なおじい(HOBBY:カメラ・ビデオ撮影・DVDオーサリング/資格:ラジオ体操指導員・防災士・応急手当普及員)

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どうしてコスモスは「秋の桜」なのでしょう?二十四節気「白露(はくろ)」

2018年09月09日 08時11分28秒 | うんちく・小ネタ

どうしてコスモスは「秋の桜」なのでしょう?二十四節気「白露(はくろ)」

 

2018年09月08日

どうしてコスモスは「秋の桜」なのでしょう?二十四節気「白露(はくろ)」
9月8日より、二十四節気「白露(はくろ)」の節に入りました。暦上ではすでに仲秋。白露が終わると秋分(秋の彼岸)を迎えます。「こよみ便覧」(太玄斎)では、「陰気ようやくかさなりて露こごりて白色となればなり」と解説し、夜間の冷気が露を結び、白く見えるさまを表現しています。夜露を日中のからりとした空気と日差しが乾かすことを繰り返し、草木の実は滋味を増して成熟していきます。
セグロセキレイ

セグロセキレイ

二十四節気に色彩が織り込まれるのはこの節「白露」のみ。五行思想で白が秋を表す(白秋という言葉や、方角では秋は西に対応するため、守護神獣は白虎です)意味もこめられていますが、それならば他の季節の色も入ってもよさそうですよね。
本朝(和暦)七十二候は、初候が「草露白(そうろしろし/くさのつゆしろし)で、白露をそのまま反映させたもの。
次候は「鶺鴒鳴(せきれいなく)」末候は「玄鳥去(げんちょうさる)」。玄鳥=ツバメが越冬のために南に去っていくのはよくわかりますが、鶺鴒=セキレイが鳴き始める、と言う候は、もしかしたら現代の私たちにはピンとこないかもしれません。というのも、ハクセキレイ、セグロセキレイなどのよく見かけるセキレイは、ほぼ全国的に留鳥で、一年中見かける野鳥だからです。しかし実はそうなったのは20世紀後半、戦後になってからで、それ以前には夏季にはセキレイは東北以北に渡りをし、夏が終わると暖地に戻ってきていたのです。地球が温暖化しているので、暑さが苦手ならばこの変化は説明困難ですよね。かつては典型的な冬鳥であったジョウヒタキも、夏に暖地から北行せず留鳥になる傾向があり、人間の近くで暮らす鳥たちに都市化による適応変化がはじまっているのではないか、といわれています。
ときに二十四節気七十二候は、時代とともに自然風物すら変化し、一定ではないことも伝えてくれます。

日本の秋を演出するコスモス。どうして「秋の桜」?

桜に似ていますか?

桜に似ていますか?

さて、そんな秋の花と言うと、さまざま思い浮かびますが、なんと言ってもキクの仲間が目立つ季節ではないでしょうか。もちろん、春にはフキやタンポポ、夏にはヒマワリやアザミと、キク科はどの季節にも咲いていますが、9月9日の菊の節句(重陽の節句)や菊人形祭りなど、菊が主役となる行事が多いこともあり、短日性の性質が強いキク科にとっては日に日に夜が長くなっていく秋はまさに旬。山野では、初秋から可愛らしいヨメナやノコンギクなどの野菊が咲き乱れ始め、晩秋のツワブキ、アワコガネギクまで、さまざまなキクの仲間が次々に咲き継いで、長い秋を彩ります。
日本人が大好きな、あのコスモスもキクの仲間。9月中旬頃から、寒冷地から順に列島を南下しながら咲いていきます。樹上では柿や栗、ドングリがつややかに実り、ススキの穂波が輝く中、細い葉と茎をそよがせるコスモスの群生も、日本の秋の風景そのもの。
でもコスモス(Cosmos bipinnatus)は名前からもおわかりの通り、在来種ではなく外来の植物。メキシコの高地中心に、アメリカアリゾナ州からボリビア原産のキク科キク亜科に属する一年草。高さ1m~2.5mほどになり、茎はよく分岐して葉は羽状に細かく割けて糸状に近い形をしています。小さくまとまった筒状花は黄色からオレンジで、この花房の最外縁に位置した8つの花が、それぞれ花弁の内の1枚が大きく発達して舌状花弁となり、一重咲きの場合は通常8枚の発達した花弁をつけることになります。花色は発色のよいピンク、純白、赤が一般的で、オレンジや黄色などの品種もあります。
かわいらしい花をいっぱいにつけて秋風に揺れるさまは風情があり、全国各地で観光花畑が作られている一方、旺盛な生命力で明治期以来多くの開けた草原や河川敷などで完全に野生化。いまや日本人にとってなじみの深い野の花のひとつとなっています。
このコスモス、漢字で表記すると「秋桜」。何となく流されて受け入れられていますが、なぜコスモスが「秋の桜」なのでしょう?不思議には感じませんか?

