・病院から追い出された病人や患者たちだ。
クメール・ルージュは、
それらの人々も容赦しなかったのだ。
ベッドの上で点滴を受けつつ家族に運ばれてゆく病人、
もがきながら進んでゆく両手両足のない男、
十才の娘をシーツに包み、
吊り包帯のように首から吊るして泣きながら歩く父親。
内藤泰子さんも、
腕に針をさし、別の手でリンゲル液の入った瓶を、
持ち上げながら歩いている人を見ている。
それらを見ても立ち止まって助けたりできない。
兵士らが「早く歩け」と怒号する。
もし、逆らったりすれば、
人々の面前ですぐ首をはねられた。
不満を表した多くの学生は、
両手を背中でしばられ、どこかへ連れていかれて、
再び戻ってこなかった。
何かの証明書、パスポートのたぐいも、
その身の安全を保証することはできない。
ポル・ポト軍の兵士は、ほとんど字が読めない。
まして外国語を解する者など、いるはずもない。
彼らを動かすのは、
オンカー・ルウ(革命の上部組織)だけである。
証明書やパスポートを提示して、
何らかの交渉をするという余地は全くなかった。
兵士らは市民を虫けらの如く扱い、
武力を誇示する殺人機械であった。
死の行進についていけない病人や老人が落伍しはじめた。
何キロ、何十キロ先の集結地点まではみな徒歩であった。
クメール・ルージュには、
輸送手段も食糧の配給計画もない。
ついていけなくなった病人や老人は、
道ばたに置き去りにしなければならなかった。
そばについていてやりたくても、
兵士たちに銃床でなぐられ、せきたてられ、追われるので、
心を残しながら立ち去らねばならなかった。
置き去りにされた病人たちは、
数時間後には息をひきとってしまったことだろう。
一方、住民が退去させられたあとの都市では、
荒廃がはじまっていた。
「西側」からきたものは、
腐敗と堕落の象徴であった。
ある商店に押し入った兵士は、ハサミで反物を切り、
薬局に入った兵士は、ビンというビンをたたき壊した。
西欧からきたものも一切、追放の対象となった。
プノンペンの木造の家は壊され、焼かれた。
車は徴発された。
家具、テレビ、冷蔵庫、
その他の家庭用品は、プノンペン北、十キロの、
ストゥンカンボット堤防近くの大焼却場に運ばれた。
ポンショー神父も、
寺院の図書室の本が芝生の上で燃やされるのを見た。
美術館、博物館、図書館、
それにたった一つのテレビ放送局、
みな破壊された。
きちんと分類された数十万冊の蔵書は略奪され、
夜の歩道に滅茶苦茶に放りだされ、
ポル・ポト一派の指導部に盗まれ、
その他の古美術も仏像と共に破壊された。
ポンショー神父は他の外国人らと共に、
国外退去させられるが、それは空路ではなく陸路、
500キロをタイまでトラックで送られるのであった。
このとき道中で見た町はどこも荒れ果てていたという。
神父がそれまで閉じ込められていた、
フランス大使館を出たのは5月6日朝だったとうから、
プノンペン陥落以後、20日ほどのうちに、
カンボジアの都市は死んでしまった。
第二の大都会、バッタンバンでも、
生命の息吹はひとかけらもなかった。
そこからタイ国境へゆくまでに点在する町、
トゥモコール、モンコルボライ、シソポン、ポイぺトなど、
いずれもゴーストタウンだった。
都市を否定したポル・ポト=イエン・サリたちは、
ついでに貨幣も廃止してしまう。
市場、商店、すべての商品経済が廃止され、
外国貿易の道も、中国をのぞいて閉鎖される。
大移動中の人々は、
貨幣廃止のニュースを聞いて耳を疑ったが、
すでに現実は貨幣の価値がなくなっていた。
それは戦時中の日本を見てもよくわかることだが、
非常時には物々交換しか通用しない。
しかし町を追われた市民たちが持って出たものは、
ごくわずかだった。
それらは食糧や生活物資に交換して、
次第に少なくなってゆく。
それにクメール・ルージュの兵士たちは、
人々から時計、ラジオ、貴金属などを取り上げた。
内藤泰子さんたちも野宿を重ね、
ペップヌー、ウドンと移動させられる。
畑仕事、田植え、慣れぬ重労働を、
1日13時間、食糧の配給はごくわずかで、
人々は栄養失調におちいる。
蛙、ネズミ、蛇、サソリ(毒のある尻尾を切って)など、
何でも食べた。
他の地方では、人々は堤防を作り、用水路掘りなど、
オンカー(革命組織)の監視のもとで働き、
身にはボロをまとい、奴隷のような状態となる。
その中で、内藤さんは長男を次男を、
医科大学三年だった義理の娘を失う。
やがて夫のソー・タンラン氏まで病死する。
薬もなく医者もいない。
医者はポル・ポト派たちによって、早い時期に処刑された。
ポル・ポトたちは旧文化のインテリ層を憎悪していた。
ソー・タンラン氏は、
死ぬまでに何度も泰子さんにこういった。
「すまない。
私の見識が甘かったばかりに、
とんでもない苦労をかける。
外交官だった自分が恥ずかしい。
こんなことになるんだったら、
離婚してでも日本へ帰らせるんだった」
しかし誰が、先見の明を誇れただろう。
世界史上でもまれなポル・ポトたちのやりくちをみたら。
ソー・タンラン氏を責めることはできない。
まさか、こんなひどいことをやる一派とは、
誰も夢にも思わなかったのだから。
(次回へ)