「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、書くこと

2022年02月15日 08時56分45秒 | 田辺聖子・エッセー集










・文章を書く、ということが特殊なことではなくなった。
男も女も気軽に筆を取る人が多くなった。

私は小説というのは、
いろんなタイプの作品があった方が面白い、と思う。

狭い文壇でプロといわれる人々だけが独占するのはつまらない。
小説でなくとも、手記ということになれば、
これはたくさんの人々が手を染める。

王朝文化は女性たちが支えたように、
これからの時代も女の人たちが文化の裾野を支える、
というのが望ましい。

書く、ということは、
まず書きたい思いがあふれていなければならない。

そしてそのことを人にも言えない、言っても捉えてもらえない、
深く理解してくれる人なんていない、そういう思いのときに、
人は物を書きたくなる。

ところがたいていの場合、そういう文章は他人には読めない。
他人どころか自分自身で読んでも面白くないことが多い。
人には見せられないものが出来上がってしまう。

それは、自分が悲しい思いをしたもの、
辛いこと、しいたげられたことがあるからではなく、
楽しいことが書かれてあってもそうである。

思いのほとばしるままに節度なく書くと、
相手への憎しみが誇張されて、一方からの見方になり、
読者としては興ざめである。

また相手への愛を手放しにつづってあっても、
読者は「そうですか」というだけである。

読んだ人が、
(なるほど、それは辛かったさろう)とか、
(どんなに嬉しかっただろう)と共感して読んでくれなければ、
書く真の楽しみにはならない。

人は書くことによって、
他者と心を寄り添わせたいという思いがあるから、
日記ならいいかというと、日記はあとで読む自分という読者がある。

この厳しい読者の批判に堪えるようなものでないと、
後へ残らない。

きっとあなたも、昔の日記を読み返した時、
いやになって破棄された経験がおありだと思う。

それは、節度なく書かれた文章が時を経て、
腐臭を放ちはじめたのに中てられたからである。
節度のない文章は、書くあとから腐っていく。

自分の吐いた文書を腐らせるか、
それとも他人も共感させる美しい珠玉とするかは、
ちょっとの境目で別れてしまう。

それは、一種のカンを身につけることである。
日記なら「ものごとのエッセンスだけ書く」
というのが嫌味にならない。

電報のような文章で、
しかもその内容がピタッと表現できれば、いちばんいい。

ともあれ、自分の思いを文章にする、ということは楽しく、
それを読んでくれた人が友人になるということは、
深い人間の喜びである。


~~~


・ただ、文章を書くにあたってのおすすめは、
出来るだけ自分の言葉、やさしい言葉、わかりやすい言葉で書くこと。

難しい漢字や熟語、言い回しは返って手垢がついて、
そこから腐りはじめることもある。

難しい漢字や熟語よりやさしい日本語をたくさん知っているほうがいい。
そういう字をひくための、
「用字便覧」「類語辞典」「反対語辞典」などがある。

しかし、文章力を身につけるには、
本を多く読む、ということに尽きる。






          






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