戦前の日本では「人肉の刺身」が食べられていた…明治・大正期の新聞が報じた「死体損壊事件」の意外な背景
8/9(水) 10:17配信
プレジデントオンライン
明治・大正の火葬技術は未熟だった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/rvimages
明治・大正期の新聞には「人肉の切り売り」という衝撃的な記事が載っている。ノンフィクション作家の中山茂大さんは「『人間の生き肝や脳味噌が万病に効く』という迷信があり、人肉が取引されていたようだ。また、火葬場の火夫が遺体を損壊し、人肉や内臓、金歯などを転売する事件も起きていた」という――。
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■明治・大正の火葬技術は未熟だった
明治・大正のころは火葬技術が未熟で、遺体が焼き上がるまで一晩かかることもあった。そのような時代、火葬場に住み込みで働く火の番人が不可欠であった。
当時の火葬場は人里離れた山奥にあることが多かった。そうした火葬場に住み込みで働く人々が、地元民に奇異な目で見られたであろうことは想像に難くない。
一方、辺鄙な場所での仕事ゆえ、人目につかぬことを幸いに、犯罪に手を染める者も存在した。
■「人肉刺身を喰わす」火葬場で起きた事件
筆者は明治初期から終戦までの約70年間の新聞に目を通したが、筆者の知る限り以下の事件が初出のようである。
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人肉刺身を喰わす 変死人の臀肉 謝礼に酒と金
「人肉の切り売りといえる、聞くだに血生臭くすさまじき大罪を犯せし曲者、突然佐世保警察署の手に検挙されたり。該犯人は長崎県大村生まれの者にして、二十年前より佐世保に移住し小佐世保白木山火葬場にて穏亡を営むこと八年、近頃、同地屑藪山仮葬場に転居せる久花熊太郎(五四)の所為(しょい)なることを確かめ、二十一日夕刻、同人を逮捕し目下厳重に取り調べ中」(「樺太日日新聞」明治44年4月9日)
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「穏亡(隠亡)」とは火葬場や墓地の守り役を意味する。しばしば差別的な扱いを受け、「隠亡」という言葉自体が差別的なニュアンスで使われていた。(現在は火葬場に住み込みで働く職業自体が存在しないことも踏まえ、当時の記事についてはそのまま掲載した)。
以下、この事件をくわしく解説してみよう。
■死体の臀部と股から約3斤半の肉をえぐり取り…
佐世保市内の仕立職、松永要四郎(37)という者が、酒一升を提げて、火葬場に住む久花熊太郎(54)を訪ね、こう言った。
「お前は人の生き肝や生肉を切り売りしていると聞いている。自分の義兄弟が長いこと病気にかかっているが、人の生き肝を食わせれば直ちに全快すると聞いた。なんとか人の生き肝を分けてもらいたい。病死者の肝は効能が薄いようなので、変死者の肉を取ってくれ」
持って来た酒を酌み交わしつつ要四郎が依頼すると、熊太郎は「なに、簡単なことよ」と承諾したという。
そうして変死人が出るのを待っていると、2週間ほど経った頃に、島原湾で演習中の軍艦出雲でケーブル切断事故があり、死亡した2等水兵の死体が火葬場に運ばれて来た。
熊太郎は鋭利な鎌を用いて、死体の臀部(でんぶ)と股から約3斤半の肉をえぐり取り、納骨壺に納めて要四郎に手渡すと、金五円と酒一升の謝礼にありついたという。
■人肉の一部を刺身にして食べさせた
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「(要四郎は)右の人肉を受け取るや飛ぶが如くに帰宅して、肉の一部を刺身となし、醤油に浸して自宅に同居する(中略)戸部藤四郎(三十)に食せしめ、残りを黒焼きにし、朝夕服用せしめたるも、何らの効なきにぞ、藤四郎は全く欺かれしものと思いて、要四郎と不和となった。しかして佐世保署の警官が熊太郎の居宅を捜索せしに、夫人または小児の死衣を剥ぎ取りたるもの多数あるのみならず、生肝、脊髄、脳味噌、舌等を他人に売却し、買受人より口外すまじき旨、誓いたる連署の証文、数十通を発見したりと」(「樺太日日新聞」前掲)
