「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

12、唐櫃の僧  ①

2021年07月29日 08時30分11秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・京の山々に霞が立ち、空の色は柔らかになる。
鴨川の岸辺はひと雨ごとに緑が濃くなってゆく。

折ふし淡雪の舞う時もあるが、
道に落ちるひまもなく溶け、
牛車の屋根や供人の髪を湿らせる程度である。

どこの邸であろうか、町角に梅の香が匂う。
その匂いをたずねてみれば、祇園のお寺、
感神院の庭の色濃き紅梅であった。

その紅梅に劣らぬ、美しい色の衣が簀子縁に流れている。
参詣の女人であろうか、三、四人ばかりが局のうちで、
中年の僧を囲んで話に耳をかたむけているのであった。

中年の僧は弁口もなめらかで表情も豊か、
肉置きもふっくらと、中々魅力的な坊さんである。


~~~


・さ、何か近ごろ面白い話、
と所望されましても、世間知らずの坊主より、
あなたさまがたのように、内裏づとめのご身分のほうが、
さまざま面白いことも見聞きなさっているはず。

女房がたと殿上人との恋やら、歌合わせやら、と・・・

は?
そういうことは聞き飽いた、見飽いた、と?
何ぞ坊主の世界でのことと?

いやはや、僧侶もこれで中々に妄執の業深いもの、
地位の出世のと、そこはそれ、浮世と同じでございますよ。

しかしこの私めは、
そちらのほうはとんと関心がございません。

それよりやさしい色好みの坊さんの話をいたしましょう。


~~~


・なにがしの寺の別当(最上位の僧)でございましたがな、
これがさる受領(地方長官)なにがしの国の守の妻のもとへ、
忍んで通っておりました。

この守はもう初老の、じっくりと思慮分別もある男でした。

坊さんはというと、これも中年ながら、別当という地位にあって、
諸僧の尊敬を受けるにはあまりに風流気の多い、
物のあわれを解する人となりでしてな。

早くいえば、昔から色好み、今も色好み。
性質は人なつこく、滑稽なところがあってそこが女にもてるとみえます。

別当さま、別当さま、とあちこちの女人衆から大人気。
この別当どのが、守の北の方とねんごろになってしまいました。

この北の方は夫よりずんと若く、愛嬌ある美人、
若いだけに無分別でございます。

「夫には分かりゃしませんわ。
どうぞ家へいらして下さいませ。
お寺での逢瀬は人目も多くおちつきませんもの。
うちの女房なら大丈夫、みなあなたさまびいきですから、
口裏を合わせてくれましてよ」

甘いささやきに別当どの、
ふらふらとなって女の連絡が入ると早速、
守の邸へ忍んでいきました。

一度二度、三度と重なるうちに、
はじめのうちこそおっかなびっくりでございましたが、
慣れるに従い、度胸もついてまいりました。

守が外へ出ると入れ替りのように入り込み、
のちはわが物顔で、ゆったりと手足をのべ、若く美しい北の方と、
夢中で愛をささやいておったのでございます。

さてある日。

いつものように使いが来ましたので邸へ出かけ、
あるじ顔でくつろいでいたところ、
にわかに門の辺りが騒がしく、

「殿のお帰りじゃ、早いお帰りじゃ」という声。

別当どの驚くまいことか、
北の方も女房たちも真っ青になりました。

別当どのも北の方も、着物を身にまとうのが精いっぱい。

「こ、これへ、ひとまず別当さま、お入り下さいまし」

と女房は部屋の隅にある衣装入れの唐櫃(からびつ)の、
蓋を開けます。

これはかなり大きな、四つ脚つきの長櫃、
男一人がゆったり入れますが、とっさのこととて、
言われるままにそこへ隠れるより仕方がありませぬ。

女房が唐櫃の錠をおろすかおろさぬかで、
早くも足音がして、

「お帰り遊ばしませ。
今日のお帰りは夜遅うなるとの仰せでしたのに・・・」

と気のせいか、わななきがちな北の方の声。

「うむ。思いのほか、用が早う済んでの」

と落ち着いた守の声。

別当は長櫃に横たわり、
暗闇の中で冷や汗を流しておりました。






          


(次回へ)

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