「秋桜」の桜とはサクラの花ではなく、あの花のこと

サクラソウ

サクラソウ

コスモスと言う変わった名前は、属名のCosmosから直接取っています。英語でも同様で、語源であるギリシャ語のコスモス(κοσμος)には「秩序・調和・宇宙」、そこから派生して整った外形的な美を表すようになりました。これは、1791年「コスモス」と命名したスペインのマドリッド王立植物園園長・アントニオ・ホセ・カバニエス神父も、8枚の花弁が放射状に広がった万華鏡のような花の整然・端正な姿を神の秩序そのものと感じたためではないでしょうか。
日本には、幕末の文久年間(1861~1864年)にオランダから伝わったのが最初で、その後、明治12(1879)年に東京美術学校(現・東京藝術大学)に招聘された彫刻家のラグーサが種子を持ち込んで植栽するなどして、次第にひろまっていったようです。当初はコスモスを大波斯菊(オオハルシャギク 大春車菊とも)と呼んでいました。波斯とはペルシャのことで、コスモスとペルシャ(イラン)とはまったく関係ないのですが、当時、舶来のものには波斯と名づけることがはやっていたようです。他にも「蛇の目草」などの名がつけられますが、さほど定着せず、やがて明治後期になると、「秋桜」という名で呼ばれるようになります。誰が呼び始めたのかはわかりませんが、この「秋桜」のほうは、今でもコスモスの当て字、漢字名として通用していますよね。歳時記や辞書ではこれを「花びらまたは花の形が桜に似ているから」という説明をしています。けれども、本当に似ていますか?

コスモスの舌状花弁は、ふくらみ、丸みが少なく同じキク科のヒマワリや野菊に近い剣状で、先端はぎざぎざにいくつも切れ込んでいます。桜の花びらはふっくらと丸みを帯びた紡錘形で、先端部は一箇所のみ切れ込んでいます。花の中心部は、コスモスは小さな花の集合体ですが、桜はおしべとめしべです。花色も、コスモスはくっきりとしたピンク、白、赤、オレンジなどの明瞭な色で、かたや桜はうっすらと色づいた微妙な淡い色あい。そして花弁の数は、コスモスが8で桜が5。どうでしょうか。似ているところがどこかあるでしょうか。

では、秋桜の名前の由来は何なのでしょうか。筆者はサクラソウではないかと考えています。
サクラソウ(桜草 Primula sieboldii)はサクラソウ科サクラソウ属の多年草で、春早いころに咲き出す五弁のかわいらしい花です。園芸品種のプリムラは同じ仲間ですから、それを思い浮かべていただくと大体わかります。現在は開発で数を減らしていますが、江戸時代、武士階級の人々が荒川土手近辺に自生するサクラソウを掘り取って盛んに育ててブームにもなりました。現在では埼玉県の県花で、同県のさいたま市桜区の田島ヶ原は、貴重なサクラソウ群生地として、保護されています。
このサクラソウ、桜の花に似た五弁花で、先端部には切れ込みが一つ、花びらの形も作りもよく似ています。このため桜草と名づけられたわけですが、ただ花色はくっきりとしたピンク色。そう、コスモスのピンク色とよく似た色味なのです。秋桜の桜は、サクラソウと似たピンク色の花で、秋に咲く草であることからつけられたもの、ではないかと筆者は考えます。

