互いに融合して共存をめざすなかで、ある種のスローガンとして自分たちを「華夏」であると唱えた。
彼らは長城以南の地に暮らしていた中国人(プロト・チャイニーズ)たちともコミュニケーションをとるため、一種のピジン語(異なる言語の話者間で通じる混合言語)を話すようになった。
おそらくは漢語の語彙をベースに文法表現をアルタイ語化した言葉で、それが後に現代の中国語の祖型になっていったと考えられる。
つまり中国語とは、諸民族融合の必要性により生まれたピジン語だといえるのだ。 
ちなみに、北方から遊牧民がやってきたことで、それまで長城の南に暮らしていたプロト・チャイニーズはどう対応したかというと、一部は異民族の支配からどんどん南へ逃れ、いわゆる「客家(ハッカ)」となった(どこへ行っても客人扱いされるがゆえに、そう呼ばれるのだ!)。
■歴史を書き換えたのは漢人である
ところで今、私が説明してきた意味での「華夏族」は、自らを漢人と名乗ったか。
もちろんそうではなく、もともとが遊牧民であることに誇りをもっていた。
祖先が匈奴であることを示す石碑が数多く長城沿いに残っているのは、その証左であろう。
 つまり、「北方異民族は野蛮人であり、万里の長城の南に入ってきた人々を当時の漢人たちが漢化すなわち文明化した。
それゆえに異民族たちは北方からきた民族であることを隠していた」というような現代中国がいう歴史は、後世に書き換えられたものだといえる。
 歴史を書き換えたのは、いうまでもなく漢人だろう。「中国文化は優れているため、野蛮な遊牧民を同化したのだ」という論理とその実行プロセス。それこそ、中国人にとっての「文化」なのである。
同時に「北方異民族たちは漢化したからこそ華夏と呼ばれるようになった」という見解もあるようだが、これも適切ではない。
繰り返すようだが、実際は北からきた異民族らが、長城の南に暮らしはするものの、いわゆる漢人になるつもりはなかったため、新たに華夏と自称したのである。
■負け惜しみ」の思想としての朱子学
こうした「中国文化が優れているため、異民族は漢化した」という歴史認識が打ち出されたのは主に近代以降で、その祖型は宋代にまでさかのぼる。
南宋の儒学者である朱熹が形にしたといわれる、日本人が近世からとくに受け入れてきた朱子学の「負け惜しみ」論がその原型となる。
『中国を見破る』楊海英 著(PHP新書)
 
 宋は国力が弱く、モンゴル系の契丹(キタイ帝国)や満洲系の金と軍事的に対抗できなかった。
契丹や金と戦って五胡十六国の再来を招くことを恐れたがゆえに、金によって南に追われて南宋を建国したとき、「自分たちは野蛮人と異なり戦いには興味がないが、代わりに文化がある、それゆえに強い」という一種の自己満足、言い換えれば負け惜しみの思想として朱子学が誕生した。
それが近世に入り、とりわけ満洲人の清朝が崩壊していく過程を見て「満洲人も漢化=漢文化に同化した」という考え方が生まれ、歴史を書き換えるという不合理な仕業が合理的なものへと転換していったといえる。
すべては漢人や漢人の文化が優れているという物語を捏造するためである。 

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