むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

13、カンボジアに何が ⑥

2022年08月07日 09時01分35秒 | 田辺聖子・エッセー集










・病院から追い出された病人や患者たちだ。

クメール・ルージュは、
それらの人々も容赦しなかったのだ。

ベッドの上で点滴を受けつつ家族に運ばれてゆく病人、
もがきながら進んでゆく両手両足のない男、
十才の娘をシーツに包み、
吊り包帯のように首から吊るして泣きながら歩く父親。

内藤泰子さんも、
腕に針をさし、別の手でリンゲル液の入った瓶を、
持ち上げながら歩いている人を見ている。

それらを見ても立ち止まって助けたりできない。
兵士らが「早く歩け」と怒号する。

もし、逆らったりすれば、
人々の面前ですぐ首をはねられた。

不満を表した多くの学生は、
両手を背中でしばられ、どこかへ連れていかれて、
再び戻ってこなかった。

何かの証明書、パスポートのたぐいも、
その身の安全を保証することはできない。

ポル・ポト軍の兵士は、ほとんど字が読めない。
まして外国語を解する者など、いるはずもない。

彼らを動かすのは、
オンカー・ルウ(革命の上部組織)だけである。

証明書やパスポートを提示して、
何らかの交渉をするという余地は全くなかった。

兵士らは市民を虫けらの如く扱い、
武力を誇示する殺人機械であった。

死の行進についていけない病人や老人が落伍しはじめた。
何キロ、何十キロ先の集結地点まではみな徒歩であった。

クメール・ルージュには、
輸送手段も食糧の配給計画もない。

ついていけなくなった病人や老人は、
道ばたに置き去りにしなければならなかった。

そばについていてやりたくても、
兵士たちに銃床でなぐられ、せきたてられ、追われるので、
心を残しながら立ち去らねばならなかった。

置き去りにされた病人たちは、
数時間後には息をひきとってしまったことだろう。

一方、住民が退去させられたあとの都市では、
荒廃がはじまっていた。

「西側」からきたものは、
腐敗と堕落の象徴であった。

ある商店に押し入った兵士は、ハサミで反物を切り、
薬局に入った兵士は、ビンというビンをたたき壊した。

西欧からきたものも一切、追放の対象となった。

プノンペンの木造の家は壊され、焼かれた。
車は徴発された。

家具、テレビ、冷蔵庫、
その他の家庭用品は、プノンペン北、十キロの、
ストゥンカンボット堤防近くの大焼却場に運ばれた。

ポンショー神父も、
寺院の図書室の本が芝生の上で燃やされるのを見た。

美術館、博物館、図書館、
それにたった一つのテレビ放送局、
みな破壊された。

きちんと分類された数十万冊の蔵書は略奪され、
夜の歩道に滅茶苦茶に放りだされ、
ポル・ポト一派の指導部に盗まれ、
その他の古美術も仏像と共に破壊された。

ポンショー神父は他の外国人らと共に、
国外退去させられるが、それは空路ではなく陸路、
500キロをタイまでトラックで送られるのであった。

このとき道中で見た町はどこも荒れ果てていたという。

神父がそれまで閉じ込められていた、
フランス大使館を出たのは5月6日朝だったとうから、
プノンペン陥落以後、20日ほどのうちに、
カンボジアの都市は死んでしまった。

第二の大都会、バッタンバンでも、
生命の息吹はひとかけらもなかった。

そこからタイ国境へゆくまでに点在する町、
トゥモコール、モンコルボライ、シソポン、ポイぺトなど、
いずれもゴーストタウンだった。

都市を否定したポル・ポト=イエン・サリたちは、
ついでに貨幣も廃止してしまう。

市場、商店、すべての商品経済が廃止され、
外国貿易の道も、中国をのぞいて閉鎖される。

大移動中の人々は、
貨幣廃止のニュースを聞いて耳を疑ったが、
すでに現実は貨幣の価値がなくなっていた。

それは戦時中の日本を見てもよくわかることだが、
非常時には物々交換しか通用しない。

しかし町を追われた市民たちが持って出たものは、
ごくわずかだった。

それらは食糧や生活物資に交換して、
次第に少なくなってゆく。

それにクメール・ルージュの兵士たちは、
人々から時計、ラジオ、貴金属などを取り上げた。

内藤泰子さんたちも野宿を重ね、
ペップヌー、ウドンと移動させられる。

畑仕事、田植え、慣れぬ重労働を、
1日13時間、食糧の配給はごくわずかで、
人々は栄養失調におちいる。

蛙、ネズミ、蛇、サソリ(毒のある尻尾を切って)など、
何でも食べた。

他の地方では、人々は堤防を作り、用水路掘りなど、
オンカー(革命組織)の監視のもとで働き、
身にはボロをまとい、奴隷のような状態となる。

その中で、内藤さんは長男を次男を、
医科大学三年だった義理の娘を失う。

やがて夫のソー・タンラン氏まで病死する。

薬もなく医者もいない。

医者はポル・ポト派たちによって、早い時期に処刑された。
ポル・ポトたちは旧文化のインテリ層を憎悪していた。

ソー・タンラン氏は、
死ぬまでに何度も泰子さんにこういった。

「すまない。
私の見識が甘かったばかりに、
とんでもない苦労をかける。
外交官だった自分が恥ずかしい。
こんなことになるんだったら、
離婚してでも日本へ帰らせるんだった」

しかし誰が、先見の明を誇れただろう。
世界史上でもまれなポル・ポトたちのやりくちをみたら。

ソー・タンラン氏を責めることはできない。
まさか、こんなひどいことをやる一派とは、
誰も夢にも思わなかったのだから。






          


(次回へ)

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