先の日曜日は父の日で娘二人からプレセントが届いた。
毎年プレゼントを送ってくれるが、そのたびに少し面はゆい気持ちになる。
娘たちが子供のころはほとんど父親らしいことをしてこなかったからである。
子供の躾などはほぼ母親がやっていたように思う。
いまさら反省しても仕方がないが、父の日にはいつもそういう気持ちになる。
昨夜、NHKの「ファミリーヒストリー」で柳葉敏郎さんが8歳で死別した父親ら家族の歴史について放送されたのを見ながら自分の父親のことを思っていた。
父は長男であったが、なぜ、何歳で樺太に渡ったのか私は知らない。
父もそのことをほとんど語らなかった。
終戦後真岡で生まれた私と母を伴い引き上げて北海道の実家に戻ったが居場所がなく私の母の姉妹を頼って網走へ行き職に就いたと母から聞いた。
父は穏やかな人だった。怒られた記憶はない。網走で生まれた弟妹たちもおそらく怒られたことはなかったであろう。
その点は私は受け継がなかったようである。どちらかというと性格は母親の血を引いたようである。
しかし、顔も話し方も年とともに父にそっくりになってきた。
今朝、私が子供のころの父親と撮った写真を探してみた。
たった2枚だが見つかった。
1枚は住んでいた家の前にあったニワトリ小屋の前で父が1歳になるかどうかの妹を抱いて男兄弟3人と映った写真。
ニワトリを10羽ほど飼っていたように思う。毎朝卵を取りに行くのが私の役目だった。
もう1枚は弟子屈の硫黄山の前で父と私が並んで撮ったもの。私が三年生ぐらいであろう。
おそらく父の職場の慰安旅行に同行したのだと思う。
父とは会話が多かったとは言えないが、私が大学生だった頃だろうか、社会人になってからだったか覚えていないが「生まれた真岡へ一度行ってみたい」と言うと「お前もそんなことを言う年になったか」とポツリと言った。