田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・浮舟はこうして、
ついに出家した
妹尼に願い出たとて、
許してもらえそうになく、
きっと反対したであろうに、
嬉しくも宿願を果たしたことで、
浮舟は初めて生きていた甲斐が、
あったと思った
僧都たちの一行は京に出発し、
山荘は再び静寂を取り戻した
少将の尼や左衛門たちは、
「思いがけぬことになってしまって」
と尽きず恨み言をいっていた
「私どもも、
お姫さまのご良縁を、
どんなに願っていたことか
心細いお住居も、
しばらくの間のこと、
やがてお幸せなご結婚をと、
みな期待しておりましたのに、
こんなお姿になってしまわれて
先の長いこれからを、
どうやってお過ごしになるおつもり?
老いさらばえた年寄りでも、
出家するとなると、
人生が終わりのように思えて、
とても悲しいものですのに」
浮舟にいって聞かせるが、
浮舟自身は、
はじめて心の平安を得て、
嬉しいのであった
(ああ、これで、
浮世の苦労と縁切りになった
良縁の、結婚の、ということから、
無縁になったというのは、
ほんとに気楽)
と思った
翌朝、
さすがに浮舟は人目を避け、
部屋も暗くして籠っていた
人の反対を押し切っての出家なので、
昨日までと違った姿を見られるのは、
恥ずかしく、
髪の裾がばらばらなのを、
人に頼んで整えてもらいたいが、
(頼めばしてくれるだろうけれど、
またもや愚痴をこぼされる・・・)
と気がひけて、
いい出せないでいる
もともと、
思うことを人に言えない性分なのに、
まして親しく話せる相手もいないので、
浮舟は書くしかなかった
すべては終わった・・・
と書いた
自分の身も、
愛する人も亡きものに思い、
一度は捨てた世だった
それをまた再び捨てたのだ
同じようなことを書き散らして、
いるところへ、
中将の手紙が来た
少将の尼たちは浮舟の出家に、
動揺しているので、
言い繕う考えも浮かばず、
中将にそのままを告げた
「何だって!
あの美女が尼になったと?」
中将はがっかりしてしまった
なるほど、
そんな気持ちがあったからこそ、
かたくなに相手にならなかったのか、
と合点した
折り返し手紙をやる
「申し上げようのない驚きです
彼岸へ船出なさったあなたに、
私も遅れまいと気がせかれます」
浮舟はいつになく、
中将の手紙を見た
「心は浮世の岸を離れました
けれど、行く末はどうなりますか」
紙のはしに書きつけた
少将の尼はそれを、
中将に送った
浮舟の手紙を初めて、
手にした中将は、
嬉しくもあるが、
すでに相手は俗界の人ではない
それが悲しかった
(次回へ)
・暮れ方になって、
僧都が山荘へ入った
僧都は母尼の部屋へ行き、
老い人のごきげん伺いをし、
「東の御方(妹尼)は、
物詣でに行かれたそうですね
ここにおいでだった方は、
まだ居られますか」
「はいはい、
ここにまだおいででな
気分が悪いとおっしゃって、
戒をお前さまから、
お授け頂きたいと、
いうておられた」
僧都は老母の話だけでは、
心もとなくまた戒を受けたい、
(出家したい)という話を、
聞き逃せないと思い、
たしかめようと東の対へ行き、
「こちらにおいでですか」
と几帳の前に坐った
浮舟は僧都と知って、
にじり寄り、
「はい」
と答える
「どんな風にお過ごしになって、
いられるやら心にかかりながら、
僧の身は、
女性(にょしょう)にお便りするのも、
はばかられましてな
自然にご無沙汰のうちに、
過ぎました
こんな草深いところで、
世を背いた老いびとたちと、
ご一緒では、
お若い身には、
お淋しいことでしょう」
「いえ、
尼君さまには、
たいそうよくして頂いています」
浮舟は今までは、
いつも誰かの後ろ盾に頼ってきた
しかし今はじめて、
わが希望を自分自身で表明し、
わが道をわが手で切り開かねば、
ならない
浮舟は自分の考えていることを、
僧都に伝えようと真剣だった
「この世に生きていまい、
と思い立った身が、
不思議にも生き長らえております
情けなく存じますが
