むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

23、赤子を食う鬼  ②

2021年08月23日 08時23分41秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・私の話を聞いた老婆はもらい泣きして、

「それはお気の毒なこと。
そんなご事情なら、そのままここで、心おきなくお産みなさるがよい。
ここはこの婆の独り住み、なんのお気兼ねも要りませぬ」

と奥の母屋へ誘ってくれた。
女はどんない嬉しかったことか。

老婆は板の間に粗末なうすべりを敷いてくれて、
枕元には形ばかりの破れた屏風をめぐらし、
親切に世話をしてくれる。

(仏さまのお助けだわ)

女は嬉しくなって、それからまもなく出産した。
案じたほどのこともなく、安産だった。

五体満足で元気な男の子だった。

「まずはおめでたいことじゃ。
婆は年寄って田舎住みの身なれば、
お産の穢れの物忌みもしませぬ。
安心してここで養生なされ。
産後七日は忌むものなれば、
せめて七日はここにおとどまりなされ」

老婆はそういって、女童に湯を沸かさせ、
うぶ湯を使わせてくれた。

すべて女の予定していたようにうまく運んだが、
予定外のことはただ一つ、
女が生まれた赤子を捨てられなくなったことだった。

生まれてみれば可愛くて、とても捨て去ることなど出来ない。
乳を飲ませて横に寝かせていた。

(この子を連れ帰るところなどありはしないのだけれど・・・
でも、何とかなるだろう。
仏さまのおかげで生むことが出来た子だもの、
きっと何とかなるわ)

よく眠っている赤ん坊の顔を見ながら女はそう思い、微笑んだ。
そのうち、自分もうとうとしはじめた。


~~~


・どのくらい眠ったのか・・・
夢かうつつか、誰やら側に寄ってくる気配。
それはかの老婆であった。

赤ん坊におおいかぶさるようにしてのぞき込み、

「なんと旨そうな。ただひとくちじゃ」

と舌なめずりしてつぶやいている。

はっとして、女は目覚め、薄眼を開けると、
夢の続きのように老婆が側にいて、まじまじと赤子を眺め、
笑みまけている。

白髪が顔に垂れ、薄気味わるく目は光り、さながら鬼である。

(鬼の住みかだったのかもしれない・・・
あの親切は、私たちを取って食おうという下心だったのかもしれぬ)

そう思うと女は震えあがってしまった。
逃げなければならない。
しかし、今騒いではならない。

女は老婆のつぶやきなど耳に入れなかったようにふるまっていた。
この老婆は、昼を過ぎると、昼寝をする習性である。

翌日、老婆が寝入るやいなや、女は女童に赤ん坊を背負わせ、
自分は衣の裾をたくし上げ、手に手をとってあばら家を逃げ出した。

恐怖で無我夢中だった。

(仏さま、もう一度お助け下さい!)

女が念じたせいか、やがて山を出て、もと来た道を西へ、
やっと京の入り口の粟田口に着いた。

町外れの小家へ寄って、

「旅の者ですが、咽喉が乾きましたのでお水を一杯、
所望したいのですが。ついでに着物を着替えたいと思いますが、
一間をお借りできますまいか」

というと、その家の人は赤子を連れた女に同情して、
快く頼みをきいてくれた。

たまたま、その家の若い嫁が子を生んだばかりで、
乳がたっぷり出るというので、
当分、女は赤子を預かってもらうことにした。

折々に赤ん坊の顔を見に、
その家を訪れるのが女の生きがいになったが、
北山科の老婆の話は、決して誰にもあかさなかった。


~~~


・「鬼って、やっぱりほんとにいるんですね」

と若い女がためいきをついていう。

「鬼はあなた、世間のうわさや後ろ指や心無い悪口のことですよ」

老女はいって聞かせる。

「確かに北山科の老婆も鬼ではありましょうけれど、
鬼は京にもどこにも、人の世なら至るところにいるのですよ。
性根を据えて女が決心すれば、鬼になんか食われることはない、
という話ですよ」

老女は微笑み、女たちの一人が聞く。

「その赤ん坊はどうしたんでしょうねえ」

「いい男になりましたよ。よく働いてやさしくて・・・
私をとても大事にしてくれるのですよ。
でも自分が鬼に食われそこなったとは夢にも知りゃしませんよ・・・」

嬉しそうに老女は笑う。

京の夜は木枯らしが闇空を走って、
格子戸も凍てつくばかりの寒さであるが、
暖かい笑いが老女を取り囲むのだった。




巻二十七(十五)






          


(了)

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