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要四郎は死体から切り取った人肉を持ち帰り、一部を刺身にして義兄弟の藤四郎に食べさせ、残りは黒焼きにして服用させたが効果なく、藤四郎は騙(だま)されたと思い込んで要四郎と仲が悪くなり、その結果、事件が発覚。佐世保署が熊太郎の自宅を捜索すると、火葬された人々の死衣多数と、生き肝や脳味噌を売買したことを口外しないことを誓った証文、数十通を発見したというのである。
■「生き肝や脳味噌が万病に効く」という迷信
にわかには信じがたい話だが、明治・大正期の新聞にはこういう話が多く掲載されている。
その背景には、人間の生き肝や脳味噌が万病に効くという迷信が広く信じられていたことが挙げられる。死体の一部を窃取するよう依頼する者が後を絶たなかったというのだ。
次の事件も、そのような迷信によって引き起こされたものである。
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死体から脳味噌を取った穏亡
「(死体の一部を窃取したのは)岩手郡米内村、正念寺火葬場の穏亡、熊谷松蔵(六五)および火葬場管理人、漆原浄林(五八)の二名にして、脳味噌、胆は難病に効験ありとの迷信に駆られ、希望者多きより、両名共謀して半焼きの死体を夜陰に乗じて引き出し、小刀等にてえぐり取り、各方面に一個七十円くらいにて密売したるものにて、えぐり取りたる死体は今日まで約二千百以上に達する見込みなるが、買い受けしものの中には東京在住の某華族ありとの噂あり。なお取り調べの進捗(しんちょく)につれ、岩手郡浅岸村火葬場の穏亡、小笠原要蔵(七一)にも同様の犯罪あること発覚したるも、同人は二十日、脳溢血にて死亡」(「函館毎日新聞」大正9年3月29日)
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■脳味噌と生き肝を1個70円で密売していた
岩手郡米内村(現在の岩手県盛岡市)の正念寺の火葬場で働く、熊谷松蔵(65)と管理人の漆原浄林(58)が、脳味噌と生き肝が難病に効くというので、夜陰に乗じて半焼けの死体から切り取り、1個70円くらいで密売していた。えぐり取られた死体は約2100体以上もあったとされ、購入者の中には、東京在住の某華族もいたという噂もあった。同じ岩手郡の浅岸村の隠亡、小笠原要蔵も同様の犯罪を犯していたが、脳溢血で死亡したため検挙されなかったという。
■「死体がカネになる」ことが広まっていった
北海道立図書館のレファレンスによると、あくまで参考値ではあるが、現在の物価は大正時代の約530倍だという。それをもとに計算すれば、大正時代の70円は今の約3万7000円にあたる。当時としてはそれなりに高い金額だったのだろう。
身分の高い人々が買い求めていた、という点も注目される。
「死体がカネになる」ことが徐々に広まっていき、日本各地で同様の犯罪に手を染める者が増えていった。その結果、同様の犯罪が、日本全国で行われるようになったのではないか。
現代でも時に臓器売買事件が話題になるが、当時は僧侶と共謀し、大胆かつ巧妙な手口がまかり通っていたようだ。
■遺体の指輪や金歯を盗んで転売していた
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札幌豊平火葬場に聞き捨てならぬ怪聞 人骨や脳骨を盗み出す噂に穏亡の家宅捜査
「近来、札幌豊平町市営火葬場の僧侶や穏亡等が共謀して、密かに火葬場から人骨や脳骨を盗み出し、胃病や肺病の妙薬であると称して秘密に販売し、あるいは死体の焼きあとから指輪や金歯を盗みとるとの噂があるので、札幌署では(中略)楠美霊舜(五七)および穏亡なる(中略)菅原政治(四四)の両名の家宅捜査を行い、その結果、本署へ同行して取り調べ中であるが、楠美は以上の事実を否認。(中略)菅原政治は取り調べの末、帰宅を許されたが、左のごとく語った。
『私は昨年一月終わり頃から火葬場の穏亡として雇われたが、他に死体焼きもおります。本年の六月上旬頃、火葬場にいる楠美という坊さんから私に向かって、少し必要だから脳骨を三、四人分取ってくれと頼まれたので、何気なく三等の竈から三、四人分の焼けた脳骨を盗み出しましたが、その分量は一匁(もんめ)から一匁五分くらいだったと思います。それは直ちに楠美さんに手渡しました。その脳骨を楠美さんがどこへ持っていったか知りませんが、他へ売ったことだと思います。もちろん私はお金など一文ももらいません。その他に死体から金品など取ったようなことは全然ありません』と」(「小樽新聞」大正15年8月27日)
