むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、初午の女  ②

2021年07月26日 07時55分54秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・といって女はあとをふり向かず、さっさと行こうとする。

「ま、待ってくださいよ。
これ、この通り・・・
私の申したことにいつわりはありません」

重方、女を引き止め、頭を下げて拝む。

「そんなつれないことをいわれますな、
わが君、わが君、わが君さま、
私の気持ちがうそいつわりでない証拠に、
これからすぐあなたのおうちまでお供して、
愚妻のいるわが家には二度と足を踏み入れませぬ」

夢中で拝んでいる重方の髻(もとどり 髪を頭頂でまとめて結んだ所)を、
女は烏帽子ごとむずとつかみ、
重方の頬を「バシーン!」と打った。

その音たるや稲荷山にもひびきわたるばかり。
重方、びっくりすまいことか、仰天して、

「な、なにをなさるのか・・・」

と仰いで女の顔をはじめて見た。
女は衣をはねあげ、目をいからせ、怒りの色を満面にたたえ、
重方をねめつけている。

重方はわっと二度びっくり。
なんと女は重方の妻ではないか。

「お前、何てことするんだよ・・・」

「そりゃ、どっちのいうことなの、
あんたが浮気もんだっていうことはお友達から聞いていたけど、
あたしに焼餅を焼かせようと思っていうんだろうと思ってた。
だけど本当のことだったのね。
今日こそ、あんたの浮気ごころの正体を見届けたわ。
あんた、さっき、この稲荷の神さまに誓言したわね、
愚妻のいる家には二度と足を踏み入れません、って。
もしそむいたら神罰を受けるわよ、
なんだってまた、あんなこといえるのよ。
憎らしい。
あんたのドタマぶちわって、
往来の人に見せて笑ってやりたいわ。
くそ、いまいましいったらありゃしない」

女はたけり狂う、重方はあわてて、

「わかった、わかった、すまん、
そう興奮するなってば、あやまる、あやまる。
お前のいう通りだ」

となだめすかすが、女は耳にも入れず、
よけい重方を打ち叩き言い募る。


~~~


・そうこうしているうち、
ほかの舎人たちは先へ行っていたが、

「重方はどうしたんだ」

とふりかえってみると、この始末。
みなわらわらと立ち戻って、ことの次第を知り、
笑うこと、笑うこと。

「よかったよかった、
いっぺんこらしめたほうがいいんですよ」

と朋輩は無責任に笑い興じ、妻は意気揚々と、

「この人たちの前で、あんたの性根は見届けたわ」

とやっと髪を放した。
重方は烏帽子はくしゃくしゃに、乱れた着物をやっと整え、
上の社へ逃げて行く。その背後へ妻は、

「あんた、そのひと目ぼれした女のところへ行きなさいよ!
ウチへ戻ったりするとただじゃおかないわ。
あんたの手足の一本二本、折りひしいでやるから、
そう思っといで!」

とどなり、聞いていた人は、わっと笑う。
いや、めざましい女であったよ。


~~~


・ところで重方の奴、あれほど大さわぎしたけれど、
やっぱり家へ帰ってなだめすかして、元の鞘へおさまってしまった。

その妻は腹の虫もおさまったか、許したらしい。

「お前ねえ、やっぱりおれの女房だから、
あんなことが出来るんだよ。
ほかの男にはあんな振る舞い出来ないよ。
おれの人徳のおかげだ」

と重方がいうと、妻は大笑いして、

「何いってんの、バカ。
自分の妻の顔も分からず、
声も聞き分けられないで、恥をかくなんて、バカの骨頂だわ」

この事件は世間の評判になったので、
重方はしばらく肩身せまくしていたよ。

その妻はほんとに猿みたいな女だったのかって・・・?
いやいや、美人で若かったよ。

重方が亡くなったときも、まだ女ざかりで、
女っぷりもぐっと上がって、人の世の面白さ、
その妻は引く手あまたで、幸福な再婚をしたという話だ。

紅梅、萌黄の衣を美しく着飾った女が、
なよなよした物越しで行く。

若侍たちは思わず視線を引きつけられつつも、
もしや妻か、恋人ではあるまいかと、
じっと目を凝らすのであった。


巻二十八(一)






          


(了)

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