田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・薫は浮舟の一周忌法要を営み、
はかない契りで終わった女を、
あわれに思った
せめてその供養に、
縁者の者を引き立ててやろうと、
かの常陸介の子供を、
蔵人にしたり、
自分の役所の右近衛府の、
将監にしたりして目をかけてやった
雨が降って静かな夜、
薫は明石中宮の御所へ参内した
御前は人少なだったので、
薫は近ごろ、
印象的だった体験を話そうとして、
「実はここ何年か、
山里に据えて世話していた人がいまして、
その人がみまかり、
ついでゆかりのある人をまた、
手に入れて通っていましたところ、
その人も亡くしまして、
情けなくなってしまい、
道中も遠く思われて、
久しく行っておりませんでした
最近、ちょっとした用で参りまして、
なるほどこの邸は、
道心を引き起こすような聖のすみか、
と思ったりしました」
中宮はすぐ、
横川の僧都の話を思い出され、
薫がいとおしくなられる
(表向きは中宮も薫も源氏の子供
薫の実父は柏木衛門督であるが)
「どんな事情で、
その方は亡くなったのですか?」
中宮がお問いになるのを、
薫は詳しく申し上げない
中宮は、
薫が伏せていることを、
こちらで知っているのも、
お気の毒に思われ、
また実子の匂宮が一時、
すっかりふさぎこまれて、
病気になられたりしたのを、
思い合せられると、
心苦しくなられる
また薫の人柄も、
気軽にものをいわせない所がある
中宮はお口をつぐまれた
その代りに小宰相を召され
「具合の悪いことは隠して、
これこれのことがありました、
と僧都のいったことを、
話しておあげなさい」
薫が小宰相の局へ立ち寄った時、
小宰相はその話をついに、
薫に伝えた
「驚きなさいますな
あなたが亡き人と思し召して、
いられる方は生きておいでです」
薫は衝撃を受けた
なぜ小宰相が知っているのか
(中宮はなぜ、
教えて下さらなかったのだろう
いや、お恨みするのは間違っている
はじめから浮舟が行方知れずになった、
事情は中宮に打ち明けていなかった
これには匂宮がからんでいられるので、
打ち明けられなかった
人には誰にも話さなかったが、
周囲では噂も立っているのだろう
世の中の秘密だって、
いつかは知れてしまう)
薫は思いあぐね、
「不思議な死と思っていた人に、
よく似た身の上だが・・・
それでその人は無事でいるのだろうか」
平静をよそおって、
探りを入れてみた
「僧都が山を下りた日に、
尼にしたのですって
まわりの人が出家させなかったのを、
本人がかたい意志を僧都に告げて、
本意を遂げたということでした」
小宰相はいった
場所も同じ宇治、
あの時のいきさつと、
思い合せれば疑うふしはない
(そうか!
浮舟は生きていたのか
会えばどんな気がするだろう)
薫は確かな情報を得たかった
自分が直接捜しまわるのも、
人はおろかな醜態と噂しようし、
かの匂宮も聞きつけられたら、
再び浮舟に執心なさって、
せっかく思い立った、
浮舟の仏道修行の道も、
妨げられよう
(待てよ、
もしかすると宮はすでにご存じで、
薫には黙っていて欲しいと、
中宮に口止めなすったのかもしれぬ
宮がこの話に関係していられるのなら、
会いたい浮舟だが、
きっぱり思い切ろう
あのまま死んでしまったもの、
とあきらめよう
再びわがものにしようという心は、
もう決して起こすまい)
薫は思い乱れ
それでも確かめたくて、
宮がこのことをすでにご存じかどうか、
うかがいたくて中宮に、
適当な機会を作って申し上げる
中宮のお言葉には、
このことは宮はご存じなく、
今後もお知らせするつもりはない、
というお気持ちが見える
中宮は慎重なご性格であられるから、
どんな秘密も漏らされることは、
あるまい
薫は安心した
浮舟はどこに住むのか
どうやって捜し出せるだろう
薫は日夜、
そのことばかり考えていた
毎月八日には、
薫は必ず薬師如来に寄進のため、
お詣りするので、
叡山の根本中堂には参詣していた
そこからそのまま、
横川に行こうと思った
浮舟の異父弟のまだ童である、
子も連れて行った
しかし浮舟の家族には、
知らせるまい、と思う
再会した時は、
どんな心地だろう?