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札幌豊平町市営火葬場の僧侶と火夫が共謀し、人骨や脳骨だけでなく、遺体の指輪や金歯を盗んで転売していたという。
脳味噌や生き肝の他にも、金歯や指輪が高値で売れることが知られるようになったらしく、この頃から同様の手口が増えたようだ。
■「約375グラムの脳漿を10円で売った」証言
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棺(ひつぎ)をあばく穏亡 死人の脳漿(のうしょう)で金もうけ 函館五稜郭焼き場の怪
「火葬場の穏亡焼きが死人の脳漿を取って売ったり、また金のかけらをひそかに盗んで、これを指輪等にして売り飛ばしたという、近来にない怪事件があった。
この穏亡焼きは、函館市五稜郭の市営火葬場の漆谷健吉(二四)で、同年三月中に肺病患者の親族から依頼され、五十歳くらいの男の死体より約百匁の脳漿を取り、これを十円で売り、親族は医師に内緒で、約十回にわたって患者に服用させたが、去月十八日死亡してしまった。このことが函館署の耳に入り、取り調べたところ、以上の事実が判明した。この他にも、火葬灰の中から金のかけらを集め、現在まで一個三匁ないし四匁の金指輪六個を作り、このうち一つを四十五円で売り飛ばしたことも判明し、なお余罪がある見込みで、厳重取り調べ中」(「北海タイムス」昭和7年12月8日)
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函館市五稜郭の市営火葬場の漆谷健吉(24)が、肺病患者の親族からの依頼で、50歳くらいの男性の遺体から100匁(約375グラム。1匁は3.75グラム)の脳漿を取って、10円で売った。
それ以外にも、火葬場の灰の中から金を集めて、「三匁ないし四匁(11.25グラムから15グラム)」程度の指輪を6つ作り、一つを45円で売ったという。
■「金本位制」導入で金価格が高騰していた
昭和5年(1930年)に再導入された「金本位制」により、金価格が高騰していたことが間接的な原因と思われるが、近年も金が高騰し「1グラム=1万円」が視野に入ってきており、当時と不思議にシンクロする。
また密売に手を染めた隠亡が、急に羽振りがよくなり、不審を抱かれて逮捕に至る事件も、いくつか報じられている。
■花柳界に出入りして密売が発覚
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脳漿をとって密売の穏亡 花柳界(かりゅうかい)に出入りして豪遊
「岐阜県高山町営火葬場の穏亡、可賀幸太郎(二四)は、昭和三年七月、父太助死亡以来、父のあとを受けておんぼうに雇われたが、父太助の時代から死人の金入れ歯を抜き取り、なお脳漿をしぼって相当手広く密売し、不当の利益を得ていた嫌疑が濃厚となり、最近、花柳界に出入りし豪遊を極めているので不審を抱き内偵を進めた結果、右の事実が判明した」(「小樽新聞」昭和5年5月16日)
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岐阜県高山町の火葬場の火夫が、花柳界に出入りして豪遊しているというので、警察にマークされ、死人の金歯や脳漿を密売していたことが発覚した、という。
■122体以上の遺体損壊が発覚
この手の犯罪が広く世間の耳目(じもく)を集めたのは、昭和8年に露見(ろけん)した次の事件だろう。
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脳漿と金歯抜き取り 百二十二死体発掘 遺族に替え玉を使って誤魔化す 桐生火葬場の怪事件
「桐生火葬場裏から、去る十四日、男女の死体が発見され、桐生署では右は脳味噌および金歯金指輪目当ての穏亡の所為と睨(にら)み大活動の結果、元同火葬場の人夫、松江勘次郎(四五)を引致(いんち)、(中略)さらに火葬場の内外の空き地を片っ端から掘り返し捜索につとめたが、十六日も午前八時から西南隅一帯にわたって掘り返したところ、驚くべし、午後四時までに八十五体の死体を発見。これに十五日の分を合して合計百二十二体となり、(中略)松江は十六年間、右火葬場に雇われていたが、最近不評のため三月三十一日限り解雇されたが、(中略)十六年間に手にかけたこの種の死体は相当多数に上る見込み(後略)」(「北海タイムス」昭和8年4月17日)
