むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、生霊の女  ②

2021年07月20日 08時43分59秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「ここがそのお邸ですよ」

「まあ、ありがとうございます」

女はしとやかに礼をいう。

「さぞ先をお急ぎでいらっしゃいましたろうに、
わざわざ引き返して送って下さいましたご親切、
お礼の申しようもございません。
私は近江の国なにがしの郡、しかじかの所に住む、
こうこう申す者の娘でございます。
東の国へお下りになりました節は、
道筋でございますから、ぜひお立ち寄り下さいませ。
いろいろ申し上げたいこともございますので」

とていねいにいうさま、
いかにも尋常な様子であったが、
おれが答えようとしたとたん、
女の姿はふっとかき消すように失せた。

門の戸は閉まったままだったのだ。
門が開いていれば内へ入ったとも思えようが、
閉まったままの門の中へどうやって女は入ったのだ、
なぜ消えたのだ。


~~~


・おれはにわかに頭の毛が逆立つほど恐ろしくなってきた。
逃げようと思っても足がすくんで動かない。

と、そのときだ、
突然、家の内で泣きわめく声があがった。

何ごとか、と聞くと、
どうやら人が亡くなったとあわてふためいている様子。

もしやそれと、あの女とは関係があるのだろうか、
やはりあの女は魔性のものだったのだろうか、
おれがあの女を案内してきたのが悪かったのだろうか。

だけどおれは親切ごころで、
わざわざ出発を延ばして案内してやったんだものなあ。

邸内の様子が知りたいが恐い。
恐いが知りたい。

おれは怖さ半分、好奇心半分、
もう旅なんかより成り行きが知りたくて、
あたまがいっぱいになって門の前をうろうろし、
ようやく夜が明けてきたので、
その邸の知りびとをつかまえて、

「どうしたんだ、この騒ぎは」

と聞いた。その知りびとはいうじゃないか。

「あるじの殿が亡くなったんだよ、急に」

「いったいどうしてだ?」

「近江の国に殿の愛人がいてね、
・・・いやもと愛人とうべきか、
その女、殿に捨てられて近江へ帰ったんだが、
どうやら生き霊になって殿を悩ますようになった。
ここ数日、体具合を悪くされていたが、
この明けがた、殿が急に、

『生霊が目の前にあらわれた!』

と叫んでそのままこときれてしまわれたという次第。
やっぱり生霊が人をとり殺すということはあるもんだなあ」

聞いているうちにおれはがたがた震え出してきたよ。

あの時、どこか不気味だ、ぞっとする、
と思った感覚は見当はずれじゃなかったんだ。

おれは生霊を案内したんだからな。
おれはぞくぞく寒気がして、頭が痛くなってきた。

もう旅どころじゃない、
出立をとりやめて家へ戻った。


~~~


・二日ぐらいして体も気分ももとへもどったところで、
おれは東国へ下ったが、女がいっていた村を通るとき、
ふと、あの女がいっていたことは本当なのかどうか、
またもや好奇心半分、怖さ半分で行ってみた。

行ってみると、ほんとうにその人の邸はあった。
おれはそこへ行って人に取りつがせた。

すると女の返事は、

「そういうことがあったような気もします」

おれは邸内へ呼び入れられた。
女は簾の奥にいて顔は見えない。
しかし、

「ようこそ、お立ち寄り下さいました。
かねてお礼をと存じておりましたが、
まずまずこれをお上がり下さいませ」

食事が並べられる。
土産にと絹や布が積みあげられる。

「道に迷っていましたとき、
あなたさまに出会えたあのときの嬉しさは、
いま思うても・・・ふ、ふ、ふ、ふ・・・」

と女はいうが、してみるとこの女は、
生霊でいたときの記憶を今も失わないでいるのだろうか。

現し身か生霊か、生霊が現し身か、
おれは再びぞ~っとして、

「し、失礼する・・・」

土産ものだけは両手に抱きかかえ、
横っとびにその邸を走り出た。
いや、生きた心地もない恐ろしさであったよ・・・


~~~


・男がそこまで語ったとき、
暗い下屋の天井のあたりから、

「ふ、ふ、ふ、ふ・・・」

という女の笑い声が聞こえた気がした。
男たちは思わずぎゃっとわめき、わななき伏したとたん、
遠くで嵐に何か倒壊した物音。

なおも嵐はやまず、
女の笑い声も風の音のまぎれかもしれなかった。

京の夜は嵐の荒れるに任せ、更けてゆく。
前栽の萩も撫子も倒れ伏したことであろう。


巻二十七(二十)






          



(了)

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