(浮舟は、
弟をなつかしがるかもしれぬ
おれにはどういうだろう
しかしみすぼらしい姿で、
あやしい尼たちと暮らし、
それも辛い・・・
一年の間、
浮舟は誰に養われていたのか、
卑しい男の影でもあれば、
がっかりするだろうし・・・)
薫は道すがら、
迷い続けるばかりであった
(了)
・尼君の母尼の孫、
紀伊の守は言っている
「故八の宮のお住みになっていた邸に、
日の暮れまで居られました
故宮の姫君にお通いでしたが、
まずお一人は先年亡くなられ、
次にその妹君を内々で住まわせて、
いられたのですが、
この方も去年の春、
お亡くなりになりました
その一周忌のご法事をなさいますのに、
そのお手伝いで私も、
お布施の女装束一そろいを、
調えてさしあげねばなりません
こちらで仕立てて頂けましょうか
織物は私が持ってきますから」
浮舟の心は波立つ
去年亡くなったというのは、
まさしく自分のことではないか
「亡き八の宮さまの姫君は、
お二人と伺っていたけれど、
それじゃ兵部卿の宮の北の方は、
どちらなの?」
妹尼が尋ねる
「薫大将どのの二度目の方は、
母君違いできっと身分の低い人、
だったのでしょう
大将どのは世間に披露なさらず、
内々の扱いをなさっていましたが、
今は大そうお悲しみです」
紀伊の守は語る
(この人は薫の君に、
親しく仕える人なんだ)
浮舟は思って、
自分の存在を知られるはずは、
ないものの恐ろしかった
「光の君とか申し上げた、
故院のご立派さには、
比べられないけれど、
今の世ではこのご一族が、
評判高いのだそうですね
その右大将(薫)さまと、
それから右大臣さま」
妹尼は、
耳にした噂話をいう
「ええ、
右大臣の夕霧さま(源氏の長男)も、
押し出しは立派だし、
威厳がおありでね
それから兵部卿の宮」
まるで浮舟に聞かせるため、
話し続けやがて紀伊の守は帰った
浮舟は、
薫がまだ自分を忘れていないと、
切なくなりながら、
薫よりも強く思われるのは、
母君のことだった
浮舟の思いは、
母君の上にしかなかった
「これをお願い出来ない?
あなたはひねることが、
お上手なんだもの」
と尼君は浮舟に、
衣装の仕立てを頼んだ
ひねる、というのは、
裾や袖の端を内側へ丸めて、
糊付けして始末することである
紀伊の守が頼んだ衣装を、
妹尼たちは裁ち縫いして、
忙しがっていた
浮舟は自分の一周忌のお布施を、
自分で調えるのは不吉で、
いやな気分がして、
気分が悪いと臥してしまった
妹尼は、
「どうなさったの
どんなご気分なの」
急ぎの仕立ても抛って、
浮舟を案じる
尼たちの膝元を埋める衣装は、
紅の衣、
桜の織物のうちぎ
花やかな彩り・・・
「こんなお召し物こそ、
姫君にお着せしたかったのに、
墨染の衣なんて・・・」
愚痴をこぼす尼もある
「昔のことを、
思い出されたのではありませんか
この衣装で・・・」
浮舟は妹尼に申し訳なく、
気の毒でたまらなかった
自分の過去を何一つ、
打ち明けていないことが
それでもやはり今は、
いえることではなかった
「昔のことは、
すっかり忘れてしまいましたけれど、
こんなお衣装を見ると、
物悲しい気持ちになって」
浮舟はさりげなく言った
「お隠しになるのは水くさいわ
私なども世間の人が着る衣装は、
もう長いこと忘れているので、
上手に仕立てられません
あなたもこんな衣装をととのえて、
お世話なすったお母さまが、
いられたことでしょう
まだ生きておいでなの?