秋の彼岸ももうすぐ。青く澄んだ昼間の秋空にも、夕焼けの逆光にも美しく映えるコスモスの花を、堪能できる季節がやってきました。

先人が架けた「橋」への感謝を込めた「橋の日」

2018年08月05日 15時43分09秒 | うんちく・小ネタ

先人が架けた「橋」への感謝を込めた「橋の日」

2018年08月04日

先人が架けた「橋」への感謝を込めた「橋の日」
本日8月4日はその語呂合わせから成る「はし」の日です。橋・箸、それぞれ記念日が制定されていますが、今回は「橋」の記念日のご紹介です。宮崎県延岡市から発信された「橋の日」とその活動は、今や全国に広がりそれぞれの地域で、橋や川の清掃、またはその日を記念したイベントを行っています。一方で、この日を「吊り橋の日」と記念している、日本の秘境のひとつでもある奈良県の十津川村には生活用の吊り橋が今なお住民の生活道として使われており、そこには年間約150万人もの観光客が訪れ、今日の記念日には吊り橋の上で「揺れ太鼓」が演奏されるそうです。
「橋の日」は宮崎県延岡市出身の湯浅利彦氏が提唱し、昭和60年に制定、平成6年に記念日協会認定の記念日となりました。この記念日の目的は、先人の知恵や活動によって架けられた橋に対する感謝、また、橋が架けられている海や川、谷などの自然も美しく保たれるよう浄化意識を高め、それによって郷土への愛着を深めるきっかけになればとされており、次のようなイベントが行われています。橋への献花・橋や河川の清掃・橋上または親柱付近で太鼓や吹奏楽などの演奏・橋のスケッチ大会・魚の放流・橋の見学会や公演・橋を巡るスタンプラリーなど、橋にまつわる歴史や情報を得る場として、また人と人のふれあいの場としても盛り上がっているようです。記念日制定と同時に平成60年8月4日に延岡からスタートした「橋の日」運動は、今や全国各地に広がり、昨年2017年には47都道府県で「橋の日」運動や関連するイベントが開催されたそうです。

迫力満点!壮大な自然に囲まれた十津川村の「谷瀬の吊り橋」で「揺れ太鼓」

日本の秘境のひとつ、壮大な美しい自然に囲まれた奈良県吉野郡十津川村でも、この8月4日を「吊り橋の日」として記念しています。十津川村には多くの吊り橋があり、中でも「谷瀬の吊り橋」は観光スポットとしても有名で、8月4日にこの吊り橋上で「揺れ太鼓」の演奏が行われます。生活用の吊り橋として昭和29年に架けられた「谷瀬の吊り橋」は全長297メートル、高さ54メートルあり、生活用の鉄線吊り橋としては日本一の大きさだそうです。辺りは山々に囲まれ、眼下は十津川(熊野川)が流れる絶景の空中散歩はスリル満点です。年間約15万人の観光客が訪れ、多くの方がこの吊り橋を渡るそうです。ちなみに、この橋の通行料は無料。今もなお、住民の方々の生活の道として使われています。

葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節

2018年08月01日 16時11分58秒 | うんちく・小ネタ

葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節

2018年08月01日

「葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節
今年の夏は暑さがいっそう厳しく、先月の文月より酷暑となっている日本各地。いつ終わるとも知れない暑い日々が続いていますが、旧暦のうえでは、この葉月に「立秋」を迎えます。うだるような熱気と湿度の中に、そこはかとない涼を感じるのが、日本人の季節感。来る秋に思いをはせつつ、体調に気をつけて、この月を乗り切っていきましょう。
八月の古名は「葉月」。日本書紀にこの名、「はづき」がまず出てくるのですが、その由来には諸説あるようです。最も有力なのが、樹木の葉が落ち始める頃だから「はづき」だとか、黄色く色づく頃だから「はづき」になったといわれる説。このほか稲穂と関連づけ、稲が実る時期「穂張り月」「穂発月」を略して、「はづき」となったという説も。さらに、台風が多いことから「南風(はえ)月」。雁が飛んでくることから「初来月」ともいわれるようですが、由来はともかく、一年中で最も緑が濃い八月に、「葉月」という名はふさわしい気もします。今年も、炎天の陽ざしに萬木の緑がくっきり鮮やかに燃えたつ季節の到来です。

「田の実」転じて「頼み」。8月1日「八朔」は感謝を伝える日

旧暦八月朔日(ついたち)「八朔(はっさく)」は、別名「田の実の節句」。「田実(たのむ)の祝い」とも呼ばれます。その昔、農村などでは、新しく実った初稲を主の家や知人などに贈り、豊作祈願などを行っていたとか。この風習がいつしか武家社会にも広まり、鎌倉後期より八朔の儀が行われ始めました。これは、主従の間で贈答品を交わす儀式。諸大名や寺社から鎌倉公に贈答品を献上し、鎌倉公の方からも献上者に対して御礼の品々が贈られていたそうです。さらに、江戸時代には幕府の重要な儀式ともなり、現在でも、全国各地で八朔祭や八朔相撲が実施されています。また、京都の祇園では、芸妓や舞妓が踊りや三味線の師匠や茶屋へ挨拶に回るしきたりも。稲の実りを田の神に感謝していたものが、「田の実」転じて「頼み」となり、お世話になっている相手方へ感謝を伝える日となったのでしょうか。このしきたりにならって本日は、周囲の方に改めて感謝し、ありがとうと伝えてみてもいいですね。