あれこれお骨折り頂きましたご好意、
身にしみて嬉しくありがたいことに、
存じております
生きておりましても、
普通の人のような、
人生は送れぬように思われます
どうかわたくしを、
尼になさってください」
僧都はいう
「まだまだ先の長い、
お若い身の上で、
どうして一途に決められることが、
ありましょう
かえって罪作りです
かたくお気持ちを決めていられても、
年月が経つと女の身というのは、
厄介でしてね、
いろんなことが起こります」
と出家を、
思いとどまらせようとする
「いま急に思い立ったのでは、
ございません
小さい時から苦労の多い身で、
まして少しは世間のことも、
わかるようになりましてから、
世の常の女の幸せはあきらめて、
永遠の心の安らぎ、
後世の幸福を願いたい、
と思うようになりました
この頃はとても心細い気持ちが、
募って何かにすがりたい思いで、
いっぱいでございます
どうか尼にして下さい」
泣きながら訴える浮舟を、
僧都はじっと見つめ、
心動かされた
僧都は、
浮舟の嘆願を聞く気になったものの、
いますぐというのは、
ためらわれた
「わかりました
ともかくご本人が、
出家を決心なさったのは、
仏も賞でられることで、
私も僧の身として、
反対することではない
戒を授けるのはたやすいのですが、
今は急ぎの用で山を下りましたので、
今夜、一品の宮(明石中宮の女一の宮)に、
参上せねばなりませぬ
明日から御祈祷がはじまります
七日で果てますゆえ、
その後退出してきたときに、
お勤めいたしましょう」
七日経てば妹尼は帰ってくる
必ず浮舟の志を制止するに、
違いないと思い、
浮舟は必死にいった
「とても気分がすぐれません
ますます苦しくなります
これ以上悪くなりましては、
せっかく戒をお授け頂いても、
手遅れになります
どうぞお願いいたします」
浮舟が泣きながら、
哀願する姿は、
僧都の私心ない魂に触れた
これほど切望している人を、
望み通りにしてやるべきだ、
と哀れに思って、
「それでは
今夜にも
山を下りるのは昔は、
格別のこととも、
思いませんでしたが、
年を取るにつれ、
辛くなりましてな
ここでひと休みして、
内裏へ参ろうと思っていました
あなたがそうお急ぎであれば、
今日のうちに、
勤めてさしあげましょう」
浮舟は僧都の言葉に、
心から安堵した
「さあ、大徳たちこちらへ」
弟子の僧を呼んだ
「御髪をおろしてさしあげよ」
と命じた
この時、
少将の尼も、
左衛門という尼女房も、
この場にいなかった
少将の尼は、
僧都の一行の中に、
僧になった兄がいるので、
自分の部屋で会っていた
左衛門も知人を接待していた
そこへこもきが駆け込んできて、
「大変です!
お姫さまが出家なさるんです!
ご存じでした?」
というではないか
「まさか・・・
何かの間違いじゃないの」
少将の尼は信じられないで、
あたふたと浮舟の部屋へ来ると、
僧都や阿闍梨も立ち合い、
出家の儀式の最中
にわかのこととて、
定めの衣や袈裟の用意がなく、
僧都自身の衣、袈裟を、
形ばかり肩にかけた浮舟が、
礼拝しているところであった
「まあ、何ということ、
こんな軽はずみなことをなさって
尼君がお帰りになりましたら、
どんなに驚かれますやら」
少将の尼は惑乱して叫ぶが、
「もはや儀式は始まっているものを、
今更言い騒いで、
本人の心を乱さないほうがよい」
と僧都が制したので、
浮舟に近づくことも出来ない
(次回へ)
・浮舟は老いた母尼の部屋で、
寝られもせずまじまじしていた
八十あまりの母尼のお年も、
気の遠くなるほどのものに思われ、
話に聞いていた、
薄気味悪い老い人の間近にいるのが、
何とはなしに怖かった
母尼は宵のうちから寝入って、
大きないびきをかいている
その前に、
同じような年ごろの老尼が二人、
臥せっているが、
これも負けじといびきをかいている
小さな灯のもとに、
三人の老尼が眠り込んでいるさまは、
まるでこの世のものならぬ、
魔か鬼か、化け物のように思われ、
浮舟はおびえてしまう
死んでも惜しから身であるものの、