あなたのように、
行方知れずになったら、
あきらめきれないで、
いらっしゃるでしょう」
母君のことを言われると、
浮舟は胸がせきあげて、
「もう亡くなられたかもしれません」
涙の落ちるのをまぎらわせ、
「思い出すと辛いものですから、
何も申し上げずにいます
隠し立てなどしているつもりは、
ございません」
言葉少なに答えた
(次回へ)
・中将は人を介して、
浮舟にも挨拶した
取り次いだ人は、
中将の言葉を浮舟に伝えたが、
浮舟は婉曲に拒んだ
思わせぶりな中将の言い分に、
返事をする気にもなれなかった
(もう、色の恋の、
ということは懲りた
あの情熱は人を不幸にしてしまった
中将が言い寄るのさえ疎ましい
わたくしはこれからすべて、
朽ち果てた木のように、
誰にも見捨てられて終わろう
彼岸の浄土だけを夢見て果てよう)
浮舟はそう決心している
そう思うと心が晴れ晴れした
出家という本意を遂げてから、
気持ちが明るくなった
勤行に励み、
法華経はいうまでもなく、
ほかの経典も熱心に読んだ
冬の小野は雪深かった
人の訪れも絶える頃は、
気持ちの晴らすすべもなかった
年も改まった
雪に埋もれた山里は、
春のしるしも見えず、
凍りついた谷川は、
水音さえしない
雪氷に閉じ込められた浮舟は、
宇治のことを思い出さずに、
いられない
宇治川を渡って対岸の小さな邸へ、
匂宮に連れられて行ったこと
夢うつつのあの二日間
輝かしい無思慮の愛の二日間
すべての人生、
すべての情熱を凝縮したような、
恋の愚行の二日間
宮への思慕はもうないけれど、
あの二日間の思い出は、
浮舟の胸に時折たってくる
<かきくらす
野山の雪をながめても
ふりにしことぞ
今日も悲しき>
勤行のひまひまに、
手習いの歌を書きつけた
自分が姿を消してから、
年も改まってしまったが、
思い出してくれる人もあるだろう、
と思う時が多かった
正月の子の日は、
雪間に萌え出た若菜をつんで、
人に贈るならわしがある
長寿を祈るやさしい心からだった
若菜を粗末な籠に入れて、
贈ってくれた人があり、
妹尼は、
「縁起物ですからね、
このお祝いはあなたにね
行き先長い人に」
と浮舟に見せた
「いいえ、尼君さまこそ、
長生きなさってくださいまし
わたくしも元気で生きていくつもり」
浮舟は微笑む
妹尼は、
世の常のように、
浮舟に花やかな衣を着せ、
幸せな結婚をさせたら、
どんなに心ゆくことであったろう、
と思うと浮舟の出家が悲しかった
春は少しずつ近づいている
軒の紅梅が咲く
香りは匂宮を思い出させ、
浮舟は紅梅に気持ちが惹かれる
妹尼の母尼の孫の、
紀伊の守であった男が、
この頃上京して、
山荘へ訪ねてきた
三十ばかりの男で、
風采よく、自信たっぷりのさま
お元気でしたか、
と母尼にいうが呆けてしまっている、
ありさまなので、
妹尼の方へ来て、
「おばあさまはすっかり、
呆けてしまわれましたね
お可哀そうに
先も長くないのに、
お会いすることも出来にくくて、
遠い所で年月過ごしました
両親が亡くなってからは、
おばあさま一人を親代わりと、
思っていたのですが、
常陸介の北の方は、
お便りさしあげていますか」
というのは妹のことであるらしかった
「常陸からは、
長いことお便りはないようです
おばあさまは北の方の、
帰京の日までとても、
お待ちになれないだろうと、
思います」
隣の部屋で、
浮舟は聞いていたが、
「常陸」という言葉が耳に留まった
養父もその昔、
常陸介であった
紀伊の守は言っている
「昨日も伺おうと思っていたところ、
右大将どのが宇治へいらっしゃる、
お供に従いまして・・・」
浮舟は衝撃を受ける
右大将とは薫のことではないか
(次回へ)
・薫の親しい女房、小宰相も、
不思議な事情で亡くなった人のことを、
思い出していた
その女人のことではないか、
と推量するがよくわからない
「その女人は、
生きていることを、
人に知られまいと、
思うようでございます
人目を避けておりますが、
何にしても不思議な事情で、
お救けたものですから、
お話した次第でございます」
中宮は小宰相に耳打ちなさる
「もしかして、
いつかの話に出た人では?