8月7日「立秋」からは残暑。涼を呼ぶ残暑見舞いを送りましょう

二十四節気では8月7日に「立秋」を迎えます。夏のまっただ中に、旧暦の上では秋に入るというのは、少し不思議な気がするかもしれません。しかしながら、夏は最も涼を求める季節。そこはかとなく感じられる秋の気配や、涼しいという感覚を求めるのは、この時節ならではです。
冷えた麦茶の一杯に、チリンチリンと鳴る風鈴の音色に、白と藍に染められた浴衣に、一瞬の涼しさを感じるときこそが、葉月ならではの季節の趣。涼を呼ぶ絵柄や色合い、言葉を添えて、大切な方に便りを送るのも素敵な夏の楽しみ方ですね。立秋以降は「暑中見舞い」から「残暑見舞い」とになり、「残暑」というだけで、暑い日々もなんとはなしに残り少なく感じられます。年々苛烈になる酷暑だからこそ、互いにいたわりあって過ごしたいもの。涼を呼ぶ気持ちを伝え合い、積極的に季節を先取っていきましょう。

鎌倉の鶴岡八幡宮では、立秋の日に夏の無事に感謝し秋の訪れを奉告する立秋祭が行われます。宵の参道にはぼんぼりが灯り、神前には鈴虫が供えらるという、古都の夏の風物詩です。
また、朝顔をはじめ芙蓉や木槿など、青空のもと爽やかに咲く一日花が多いのも夏ならでは。一日咲いて、すぐにしぼんでしまうのですが、次々と花開いて私たちの目を楽しませてくれます。
そして、すぐに散るといえば思い浮かぶのが、線香花火。咲いては散って、咲いては散ってを繰り返す線香花火は、どこか夏の終わりを予感させます。くしくも現在、火星が大接近中。空にひときわ赤く輝く火星の姿を探し、夜の秋を感じて過ごすのも一興ですね。

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日

2018年08月01日 16時05分58秒 | うんちく・小ネタ

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日

 

2018年07月31日

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日
第二次世界大戦の戦火がますます激しくなっていた1944年。7月31日のこの日、コルシカ島から飛び立った自由フランス空軍の一機の偵察機が、地中海マルセイユ沖でドイツ軍の戦闘機により撃墜され、地中海に没しました。偵察機に乗っていたのは著名な作家で操縦士でもあったアントワーヌ・マリー・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Roger de Saint-Exupéry)。「夜間飛行(Vol de Nuit)」や「南方郵便機(Courrier Sud)」、そしてあの有名な「童話」である「星の王子さま(Le Petit Prince)」の著者であるサン=テグジュペリです。
星の王子様ミュージアム

星の王子様ミュージアム

サン=テグジュペリは1900年に、フランス中部の都市、リヨンの地方貴族の家系に5人兄弟の3番目として生まれました。12歳の夏休み、はじめて飛行機に搭乗体験をし、その体験をもとにした詩や、作文では才を発揮しましたが、総体的にはあまり成績はよくなく、ぼんやりとした性格と思われていたようです。勉強が苦手なため、志望していた海軍兵学校にも不合格になっています。21歳のときに兵役で航空部隊に配属され、除隊後はセールスマンなどをしていましたが、26歳のときに「南方郵便機」で作家デビュー。
当時、航空機便時代の黎明期としてアフリカ、南米などへの航空郵便の新路線開発が盛んになっており、サン=テグジュペリも航空会社に操縦士として就任、ヨーロッパとアフリカ、南米の空路開発に尽力しました。
以降、「夜間飛行」「人間の土地(Terre des Hommes)」等を著し、ベストセラー作家となってプルースト、ジッド、カミュ、セリーヌ、ジュネ、コクトー…と錚々たる二十世紀フランス文学の顔ぶれの中でも燦然と輝く星の一人としてその名をとどめています。
特にもっとも有名で、その代名詞とも言ってもいい「星の王子さまLe Petit Prince」は、彼の44年の生涯のほとんど「晩年」、43歳のときの作品。当時、ドイツと講和(降伏)し、傀儡のヴィシー政権でかろうじて主権国家の体面を保っていた母国フランスから、亡命したアメリカで書き上げられ、アメリカの出版社から出版されました。

数々の矛盾をかかえたエキセントリックな王子さま。その言動にはどんな意味が?