それとこれは別で、浮舟は、
気味悪く心細かった
女童のこもきを、
連れて来たのだけれど、
この山荘に珍しい男客に、
気を取られてあちらへ行ったまま、
戻ってこない
ほんとに頼りにならない、
お付きであった
中将のほうは、
いくら口説いても甲斐がないので、
根負けして帰ってしまった
少将の尼たちは、
浮舟を非難して、
みな寝静まった
浮舟は一人寝つかれない
夜中ごろ、
母尼はひどく咳きこみながら、
起きだしてきた
灯影にみると、
頭は真っ白だが、
黒い単衣のようなものを、
かぶっている
浮舟が臥せっているのを、
不思議そうに見て、
「はて、
おかしなこと
これは誰じゃな」
とねちねちした声でいうさま、
浮舟は取って食われそうな気がして、
恐ろしかった
宇治で鬼にさらわれた時は、
意識を失っていたので、
かえって怖くなかった
今のほうがよっぽど恐ろしい
人心地ついてみれば、
また昔の辛いことが思い出され、
こんな怖い思いをせねばならぬ
といって、
ほんとに死んであの世へ行ったなら、
そこは地獄、
これより恐ろしい鬼たちに、
囲まれているだろう
悲しいことばかり思われる
母尼はそのうち、
寝入ったようであるが、
浮舟はいよいよ眠れない
(わたくしみたいに、
情けない運命ってあるかしら
本当のお父さまのお顔も知らず、
継父について遠い東国を行き来し、
たまたまお近づきになった、
二條院のお義母姉さまとも、
思いがけぬことで、
ご縁が絶えてしまった
薫さまにめぐりあって、
幸せになろうかという間際に、
何もかも壊されてだめになった
それもみな、
わたくしの心から
匂宮さまの情熱に、
押し流されてしまったからだった
あの方とのご縁で、
こうしたみじめな境遇に、
落ちぶれてしまった)
浮舟は、
匂宮にひとときでも、
心奪われた自分がくやしい
(それから思えば、
薫さまは違っていた
始めからの愛情は、
淡白にみえたけれど、
お気持ちはいつも変わらず、
真心が感じられた
今、思うと、
宮さまとはくらべものにならないほど、
おやさしかった、
と気づくわ
それだけに、
もし薫さまに、
こんな所に生きていたと、
知られた時の恥ずかしさは、
ほかの誰に知られるより辛い・・・
けれど、
生きていたら、
昔ながらの薫さまのお姿を、
よそながらでも拝見することが、
出来るかもしれない)
そう思いつつ、
その矛盾に気づいて、
(いえいえ、
そんなことを考えるさえ、
いけないこと・・・)
とわが心に打ち消す
やっとのことで鶏が鳴き、
浮舟はほっとした
物思いに一夜明かして、
浮舟は気分も悪かった
いびきをかいていた老尼たちは、
早くから起き、
粥などを浮舟にすすめるが、
浮舟はことわった
その朝、
横川の僧都が山を下りられると、
法師たちが山荘に知らせてきた
どうして、急に?
と人々が聞くと、
「一品の宮(明石中宮の女一の宮)が、
物の怪に煩わせたまい、
比叡の座主が、
ご祈祷なさっておられますが、
やはり僧都が参上なさらなくては、
効き目がないと、
お召しがございまして、
右大臣どのの四位の少将が、
昨夜おそく山へ登って来られ、
后の宮(明石中宮)の、
御手紙などありましたので、
下山なさるのでございます」
(僧都さまが山を下りられる?)
浮舟は聞き耳を立てた
(いい機会
勇気を出して僧都さまに、
お願いしてみよう
尼君がいらっしゃれば、
きっと反対なさる
ほんとうの尼にして下さいませ、と
いい折、いまのうちに)
浮舟に迷いはなかった
(次回へ)
・九月になって妹尼は、
初瀬の観音さまにお礼参りを、
思い立った
亡き娘を恋うて、
心細い生活をしていた身に、
娘の身代わりとしか思えぬ人を、
恵まれたので、
観音にお礼を申し上げなくては、
と思う
「さあ、
ご一緒に参りましょう
心配など要りません
あそこの仏さまは、
霊験あらたかな仏さま、
幸せを授けて下さいます」
妹尼は浮舟に同行をすすめるが、
浮舟はその気になれなかった
昔、
母や乳母が同じようなことを言って、
度々お詣りさせられたけれど
(それで幸せになったというの?
