むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、唐櫃の僧  ②

2021年07月30日 08時36分38秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「どうしたのじゃ。
そなたも女房どもも、どこか、そわそわした気色?」

「い、いいえ、なぜそのようなことを」

「着替えをしたい。
いや、それではない。
唐櫃のを出してくれい」

「あ、あのう・・・」

北の方より、中にいる別当は生きた心地もしませなんだ。

見つかれば守の家来に斬りつけられるか、
怒り狂った守に蹴り殺されるか、踏みつぶされるか・・・

「はて。どうした、その唐櫃は」

「は?」

「いつもとは違うて錠をさしているではないか」

「は、はい。
あなたさまのお大切なお召し物でございますから・・・」

「大切なお召し物、のう。・・・」

守の声が途切れ、息づまるような沈黙。

ところがそのあいだ、守は硯を引き寄せ、
さらさらと書状をしたためていたのでございます。

ややあって、侍を呼び、

「この唐櫃の中なるものを、
なにがし寺へ誦経料に寄進してまいれ。
それ、これが寄進の申し状じゃ。
この書きつけをお渡しして納めてまいれ」

「心得ましてございます」

やがて仕丁が呼ばれ、二人が前後を担ぎ出します。

「や、これは重いげな」

と唐櫃を担いで出てゆくではありませんか。
北の方と女房はわななき震えつつ、

「あれ、あれ、あの唐櫃を・・・」

と困り果ててもどうすることもできませなんだ。


~~~


・さて、その唐櫃が運ばれましたのは、
別当どのご自身のお寺、僧どもが出迎え、

「これはこれはご奇特なこと。
さぞや結構な財物を寄進されたのでありましょうな、
殿によしなにお礼を言上なされて下され。
別当どのにいそいでおいで願え」

と呼びにやります。

別当どの、寺内のどこにおられますものか。
若い僧が戻って来て、

「お捜ししましたが、どこにもおいでになりませぬ」

「いや、それは困った、
別当どののお指図がなくば、勝手に開けられませぬ」

使いの侍が申すには、

「手前も長々とお待ちするわけには参らん。
別当どのが居られずば、手前、立会人となりましょう。
それならご心配いりますまい。
すぐにこれを開けられい。
手前も忙しい身、ただちに邸に戻らねばなりませぬ」

僧どもも困りました。

「いかがしたものであろうか、
別当どののお許しもなく、
われらが勝手に寄進物を受け付けたとあっては、
寺の規則にそむくことになりますでの。
ほかから何といわれても」

と、そのとき、唐櫃の中から、
蚊の鳴くようななさけない声が聞こえました

「よいよい、内から許す」

さあ、みんな、びっくり仰天。

こわごわ唐櫃を開けてみれば、別当どの、
きょろりと頭をもたげられる。

「わ、これは何としたこと・・・」

別当どののありさまを見れば、事情が一目瞭然。

恥ずかしい寄進物のいきさつ、僧どもは目を見合わせ、
言葉もなく逃げ去り、使いの侍も呆れてそそくさと立ち去り、
ご本人の別当どのはましてや天にも地にも、
身のおきどころがないさまで、こそこそと逃げて行きました。


~~~


・この守は、かねて妻の行動をひそかに知っていたようです。
別当どのを引き出して踏むの蹴るのの騒ぎも人聞き悪い。

恥をかかせるだけでよい、と考えたのは、
年配者らしい知恵でございますな。

世間は、守の落ちついた処置を、
ほめたたえたものでございます。

しかしおかしいのは、世間の評判。
このことで別当どの、またまた人気者になってしまいました。

「内から許す」というひと言が女人衆に気に入られて、

「やっぱり楽しいわ、あのお坊さん」

などと、もてて、もてて・・・

「お兄さま」

と女房たちのうちの一人が、
笑いをこらえつつ、僧の話をさえぎった。

「いやだ、お兄さまったら。
その別当って、お兄さまご自身のことじゃないの?」

「いや、・・・うむ・・・まあまあ、
どっちでもいいが、こんな話『枕草子』などに書くなよ」

僧はあたまを抱えて閉口する。

女は清少納言と内裏で呼ばれる女房であり、
僧はその異母兄の祇園の別当・戒秀である。

笑い声のひびく軒先に、うぐいすの声、
『枕草子』には書かないけれど、この話、
人々に広まっていくだろうなあ、清少納言は考える。






          



(了)

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