「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

11、女とハレモノ  ①

2021年07月27日 08時08分49秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・下萌えの草に、春の淡雪がつれなく降るが、
積もるともなく消えてゆく早春の夜。

軒の戸に絶え絶えかかる雪玉のように、
涙をこぼしつつ語るのは、この家のあるじの老医師、
典薬頭(てんやくのかみ  典薬寮の長官)である。

前にかしこまるのは、弟子の医師どもであった。


~~~


・何を泣くかというか。

これほど悲しいやら、くやしいやら残念やら、
腹の煮える思いをしたことはないぞよ。
女が逃げ居ったのじゃわ。

恥をいわねば理が聞こえぬとやら、
そもそものおこりは、七、八日前のこと。

わが家に一輌の女車がやってきた。
車の下簾から、えもいえぬ美しい色目の衣装がこぼれて、
何とも色めかしい車じゃ。

はて、どこの上臈がおわしたかと、

「いずれのお車でございます」

と問うても供の者は答えもせぬわい。
ただ車を門の内へ引き入れて、こちらの思惑もかまわず、
車のくびきをわが家の蔀にうちかける強引さ。

雑色(ぞうしき)どもは門のもとにうずくまって、
とかくの挨拶もなし。

わしは不審でもあり、腹も立ち、車のもとへ寄って、

「どなたじゃな。
何のご用事でわせられたか」

と問えば、車の内から女の声で、何者とも名乗らず、ただ、

「よろしきところに部屋を設けて、
わたくしをおろして下さいませぬか」

というではないか。
その声の女っぽい色気というたら・・・
また何と愛くるしい言いぶり、わしは心をそそられた。

わしは身は老いても心は老いぬほうでの、
色っぽい女は大好きじゃ。
女は愛らしく、色っぽくなくてはいかん。

わしは邸の隅の人離れた部屋を掃き清め、
屏風を立て、うすべりを敷きなどして、
車のそばへ行き、用意が出来たというた。


~~~


・「ではしばらくお退き下さいませ。
姿を人に見られますのは・・・」

としおらしく女はいう。
わしが車から離れると、女は扇で顔を隠して下りてきた。

供の女がつづいて下りるかと思うと誰も居らなんだ。
ただ女が下りると、十五、六ほどの女童が車の側へ寄ってきた。

これは徒歩で供をしてきたのであろう。
車の中から蒔絵の櫛の筥を取ってきた。

すると待っていた雑色らがすぐ寄ってきて車に牛をつなぎ、
あっという間に門から出て、いずくへともなく去って行った。

さあ、わしは好奇心でいっぱいじゃ。
部屋におさまった女に簾をへだてて早速、聞いた。

「あなたさまはいったいどなたですかな。
してまた、ご用のおもむきを仰せあれ」

「どうそお近くへお寄り下さいませ。
恥ずかしがったりいたしませぬ」

わしは女のいうままに簾の内へ入って、
まじまじと女を見た。

年のころ三十ばかり、
これが何ともいい女なのじゃ。

髪のかかり、おもだち、まことに美しゅうて非の打ちどころもない。
髪は長々と裾にあまり、よい香りをたきしめた衣を着重ねている。

わしは思わず歯のないしわだらけの顔を笑み崩し、
女の側へ膝をすすめたが、
女はいやがるさまも警戒するさまも見せぬ。

まるで長年、馴れ親しんだ古妻のように、
わしに親しみをみせるではないか。

わしは一瞬、どこやらおかしいと思うたが、
女のやさしいそぶりに有頂天になってしもうた。

それに、みなも知るように、
わしは年来連れ添うた婆さんに、三、四年前先立たれて、
女気も無う過ごしておったところじゃ。

この女、もしかするとわしの妻になってもよい、
という心づもりかと思えば、嬉しゅうてならぬ。

それにつけても、

「どこのどなたで、お名はなんと?」

と問えば、女はさめざめと泣き出し、

「人の業というのはあさましいもの、
命の惜しさには、どんな恥もしのべるものでございますね。
わたくし、どんなことをしても命さえ助かったならばと、
思い切って参上したのでございます。
こうなりましたからには、
生かすも殺すもあなたさまのお心次第、
この身はすっかり、あなたさまにお任せいたします」

というではないか。






          



(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 10、初午の女  ② | トップ | 11、女とハレモノ  ② »
最新の画像もっと見る

「今昔物語」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事