サハラ砂漠

サハラ砂漠

「星の王子さま」を、その有名な挿絵は知っていても、内容は未読の方のためにごくおおざっぱにあらすじを解説しておきます。
飛行機のパイロットである物語の語り手「ぼく」は、あるとき単独で飛行中飛行機が故障、サハラ砂漠のど真ん中に不時着します。途方にくれている「ぼく」のところに、その場に似つかわしくない華奢な金髪の少年が忽然と現れ、「羊の絵を描いてほしい」と話しかけてきます。自分の星に生えてくる雑草を食べてくれる羊がほしいのだ、と。話を聞くとその男の子ははるか宇宙の小惑星の一つが故郷の「王子さま」で、星に生えているたった一つの花であるバラの花と仲たがいして星を出奔、地球にたどり着いたのだが、ほぼ一年間地球に滞在して、残してきたバラに対する「責任」を果たすために再び故郷に戻ろうと考えているのだというのでした。「ぼく」は少年の語る不思議な身の上話を聞きながら、次第に心引かれていくのですが、少年がある決意をしていることにうすうす気づいていきます。男の子は、地球に落ちてきてちょうど一年目になるその日に、落ちた場所である「砂漠に隠された井戸」の場所で、毒蛇に咬まれて命を落とし、魂だけで星へ帰ろうと決意していたのでした…。

「おねがいします。ぼくに羊の絵を描いてよ」と唐突に語りかける登場の場面から、王子さまは終始一貫して情緒不安定でエキセントリックの塊です。かたや「ぼく」も、人間社会になじめず、自分の描いた「ゾウを飲み込んだ大蛇の絵」を、帽子だとしか見ない大人たちに絶望しているという一癖ある人物。王子さまは「ぼく」の描いた羊の絵をことごとく却下するのですが、困り果てた「ぼく」が空気穴の開いた小箱を描き、「この中に羊がいるよ」と言うと大喜びして覗き込み、大層気に入るのです。そんなかわいい、無邪気な王子さまですが、ところが、ときに実に老成した変な発言をするのです。王子さまは「ぼく」の言動が「くだらない大人みたいな口の聞き方だ」とかんしゃくを起こしたりしますが、正真正銘の子供ならば、相手が大人じみている、と非難したりはしないでしょう。その意味でも、王子さまは生粋の子供ではないのです。かと言って大人でも、老人でもない。

「花の言うことなんか聞く必要なかったんだ。(中略)ぼくは全然理解できてなかった!言葉じゃなくて行いで判断すべきだった。彼女は星を香りで満たして、ぼくを晴れやかにしてくれた。ぼくは決して逃げ出すべきじゃなかった!彼女の哀れなずる賢さの背後に隠れている優しさに気づくべきだった。花ってものはとても矛盾しているものなんだから!でも、そうやって彼女を愛するべきだったと知るには、ぼくはあまりにも若すぎたんだ」

ここでは、子供であるはずの王子さまは、自分の星に置きざりにしてきたバラのことについて、なぜか恋人または妻との関係の拗れで悩む成人男性であるかのように語りだし、「自分は彼女を理解するのには若すぎた」などというのです。
このバラには実際にモデルがいました。南米エルサルバドルの女流作家で妻のコンスエロです。サン=テグジュペリとは30歳のときにアルゼンチンのブエノスアイレスで知り合い、一目で恋に落ちたといわれています。それ以降の死までの14年間、二人は添い遂げていますが、わがままで贅沢なコンスエロの振る舞いは、サン=テグジュペリ側からすると彼を傷つけ憔悴させたようです。コンスエロ側も、後年「バラの回想」という回顧録の中で、生粋の飛行機乗りで地上に居場所が無いかのように所在なげで、何事につけ不器用で自分勝手なサン=テグジュペリに翻弄され、言い寄る女たちとの不倫にも苦しめられた、と振り返っています。家庭内別居や完全な別居も繰り返していて、この二人の関係が、そのまま物語の王子さまとバラの花に置き換えられているのです。
このように理解すれば、王子さまが地球に来て庭園で出会った5000本のバラは、サン=テグジュペリの数々の浮気相手たちであり、王子さまがその地を立ち去るときにその何の罪も無いバラたちに「君たちは空っぽで誰にも愛されていない」と冷たく言い放つ不可解な箇所の理由も、コンスエロへの贖罪とけじめのために必要だったくだりだとわかります。