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群馬県の桐生火葬場から計122体もの男女の遺体が発見されたという。火葬場の火夫である松井(「松江」は間違い)勘次郎が、妻と共謀して長期間にわたり、遺体損壊および貴金属の窃取を繰り返していたらしい。
■頭蓋骨に拳大の大穴があけられ、骨盤に肉片が付着…
翌4月18日に出された続報では、発掘された死体は計150体に増え、「火葬場付近を掘ればなお続々死体が出る有様で、当局においても今更ながら驚愕(きょうがく)している」と書かれている。
19日になると、発掘死体は200体を超えた。それらは「頭蓋骨に拳(こぶし)大の大穴があけられ、骨盤に肉片が付着したものもあり」という凄惨(せいさん)なもので、「現場には縄を張り巡らし発掘を継続中であるが、現場には数百名が押しかけ大騒ぎである」という。
そして20日の最後の続報によれば、発掘遺体は合計249に達したところで警察の捜査は打ち切られ、なお市役所が捜索したところ、裏山の雑木林から14の遺体を発掘し、さらに「付近から散らばった人骨が続出している」という。
遺棄(いき)された遺体の総数は、犯人ですらわからなかったのではないだろうか。
■「隣組」などの相互監視で密売が難しくなった
この種の事件は、昭和10年に報じられた、北海道美唄町の火葬場の火夫、椎名永太郎(58)が人骨を密かに病者に与えていた事件(「北海タイムス」昭和10年8月6日)を最後に影を潜(ひそ)める。
なぜ無くなったのか。昭和12年の盧溝橋事件と日中戦争開始以降、社会が急速に軍国主義に傾き、「隣組(となりぐみ)」などの相互監視が行われ、密売が難しくなった可能性が考えられる。
■火葬場の改良で遺体損壊の機会がなくなった
また、もう一つの理由として、火葬場の施設が改良されたことも挙げられる。
明治・大正当時の火葬技術が稚拙(ちせつ)であったことは、次の記事からも窺(うかが)える。
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聞き捨てならぬ非文明な火葬場 大破して役に立たず死者の霊も泣かん
「鉄板一枚を野天(のてん)に置き、その上に棺を据え、薪炭(しんたん)を周囲に積み、石油を注いで点火すると、木製の棺だけは瞬(またた)く間に焼けてしまうが、死体は容易に焼けず、赤裸々に鉄板上に露出し、その上、定まった穏亡がおらぬため、死人の縁者か、または日雇いの素人が、酒か何かの勢いで木片を持ち、死体を反しては焼き、また反す」(「小樽新聞」大正14年8月24日)
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屋外に鉄板を置き、その上に棺を乗せて薪や炭などを周囲に積み、石油をかけて火をつける。木製の棺はすぐ焼けてしまうが、死体は焼け残り、鉄板の上に晒(さら)されることになる。
これは火葬場が倒壊したための急場しのぎの措置ではあるが、当時の火葬技術の劣悪さが窺える。そして火葬場の火夫にとって脳漿や金歯を窃取することが容易であったことも推察される。
しかし新式の竃(かまど)が登場すると、状況は一変する。
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「目下、春採の火葬場にて使用する竃は昨冬、新たになりたる、いわゆる小松式なるものにて、一度竃中に棺を納め、火を放てば、再び取り出す余地なく、人を焼く物凄き煙、わずかに白煙を出すに過ぎざる改良竃とて、尋常(じんじょう)一様の手段にては人肉を取り出すの機会あるべきはずなき」(「北海タイムス」明治44年6月1日)
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この「小松式」のような「改良竃」が普及していったことで、遺体損壊の機会が自然に失われていったものと思われる。
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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家・人力社代表
明治初期から戦中戦後にかけて、約70年間の地方紙を通読、市町村史・郷土史・各地の民話なども参照し、ヒグマ事件を抽出・データベース化している。主な著書に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)など。
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