・私の話を聞いた老婆はもらい泣きして、
「それはお気の毒なこと。
そんなご事情なら、そのままここで、心おきなくお産みなさるがよい。
ここはこの婆の独り住み、なんのお気兼ねも要りませぬ」
と奥の母屋へ誘ってくれた。
女はどんない嬉しかったことか。
老婆は板の間に粗末なうすべりを敷いてくれて、
枕元には形ばかりの破れた屏風をめぐらし、
親切に世話をしてくれる。
(仏さまのお助けだわ)
女は嬉しくなって、それからまもなく出産した。
案じたほどのこともなく、安産だった。
五体満足で元気な男の子だった。
「まずはおめでたいことじゃ。
婆は年寄って田舎住みの身なれば、
お産の穢れの物忌みもしませぬ。
安心してここで養生なされ。
産後七日は忌むものなれば、
せめて七日はここにおとどまりなされ」
老婆はそういって、女童に湯を沸かさせ、
うぶ湯を使わせてくれた。
すべて女の予定していたようにうまく運んだが、
予定外のことはただ一つ、
女が生まれた赤子を捨てられなくなったことだった。
生まれてみれば可愛くて、とても捨て去ることなど出来ない。
乳を飲ませて横に寝かせていた。
(この子を連れ帰るところなどありはしないのだけれど・・・
でも、何とかなるだろう。
仏さまのおかげで生むことが出来た子だもの、
きっと何とかなるわ)
よく眠っている赤ん坊の顔を見ながら女はそう思い、微笑んだ。
そのうち、自分もうとうとしはじめた。
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・どのくらい眠ったのか・・・
夢かうつつか、誰やら側に寄ってくる気配。
それはかの老婆であった。
赤ん坊におおいかぶさるようにしてのぞき込み、
「なんと旨そうな。ただひとくちじゃ」
と舌なめずりしてつぶやいている。
はっとして、女は目覚め、薄眼を開けると、
夢の続きのように老婆が側にいて、まじまじと赤子を眺め、
笑みまけている。
白髪が顔に垂れ、薄気味わるく目は光り、さながら鬼である。
(鬼の住みかだったのかもしれない・・・
あの親切は、私たちを取って食おうという下心だったのかもしれぬ)
そう思うと女は震えあがってしまった。
逃げなければならない。
しかし、今騒いではならない。
女は老婆のつぶやきなど耳に入れなかったようにふるまっていた。
この老婆は、昼を過ぎると、昼寝をする習性である。
翌日、老婆が寝入るやいなや、女は女童に赤ん坊を背負わせ、
自分は衣の裾をたくし上げ、手に手をとってあばら家を逃げ出した。
恐怖で無我夢中だった。
(仏さま、もう一度お助け下さい!)
女が念じたせいか、やがて山を出て、もと来た道を西へ、
やっと京の入り口の粟田口に着いた。
町外れの小家へ寄って、
「旅の者ですが、咽喉が乾きましたのでお水を一杯、
所望したいのですが。ついでに着物を着替えたいと思いますが、
一間をお借りできますまいか」
というと、その家の人は赤子を連れた女に同情して、
快く頼みをきいてくれた。
たまたま、その家の若い嫁が子を生んだばかりで、
乳がたっぷり出るというので、
当分、女は赤子を預かってもらうことにした。
折々に赤ん坊の顔を見に、
その家を訪れるのが女の生きがいになったが、
北山科の老婆の話は、決して誰にもあかさなかった。
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・「鬼って、やっぱりほんとにいるんですね」
と若い女がためいきをついていう。
「鬼はあなた、世間のうわさや後ろ指や心無い悪口のことですよ」
老女はいって聞かせる。
「確かに北山科の老婆も鬼ではありましょうけれど、
鬼は京にもどこにも、人の世なら至るところにいるのですよ。
性根を据えて女が決心すれば、鬼になんか食われることはない、
という話ですよ」
老女は微笑み、女たちの一人が聞く。
「その赤ん坊はどうしたんでしょうねえ」
「いい男になりましたよ。よく働いてやさしくて・・・
私をとても大事にしてくれるのですよ。
でも自分が鬼に食われそこなったとは夢にも知りゃしませんよ・・・」
嬉しそうに老女は笑う。
京の夜は木枯らしが闇空を走って、
格子戸も凍てつくばかりの寒さであるが、
暖かい笑いが老女を取り囲むのだった。
巻二十七(十五)
(了)