薫の君にお知らせしたいもの」
「まことに」
小宰相もうなずく
とはいっても、
そのひとも薫も、
人に知られたくないであろう、
またたしかに本人と、
確定したわけでもない
そのままになってしまった
一品の宮も、
すっかりご回復なさったので、
僧都は横川に帰ることになった
小野の山荘へ寄ると妹尼は、
恨んだ
「罪作りなことではありませんか
こんな若い身で尼にさせてしまって
私に相談もなさらなくて、
お恨みに思います」
などというが、
すべては済んでしまったことで、
恨み甲斐もなかった
僧都は浮舟にさとす
「御法服を新しくお作りに、
なさるがよい」
僧都は、
ご祈祷のお布施をして頂いてきた、
綾や羅、絹などを浮舟に与え、
「私が生きています間は、
お世話いたしましょう
何もご心配には及びませぬ」
僧都は浮舟に教える
「こんな山奥で、
仏の道にいそしむ人生を選ばれた身は、
もはや執着も煩悩も消え、
お心は自由になられるでしょう
恨めしいこと、
ひけめに思うことももはや、
なくなられましょう
命は草木の葉の薄いように、
はかないものです」
信頼する師僧の言葉は、
浮舟の身にしみ、
心は浄福という思いで、
いっぱいになった
「わたくしは出家したのだ
望ましい言葉、
聞きたかったことを、
心ゆくまでおっしゃった」
と嬉しかった
紅葉の下を、
色さまざまの狩衣を着た、
男たちがやってくる
それは中将であった
浮舟が出家した口惜しさ、
甲斐なき恨み言の一つも言おう、
として来たのである
「紅葉が美しいですね
姫君が出家なさったのは、
いかにも恨めしいのですが、
紅葉に惹かれてまいりました」
妹尼は涙もろくなっていて、
「山里は木枯らしばかり、
姫君は世を捨てられ、
あなたのお足をとどめるすべも、
もうございません」
涙声で返した
中将はそれでも、
まだ断念しきれない
「尼すがたになられたかたを、
ひと目見られないものでしょうか」
と強く要求する
「さあ、
勤行にいそしんおられます」
少将の尼は浮舟の様子を見に、
奥へ入った
浮舟は経を読んでいた
薄鈍色の綾の表着、
紅をを帯びた黄色のうちぎを着て、
ほっそりした姿、
花やかな顔立ちに、
髪は尼そぎのゆえに、
肩の下あたりで断ち切られているが、
わずらわしいまでに、
ふさふさしている
なんと豊かな黒髪
これを断ち切った勿体なさ
(まあ、お美しいお姿!)
少将の尼は涙ぐむ
ましてや懸想している男なら、
どんなであろう
ちょっと垣間見せてあげよう、
少将の尼は襖障子の掛金の穴を、
そっと中将に教える
(こんな美女とは思わなかった)
美しい浮舟を垣間見た中将は、
呆然とする
(しかしこれほどの美女が姿を消して、
捜さない者がいるだろうか
名の知れた者の娘なら、
噂になるはず
不思議だ・・・)
中将は自分の執心をもてあまし、
(尼になった女なら、
興がさめるものだが、
それどころかかえって風情が増して、
心をそそられる
よし、人に隠れてわがものにしよう)
なお野心は消えない
それには妹尼との間柄を、
円滑にしておく必要があった
「私は昔の妻が忘れられず、
こうしてお訪ねするのですが、
今はほかにもう一つ、
私をここへ惹きつける原因が、
加わった思いです」
妹尼は中将の熱心に、
好色心が混じっていはせぬか、
一抹の不安がある
浮舟が世俗の人ならば、
中将と結ばれることを、
願いもしたが、
出家した今は、
中将の情熱に当惑し、
あやぶんでいる
「あなたが真面目な志で、
あの人を訪ねて下さいますなら、
ほんとに嬉しいことに存じます
私のいなくなったのちのことが、
かわいそうで」
妹尼は泣いた
中将は浮舟の身元を、
妹尼の縁辺であろううと、
想像したがなお合点がいかず
「将来のお世話は、