何の霊験もなかった
死ぬことも出来ず、
生きていると人に告げられず、
こんな悲しい身の上になって
それに、尼君は何といっても他人、
長い道中の旅を共にすれば、
どんなことになるやら)
と怖かった
しかし、強く拒むことは出来ず、
妹尼の心を傷つけぬよう、
「気分がすぐれませんので、
そのような遠い旅の道中、
どうなることかと、
案じられます」
といった
妹尼は、
さもあろう、
宇治で怖い目にお会いになった、
ことでもあるし、
無理はないと思って、
強いて誘わなかった
浮舟は手習いの紙に書きつけた
<はかなくて世にふる川の
憂き瀬には
たづねもゆかじ二本の杉>
(あるかなきかに、
心細く世に生きてる私
初瀬の古川のほとりの、
ふたもと杉を再び訪ねる気には、
なれない)
尼君はその歌を見つけて、
「おや、
ふたもと杉とおっしゃるからには、
再び会いたい方がおいでですね」
といったが、
それは浮舟にとって、
図星であった
妹尼は事情はわからぬまま、
「<古川の杉のもとだち
知らねども
過ぎにし人によそへてぞ見る>
どんなご事情があったか、
わかりませんが、
私には亡き娘のように、
思っています」
初瀬詣では、
少ない人数でひそかに、
というつもりだったが、
山荘の尼君たちはみな、
お供したがったので、
留守居役は少なくなった
妹尼は、
留守があまりに少なくなるのを、
浮舟のために気の毒に思い、
心利いた少将の尼、
それに左衛門という年輩の、
しっかりした人、
女童などを残した
初瀬詣での一行が出発したのを、
浮舟はぼんやり見送り、
(ああ、つまらない人生
頼みの綱の尼君さえ、
行っておしまいになった
心細い・・・)
と思っているところへ、
中将の手紙が来た
少将の尼は、
「ご覧なさいませ」
というが浮舟は耳もかさない
山荘はいつもより、
人少なで淋しい
浮舟はすっかり沈みこんでいた
少将の尼は慰めて、
浮舟に碁をすすめた
自分の方が強い、
少将の尼はそう思って、
浮舟に先手で打たせてみると、
全く歯が立たぬほど、
浮舟は強い
少将の尼は感嘆し、
「まあ、
尼君が早くお帰りになれば、
お姫さまの御碁をお見せしたいもの
尼君もとてもお強うござます
なんとすばらしい」
少将の尼は面白がっている
老いた尼が、
碁などに興じているのが、
浮舟には好ましくない
月が出て、
風情あるころ、
昼に手紙をよこした中将が、
自身、訪れてきた
(まあ、いやだわ
どういうこと、これ)
浮舟はうっとうしくなって、
奥深く引きこもる
浮舟は不在だと言わせたが、
昼に来た手紙の使いが、
浮舟は留守に残っていることを、
告げたらしく中将は退かない
少将の尼は、
中将と浮舟に挟まれて、
困り切っていた
「尼君がいらっしゃらないので、
代わりにお返事なさる方もいません
何とかご返事を」
と責めるので、
「山里のあわれも分からぬ身、
あなたのお話相手になれますまい」
ひとりごとのように言うのを、
少将の尼は伝えると、
中将はいよいよ心動かされて、
「どうか、ほんのもう少し、
お出になってくださいと、
おすすめして頂けませんか」
人々が困るほど嘆願する
少将の尼が奥へ入ってみると、
浮舟はなんと、
母尼の部屋へ隠れている
普段はめったにのぞかない部屋、
なのに中将を避けたい一心で、
あるらしかった
中将が奥まで踏み込んで来たら、
という懸念があったのであろう
少将の尼は呆れてしまって、
今は仕方なく中将に告げた
中将は嘆きながら、
そこまでかたくなな女の態度に、
新たな好奇心をかきたてられた
「こんな淋しい山里で、
若い女性が物思いに沈むのも、
おいたわしい
ただ風雅を語るお話相手に、
と願ったのだが
これでは私は疫病神のように、
思われているのか
このお仕打ちは、
まるで無教養なわからずやよりも、
もっとすげなく、
にべもないではないか
それとも何かね、
よほど男で懲りた事情でも、