「星の王子さま」には男性しか登場しない⁉

バオバブの木

バオバブの木

無辜なバラたちに「君たちは空っぽだ」と言えと進言したのは、「ぼく」をのぞけば王子さまの地球上での唯一の友人のキツネです。このキツネは「星の王子さま」の出版にも関わった愛人兼パトロンヌのエレーヌ・ド・ヴォギュエ(サン=テグジュペリは「ネリー」と呼んでいたようです)がモデルといわれます。キツネは数々の賢しげな人生教訓を王子さまにさずけますが、物語中一番の名言として有名な「大切なことは目に見えない」も、キツネが王子さまに語る言葉です。
指摘する論者が見当たらないのですが、「星の王子さま」に出てくる登場人物は、重要な役から端役まで、すべて男性です。意外な感じがしませんか?でも事実、人間の登場人物はすべて男性です。女性とおぼしきキャラクターは花として登場します(キツネは愛人エレーヌがモデルではありますが、本人が男性名で作家として活躍していたのにあわせるように、オスギツネとして登場します。)。これはどうしてでしょうか。
訳者の堀口大學が「夜間飛行」のあとがきで「彼の心性は武士であり、その行動が英雄であることは、彼を知るほどのあらゆる人々の認めるところである」と記し、「南方郵便機」の序文を書いたアンドレ・ブークレルは、「サン=テグジュペリは、寡黙な、遠慮深い、長身の青年だ。人が彼について何を言おうと、少しも彼は感動しない。理由は、彼の肉体が、恐怖に対して不感であると同時に、賞賛に対しても不感だからだ。」と記し、サン=テグジュペリという人物が、危地をものともせずに飛び込むきわめて大胆な勇士であり、一言で言えば「男の中の男」として彼を知るものに賛嘆されていたことをうかがわせます。
キツネは王子さまにこういいます。
「忘れたらいけないよ。君は自分が飼いならしたものに対して常に責任を負わなくちゃいけないんだ。君は、君のバラに責任を負っているんだよ」
王子さまにとってはバラは飼いならした(飼っている)ものであり、飼った以上は責任をまっとうしなくてはいけない、と言うのです。互いに対等に相手を支え、頼りあう伴侶ではなく、王子さま(男性であるサン=テグジュペリ)にとってはバラ(女性)は自分が守ってやらなくてはならない「か弱い存在」であり続けるのです。だからこそ、もう戻れないということを内心では知っている王子さまは、せめてもの贖罪にとヘビに咬まれてこの世を去るのです。

海底から発見された「バラ」の正体

1998年、長い間「行方不明」とされてきたサン=テグジュペリの搭乗機が、ついにマルセイユ沖のマン島海域の海底から発見されます。発見されたブレスレットには、サン=テグジュペリ本人の名と、妻コンスエロの名が刻まれていました。彼にとっての「バラ」の名が、そこに刻まれていたのでした。
サン=テグジュペリは、祖国フランスと「星の王子さま」の献辞を捧げた親友であるユダヤ人のレオン・ヴェルト(その二つもまた、彼にとっては守るべきバラでした)を脅かす、三本の悪しきバオバブに喩えられたドイツ、イタリア、日本の枢軸国を倒すため、自由フランス軍の偵察機に乗り込み、コルシカ島から発進します。それは英雄とたたえられた彼の性情としては当然の行動でした。まるでそれは、自分の故郷の一本のバラを守るために命を落とした王子さまとまったく同じ行為だったといえるでしょう。44歳と言う年齢は、既に操縦士としての停年間際でした。

サン=テグジュペリは軍に所属する際には常に最前線を希望し、危地で率先して働きました。けれども戦闘機には乗ることは常に拒否したといわれます。彼の「勇気」が「悪いやつをやっつけてやる」というありがちの蛮勇ではなく、ただ自分が出来る正しい行いを遂行し、愛するものを全力で守る、その思いだけだったのでしょう。