変らずにさせて頂くつもりです
ところで姫君を捜していられる方は、
ほんとにいらっしゃらないのですか
たとえば、夫とか婚約者とか
ちょっと気になります」
「世間の人とおつきあいなさる、
お暮しなら捜す人もいるでしょうけれど、
今は世を捨てて勤行ひとすじという毎日」
と妹尼はいった
(次回へ)
・物詣の妹尼の一行が、
帰ってきてどれだけ驚き悲しんだか
「まあ、
こんなお姿になって」
妹尼は臥しまどろんで泣いた
「出家の身としては、
賛成するのが本当でしょうが、
あなたはまだ先の長いお身の上、
これから先、
どうしてお過ごしになろうというの
私はこの先いつまで生きられるか、
わからないので、
どうかして安心できるように、
してさしあげたいと、
どんなにあれこれ考えましたことか
初瀬の観音さまにも、
よくよくお祈りしてきましたものを」
浮舟の想像以上に、
悲しみにくれ惑うている、
さまを見る
といって、
言葉を尽くして、
尼君を慰め、
あきらめさせる気働きも、
言葉も浮舟は持ち合わせていない
「ほんとうにあなたって、
何をなさるやら・・・」
尼君は泣く泣く、
尼の衣装を準備する
仕える尼たちも、
浮舟の出家を残念がり、
果ては僧都まで悪くいうのであった
その僧都はそのころ、
宮中に詰めていた
一品の宮(明石中宮の女一の宮)は、
僧都のご祈祷によって、
ご快癒なさったので、
人々は僧都の霊験あらたかな、
法力をほめそやす
内裏では、
なおも宮のご病後が心配とて、
ご祈祷を延長されたので、
僧都はすぐに帰山できず、
宮中に伺候していた
雨が降って静かな夜
明石中宮の御前は、
人少なであった
お仕えする女房は、
一品の宮のご看病に疲れて、
退ってやすんでいる
中宮は僧都に、
御張台の内から仰せられる
「このたびの宮の病も、
おなおし頂いてほんとに、
ありがたいことに思います
来世もまたあなたのお導きで、
お救い頂けることと、
いよいよおすがり申したく」
僧都は、
自分ももう長くはないであろう、
と思われ山へ籠って勤行していたが、
このたびの仰せで参上したこと、
一品の宮についた物の怪の、
執念深い恐ろしさなど語るついでに、
「そういえば近ごろ、
珍しい怪異を経験しました
この三月、
老母が初瀬へ物詣に参りました時、
途中の宇治院で泊りました
あのように無住で、
何年も経た大きな邸は、
たちのよくない魔性のものが襲うて、
重い病人によくないことをする、
と申しますがその通りでございました」
と浮舟救出のことを話した
「まあ、気味の悪い・・・
魔性のものが女の人を、
さらってきたというのですか」
中宮は深夜ではあり、
あたりに人は少なし、
恐ろしく思われて、
寝入った人々を起きるように、
言われる
この時、
この話を中宮のおそばで、
聞いていたのは小宰相の君、
かの薫の親しい女房であった
僧都は中宮が怖気られたさまを、
拝見して心無いことを申し上げた、
と後悔し宇治院の現場の見聞は、
くわしく話さず、
「その女人は、
手前がこの度のお召しで、
山を出ましたついでに、
小野に立ち寄りましたところ、
泣く泣く出家させてくれと、
手前に頼むのでございます
深い決心らしゅうございましたので、
髪を下ろさせました
手前の妹の尼が、
亡くなった娘の身代わりとして、
喜んで世話しておりましたのに、
尼になってしまいましたので、
手前を恨んでいるようでございます」
「どうして、
宇治院などへ、
さらっていったのでしょう
でももう、身許もわかっているのでは、
ありませんか」
そう聞いたのは小宰相
「さあ、
手前は聞いておりません」
中宮はあの頃、
宇治のあたりで、
行方を絶ったという、
一人の女のことを、
思い出していられた
(次回へ)