・「ここがそのお邸ですよ」
「まあ、ありがとうございます」
女はしとやかに礼をいう。
「さぞ先をお急ぎでいらっしゃいましたろうに、
わざわざ引き返して送って下さいましたご親切、
お礼の申しようもございません。
私は近江の国なにがしの郡、しかじかの所に住む、
こうこう申す者の娘でございます。
東の国へお下りになりました節は、
道筋でございますから、ぜひお立ち寄り下さいませ。
いろいろ申し上げたいこともございますので」
とていねいにいうさま、
いかにも尋常な様子であったが、
おれが答えようとしたとたん、
女の姿はふっとかき消すように失せた。
門の戸は閉まったままだったのだ。
門が開いていれば内へ入ったとも思えようが、
閉まったままの門の中へどうやって女は入ったのだ、
なぜ消えたのだ。
~~~
・おれはにわかに頭の毛が逆立つほど恐ろしくなってきた。
逃げようと思っても足がすくんで動かない。
と、そのときだ、
突然、家の内で泣きわめく声があがった。
何ごとか、と聞くと、
どうやら人が亡くなったとあわてふためいている様子。
もしやそれと、あの女とは関係があるのだろうか、
やはりあの女は魔性のものだったのだろうか、
おれがあの女を案内してきたのが悪かったのだろうか。
だけどおれは親切ごころで、
わざわざ出発を延ばして案内してやったんだものなあ。
邸内の様子が知りたいが恐い。
恐いが知りたい。
おれは怖さ半分、好奇心半分、
もう旅なんかより成り行きが知りたくて、
あたまがいっぱいになって門の前をうろうろし、
ようやく夜が明けてきたので、
その邸の知りびとをつかまえて、
「どうしたんだ、この騒ぎは」
と聞いた。その知りびとはいうじゃないか。
「あるじの殿が亡くなったんだよ、急に」
「いったいどうしてだ?」
「近江の国に殿の愛人がいてね、
・・・いやもと愛人とうべきか、
その女、殿に捨てられて近江へ帰ったんだが、
どうやら生き霊になって殿を悩ますようになった。
ここ数日、体具合を悪くされていたが、
この明けがた、殿が急に、
『生霊が目の前にあらわれた!』
と叫んでそのままこときれてしまわれたという次第。
やっぱり生霊が人をとり殺すということはあるもんだなあ」
聞いているうちにおれはがたがた震え出してきたよ。
あの時、どこか不気味だ、ぞっとする、
と思った感覚は見当はずれじゃなかったんだ。
おれは生霊を案内したんだからな。
おれはぞくぞく寒気がして、頭が痛くなってきた。
もう旅どころじゃない、
出立をとりやめて家へ戻った。
~~~
・二日ぐらいして体も気分ももとへもどったところで、
おれは東国へ下ったが、女がいっていた村を通るとき、
ふと、あの女がいっていたことは本当なのかどうか、
またもや好奇心半分、怖さ半分で行ってみた。
行ってみると、ほんとうにその人の邸はあった。
おれはそこへ行って人に取りつがせた。
すると女の返事は、
「そういうことがあったような気もします」
おれは邸内へ呼び入れられた。
女は簾の奥にいて顔は見えない。
しかし、
「ようこそ、お立ち寄り下さいました。
かねてお礼をと存じておりましたが、
まずまずこれをお上がり下さいませ」
食事が並べられる。
土産にと絹や布が積みあげられる。
「道に迷っていましたとき、
あなたさまに出会えたあのときの嬉しさは、
いま思うても・・・ふ、ふ、ふ、ふ・・・」
と女はいうが、してみるとこの女は、
生霊でいたときの記憶を今も失わないでいるのだろうか。
現し身か生霊か、生霊が現し身か、
おれは再びぞ~っとして、
「し、失礼する・・・」
土産ものだけは両手に抱きかかえ、
横っとびにその邸を走り出た。
いや、生きた心地もない恐ろしさであったよ・・・
~~~
・男がそこまで語ったとき、
暗い下屋の天井のあたりから、
「ふ、ふ、ふ、ふ・・・」
という女の笑い声が聞こえた気がした。
男たちは思わずぎゃっとわめき、わななき伏したとたん、
遠くで嵐に何か倒壊した物音。
なおも嵐はやまず、
女の笑い声も風の音のまぎれかもしれなかった。
京の夜は嵐の荒れるに任せ、更けてゆく。
前栽の萩も撫子も倒れ伏したことであろう。
巻二十七(二十)
(了)