「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、友情

2022年02月16日 09時16分14秒 | 田辺聖子・エッセー集










・主婦というのは、友人を持ちにくいものである。

男や老人たちは、(余談だが「男・トシヨリ」というのは、
社会の概念観念とか、融通の利かぬ頑固な部分、弱い者、
無力な者の呟きに耳を貸さない一刀両断の部分を代表していることが多い)
これは「女・コドモ」と総称される、
社会の力なき者に対応する位置にある。

女・コドモと男トシヨリ、
片や、頼りない、いたいたしい、目を放せない庇護すべき存在、
片や、連達の先輩、頼もしい監護者、指導者、
そういうイメージが双方にあって、力の均衡は比較にならず、
女・コドモは生きにくい。

いや、本当は、女・コドモに男・トシヨリは支えられている。
しかし、それに気づく男・トシヨリは少ない。

その男・トシヨリに言わせると、
主婦になんで友達が要るのか?
夫や子供、家庭があれば、
友情以上の充足を与えられるではないか、
といぶかしむ。

また、地域や子供の教育機関で社交関係があり、
井戸端会議で花を咲かせているではないか、ということだろう。

それも女のなぐさめには違いないが、
質の違う友人が欲しい。

十年先、あなたはおいくつですか?
というのは、友達は自分の人生の蓄積から生まれるというもので、
自分自身が何かを持っていないと、いい友達は得られない。

ただ、友人も結婚と同じで、相手があり、相性がよくなくてはならず、
私がたくさん友達を持って下さいと言っても。難しいと思う。

宝塚を見たり、物を書いたり、というのは一人で出来るが、
友達を持つおすすめは、普遍的な性質のものではない。

地域の顔見知りを除けば、
学校時代の友人、というのが平均的なのだろうか。

何かを足がかりにして、
趣味の集いとか、ボランティア活動とかから、
人の輪を広げていくことが、主婦には大切なことではなかろうか。

どんな人に出会うか?
どんな意見に巡り合うか、わからない。

子供の成長ぶりもあろうが、
それは母と子の完結された円周内にあるもので、
自分の人生基盤をくつがえさせるようなものとは次元が違う。

いつも清新な好奇心が女たちを刺激して美しくする。
そういうものを得るには、何といっても生身の人間の面白さ、
というのは抜群である。

なるべく、自分の住む世界と違う世界の住人と友達になれれば、
いうことはないが、ことに主婦に欲しいのは、
一つには、独身で働き、自活している、年のしまった女。

二つに、男友達。
これも、仕事も家庭もあり、ちゃんとした市民。

そういう大人たちと友達同士になれる世の中になれば、
どんなに女にとって楽しい社会だろうか。

趣味グループ、それも男女の性差のあまりない趣味、
短歌、俳句、書や絵のグループ、地方史研究・・・など。
そういうグループに入って友人をさがすという手もある。

なんで新しい友人を主婦に作って欲しいかというと、
主婦というのはえてして、夫と子供の話しかしないからである。

いや、そういう話も必要だが、
それが、その人独特の味を持っていて「批評」があればであるが。

批評なしにクドクド言われるとまわりは、
「あの人の話は、私弱いのよ」と逃げていってしまう。

別にかまわないという人もいるが、
せっかくの人生を面白く楽しもうという時、
友情というのはすごい宝物である。

我々、日本人は知らない人と知り合いになる技術が下手くそで、
人を見ると警戒心が先立つ。

学生時代、人なつこかった人でも主婦になると、
とたんに人見知りして自閉的になる。

夫が友人たちと気晴らしをするように、
妻たちにも友人がいれば世界が広がって、
批評力も身につき面白い。

夫婦共通の友人もいいが、
妻だけの友人、というのも独立した人格として当然のこと。

夫と子供だけで充足する、という女の人生を私は否定しないが、
人生は長くなった。そして年とればとるほど、
人は愛情にどん欲になる。

何が楽しいかといって、
好もしい人の情愛を受ける、
こちらもお返しをする愛情を持ち合わせるほど、
嬉しいことはない。






          



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1、書くこと | トップ | 3、ハチャメチャについて »
最新の画像もっと見る

田辺聖子・エッセー集」カテゴリの最新記事