・「どうしたのじゃ。
そなたも女房どもも、どこか、そわそわした気色?」
「い、いいえ、なぜそのようなことを」
「着替えをしたい。
いや、それではない。
唐櫃のを出してくれい」
「あ、あのう・・・」
北の方より、中にいる別当は生きた心地もしませなんだ。
見つかれば守の家来に斬りつけられるか、
怒り狂った守に蹴り殺されるか、踏みつぶされるか・・・
「はて。どうした、その唐櫃は」
「は?」
「いつもとは違うて錠をさしているではないか」
「は、はい。
あなたさまのお大切なお召し物でございますから・・・」
「大切なお召し物、のう。・・・」
守の声が途切れ、息づまるような沈黙。
ところがそのあいだ、守は硯を引き寄せ、
さらさらと書状をしたためていたのでございます。
ややあって、侍を呼び、
「この唐櫃の中なるものを、
なにがし寺へ誦経料に寄進してまいれ。
それ、これが寄進の申し状じゃ。
この書きつけをお渡しして納めてまいれ」
「心得ましてございます」
やがて仕丁が呼ばれ、二人が前後を担ぎ出します。
「や、これは重いげな」
と唐櫃を担いで出てゆくではありませんか。
北の方と女房はわななき震えつつ、
「あれ、あれ、あの唐櫃を・・・」
と困り果ててもどうすることもできませなんだ。
~~~
・さて、その唐櫃が運ばれましたのは、
別当どのご自身のお寺、僧どもが出迎え、
「これはこれはご奇特なこと。
さぞや結構な財物を寄進されたのでありましょうな、
殿によしなにお礼を言上なされて下され。
別当どのにいそいでおいで願え」
と呼びにやります。
別当どの、寺内のどこにおられますものか。
若い僧が戻って来て、
「お捜ししましたが、どこにもおいでになりませぬ」
「いや、それは困った、
別当どののお指図がなくば、勝手に開けられませぬ」
使いの侍が申すには、
「手前も長々とお待ちするわけには参らん。
別当どのが居られずば、手前、立会人となりましょう。
それならご心配いりますまい。
すぐにこれを開けられい。
手前も忙しい身、ただちに邸に戻らねばなりませぬ」
僧どもも困りました。
「いかがしたものであろうか、
別当どののお許しもなく、
われらが勝手に寄進物を受け付けたとあっては、
寺の規則にそむくことになりますでの。
ほかから何といわれても」
と、そのとき、唐櫃の中から、
蚊の鳴くようななさけない声が聞こえました
「よいよい、内から許す」
さあ、みんな、びっくり仰天。
こわごわ唐櫃を開けてみれば、別当どの、
きょろりと頭をもたげられる。
「わ、これは何としたこと・・・」
別当どののありさまを見れば、事情が一目瞭然。
恥ずかしい寄進物のいきさつ、僧どもは目を見合わせ、
言葉もなく逃げ去り、使いの侍も呆れてそそくさと立ち去り、
ご本人の別当どのはましてや天にも地にも、
身のおきどころがないさまで、こそこそと逃げて行きました。
~~~
・この守は、かねて妻の行動をひそかに知っていたようです。
別当どのを引き出して踏むの蹴るのの騒ぎも人聞き悪い。
恥をかかせるだけでよい、と考えたのは、
年配者らしい知恵でございますな。
世間は、守の落ちついた処置を、
ほめたたえたものでございます。
しかしおかしいのは、世間の評判。
このことで別当どの、またまた人気者になってしまいました。
「内から許す」というひと言が女人衆に気に入られて、
「やっぱり楽しいわ、あのお坊さん」
などと、もてて、もてて・・・
「お兄さま」
と女房たちのうちの一人が、
笑いをこらえつつ、僧の話をさえぎった。
「いやだ、お兄さまったら。
その別当って、お兄さまご自身のことじゃないの?」
「いや、・・・うむ・・・まあまあ、
どっちでもいいが、こんな話『枕草子』などに書くなよ」
僧はあたまを抱えて閉口する。
女は清少納言と内裏で呼ばれる女房であり、
僧はその異母兄の祇園の別当・戒秀である。
笑い声のひびく軒先に、うぐいすの声、
『枕草子』には書かないけれど、この話、
人々に広まっていくだろうなあ、清少納言は考える。
(了)