<たれをかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに>
(心を許しあった友は
一人逝き 二人逝きして
いまはもう 誰もいない
いったい誰を友としたらいいのか
高砂の松は 私と同じように
年古りているとはいうけれど
松も昔なじみの友ではないのだもの)
・この歌は、おめでたい歌のようにみえるが、
実は淋しい歌なのである。
興風(おきかぜ)の歌は『古今集』巻十七の雑歌にあるが、
その前後は、老いの嘆きの歌が多く集められ、
興風のものも、そのうちの一つ。
老いの孤独と悲愁が出ているが、
その悲しみは、くたくたと崩れず、
凛として男らしい。
長寿の老松の姿は神寂びて立派であるものの、
老いた人の淋しさを慰めてはくれない。
そしてこの場合の「知る人」は、
女ではなく男友達のようである。
興風は、
肝胆相照らした親友を失った淋しさを訴えつつ、
そこに高砂の老松を持ってきて、
人生の老いの悲しみに、
毅然と耐える男のイメージを透かせている。
それがこの歌に格調の高さを与えている。
ついでに老いにかかわる古来有名な歌をすこしばかり、
抜き出してみよう。
「われ見ても 久しくなりぬ 住の江の
岸の姫松 いく世経ぬらむ」
(私が見てからでも、
ずいぶん久しくなったもんだ、
この住の江の岸の、背の低い松は、
いったいどのくらい長い年月を過ごしてきたのか)
「世の中に 古りぬるものは 津の国の
長柄(ながら)の橋と われとなりけり」
(この世の中で、古びて時代おくれになったものは、
津の国の長柄の橋とこの私だな)
「今こそあれ われも昔は をとこ山
さかゆく時も あり来しものを」
(今はこんなに年とったけれどな、
わしもその昔は男山の坂を登るのではないが、
男盛りの登り坂、栄えたときもあったのさ)
長柄の橋の歌にしろ、
男山の歌にしろ、男たちは、
<いやあ、もうダメだよ、この年じゃ>
といいながら、案外他人事のようで、
自分はさして老いを自覚していない。
気は若いようである。
しかし興風の歌は、
そくそくと迫る老年の悲愁にくまどられつつ、
あえて自分を高く持する気概がある。
高砂はいまの兵庫県高砂市、加古川市の海岸、
住吉は大阪市の住吉付近の海岸で、
古代はどちらも老松が生い茂り、
風光美しい名所となっている。
藤原興風、
この人のくわしい伝記は未詳、
貫之と同世代の歌人である。
三十六歌仙の一人。
官位は低かったが、当時は有名な歌人で、
『古今集』にはたくさんの歌が入っている。
(次回へ)