あるのだろうか
どんなわけがあって、
人生に絶望していらっしゃるのか、
いつまでここにおいでに、
なるのですか?」
中将は矢継ぎ早やにたずねたが、
少将の尼も、
詳しいことなど、
どうして自分からいえよう
(次回へ)
・しかし中将は、
断念したわけではなかった
八月十なん日か、
小鷹狩りのついでにまた、
小野へ行った
少将の尼を呼び出し、
「どうか姫君に、
お取りなしください」
と訴えた
浮舟が返事するはずもない
妹尼が中将に会うと、
中将はけんめいにかきくどく
が、妹尼は、
「そうでありましょうけれど、
かの人は世を捨てたい、
と思っているようです
出家するということは、
残り少ない齢の人でも、
心細いものですのに、
まだ先の長い身、
案じられましてね」
親のような口ぶりでいう
妹尼は浮舟に、
中将への返事をすすめるが、
浮舟は臥せってしまう
「つれないお仕打ちですね」
という中将の挨拶に、
浮舟はこたえようともしなかった
あまりにも張り合いのないこと、
妹尼は思う
浮舟にとっては、
まことに迷惑であった
ここにこうして生きていると、
人に知られたくないのに、
人々は熱心に中将との交際を、
すすめる
いまに中将と、
のっぴきならぬ関係を、
結ばされてしまうのではあるまいか
世の人々に、
知られぬまま命を終えたい、
浮舟は悲しく思いながら、
臥していた
中将は、
浮舟のあまりな引っ込み思案に、
白ける思いである
といって、
あからさまに色めいた風を、
匂わせて言い寄るのも、
尼の住む庵という場所がら、
具合悪いのであった
中将は物思わしく、
笛を吹いていた
月の美しい夜、
日ごろは訪れる人もない、
淋しい山荘、
妹尼は久しぶりに風雅を、
味わいたかった
浮舟は周囲の浮かれ心に、
同調する気になれず、
今夜は不本意な羽目になるかも、
と一人醒めて警戒していた
しかしその夜は、
思いがけない宴になってしまって、
浮舟の心配は杞憂に終わった
かの大尼君、
僧都と妹尼の母尼が、
笛の音に誘われて、
老い呆けた心にも、
興を催して出てきた
母尼は八十ばかり
話のあちこちで咳がまじり、
聞きにくい震え声で、
「その琴をお弾きなされ」
と妹尼を促がす
妹尼も元来が、
かなりの風流好みの粋人とて、
調子はずれになっておりましょう、
といいながら弾いた
松風も琴の音を引き立てるばかり
笛の音がそれに加わると、
月も心合わせて、
いよいよ澄み渡る
「まあ、面白や・・・」
母尼はいよいよ賞でて、
眠そうな顔も見せず起きている
中将は帰る道々、
笛を吹いていた
山おろしの風に乗って、
笛の音の面白さ、
老尼たちは聞き惚れて夜を明かした
朝になって、
中将からの手紙が届けられた
「<忘られぬむかしのことも笛竹の
つらきふしにも音ぞなかれける>
(忘れることの出来ない、
亡き妻の思い出、
姫君の冷たいお仕打ち、
どちらも辛くて泣かれます)
何とか尼君から私の気持ちを、
あの方にお言い聞かせ、
願えないでしょうか」
妹尼は婿の手紙に、
どうしていいかわからず、
ため息をつく
それにしても、
亡き娘のことがいよいよ忍ばれ、
涙がこぼれるまま、
返事を書いた
「亡き娘が生きていた頃のことが、
笛の音と共に思い出され、
袖がぬれました
あの人のことでございますが、
不思議なまでに人嫌いで、
ひっそりと閉じこもっております」
中将は落胆して、
手紙を置いた
浮舟はしげしげともたらされる、
中将の手紙が煩わしくて、
ならなかった
若いくせに、
世の中を思い捨てたような浮舟が、
妹尼には理解出来なかった
若さの花やぎのようなものが、
全く見られない
しかし、
器量の美しさ、
愛らしさは見る度、
楽しみなほどなので、
それにすべての欠点は、
許される思いだった
明け暮れ、
浮舟を見るのが喜びで、
妹尼は心が浮き立つように、
めでたくもあっていとしかった
(次回へ)