むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「27」 ②

2025年01月03日 08時57分02秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・(どうしたのかしら、
どこの犬なの、
ひどく鳴くのね)

といっていると、
いつもはそのあたりに、
大小とりまぜて、
飼われている犬たちが、
ひとところへみな走ってゆく

ただならぬ騒ぎだった

そこへ御厠人(みかわやうど)、
下っ端の女官である、
が走って来て、
これも犬好きの若い女であるが、
真っ青な顔で震えていた

「大変でございます、
少納言さま、
犬を蔵人が二人して、
叩いておられます
あれでは死にますわ
犬島へ流されたのが、
帰ってきたそうで、
それで打ちこらしめて、
いられるのです
むごいことでございます」

まるで自分が叩かれているように、
目には涙さえ浮かべている

翁丸のことらしい

犬好きでない人々、
中納言の君や右衛門の君は、

「まあ、
帰って来たんですって?
なんてしぶとい犬なんでしょう、
川を泳いできたのかしら、
犬かきで・・・」

と笑っているが、
私は笑うどころではなかった

その間も悲し気な鳴き声は、
続いている

「誰が打っているの?」

「忠隆さまや、
実房さまでございます」

「忠隆は情け知らずの若者よ、
手心もしないで、
やっているにちがいないわ
わたくしが怒っているといって、
止めさせなさい、
主上は『打ちこらせ』と、
おっしゃったけれど、
『殺せ』とは仰せられなかった
ご仁慈の主上のお心に、
そむことになってよ
もし殺したりしたら、
わたくしが黙っていないからと、
いって来なさい!」

私はたけり狂っていた

私は人間がいじめられていても、

(天然自然の理というか、
運行というか、
やがてはいじめている人も、
いつかはまたどこかで、
いじめられるのだわ)

と客観的に見ることができるが、
動物が虐げられているのを、
見すごすことはできない

そして動物たちの痛みを、
自分のことのように感ずる

それは特に犬においてはげしい

ただ、犬は外を走り回り、
猫のように部屋の内で飼えないので、
いつも身近において愛せないのが、
不便であるが・・・

御厠人や雑仕たちが、
蔵人どもに注進したせいか、
やっと犬の鳴き声がやんだ

「死んだので、
北の門の外に棄てられた」

と御厠人が泣き泣き、
いってきた

この女も残り物など、
翁丸に与えて可愛がって、
いたらしかった

私は気落ちして、
胸が痛く、
翁丸を打ち殺した男どもの薄情さ、
ばかさかげんを、
胸の中でののしっていた

私自身が迫害されたように、
腹が立ち、

(忘れるものか、
あの間抜け男どもの名は、
「春はあけぼの草子」に、
書きとどめて、
後の世の犬好きたちに、
いつまでも呪わせてやるから!)

などと思っていた

その夕方のことだ、
壺庭へ一匹の汚い犬が、
よろよろとあらわれた

体じゅう腫れあがり、
汚らしげに濡れそぼち、
びっこを曳いて、
歩き辛そうにしている

彼は人々の顔をうかがい、
うかがい、歩く

人がそばへ寄ると、
震えながらおびえまどい、
出ていこうともせず、
うずくまる

「翁丸かしら?
このごろこんな犬、
見たことなかったのに」

私は思わず、
はしたなさも忘れて、
縁近くに出てしまう

「翁丸?
お前、翁丸なの?」

と呼ぶが、
犬は耳にも入らぬふうで、
しょぼしょぼした目を、
あらぬ方に向け、
低く苦しげに鳴く

翁丸なら、
自分の名をよく知っていて、
呼ぶとひと声、
さかしく吠えたものなのに

私は何ごとも手につかない

「翁丸らしゅうございますが、
そうとも見えません」

といそいで中宮に申し上げる

中宮も御簾のうちから、
じっとお目を当てられて、

「右近なら主上のおそばにいて、
よく見知っているはずよ、
右近を呼んでいらっしゃい」

と仰せられる

右近は召されて、
すぐにやってきたが、
しげしげとうずくまる犬を、
見やりつつ、

「どうも翁丸とは、
ちがうようでございますねえ
翁丸はもっと若くてきれいで、
ございましたよ
それに、翁丸と呼んでも、
この犬は知らん顔で、
ございますもの、
尻尾を振ってそばへも来ませんし、
たぶん違う犬でございましょう
屈強の若者が二人して、
力ずくで打ち据えたので、
ございますもの、
翁丸は生きてはおりますまい
殺して棄てたと、
いっておりましたもの」

と申しあげる

「かわいそうなことを、
したのね・・・
若い者というのは、
本当に手加減しないから、
心なしのことをしたのね、
男というものは」

と中宮は、
悲しそうにいわれる

その犬はずっと壺庭に、
うずくまりつづけていて、
そのままあたりは暗くなった

「追い出しましょうか?
御前近くに見苦しいものが、
おりましてはお目障りでしょう
また悪い病気でも、
運んでくるようなことがあっては、
いけませんし」

という者もあり、
右衛門の君なども、

「捨てておしまいなさい
汚らしい」

と眉をひそめるが、
私は制していた

もし翁丸なら、
という期待があって、
暗くなってから例の御厠人に、
いって食べ物をやらせた

犬はよっぽど弱っているのか、
匂いをかいだだけで、
食べようとしない

気息奄々というさまで、
地面にべったり横たわっていた

「翁丸、おあがり」

と声をかけても、
目を閉じたまま、
むろん返事もしない

犬を呼ぶと、
耳をそば立て、
瞳をまっすぐ向ける、
あの心と心が通い合う、
一瞬の弾みというものが、
全くなかった

「翁丸じゃなかったのね」

と私はがっかりしていった

「何にしても、
可哀そうでございますわ、
今夜は縁の下へ、
寝させてやりましょう
弱っているようですもの
蔵人の方たちに見つけられたら、
これも殺されるかもしれません」

御厠人は、
古むしろを持ってきて、
その犬を包んでやった

私は犬好きのその女に、
親しみをおぼえて、
お古だけれど、
しっかりした絹の小袖を、
与えてやった






          


(次回へ)

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