・「今昔物語」は十二世紀頃成った説話集。
三十一巻(うち八、十八、二十一の三巻を欠く)から成り、
天竺(インド)震旦(中国)本朝(日本)の三部に分かれている。
仏教説話、世俗人情をテーマにした短編集で、
第三部の本朝篇の説話集は興趣尽きぬものがあり、
私(田辺さん)もまた、本朝世俗篇を愛する。
もし孤島に赴く時、携える書物はと問われれば、
私なら「源氏物語」と「今昔物語」本朝世俗篇と答えるであろう。
この二作は王朝の両極端の世界を示す。
貴族と庶民、優美と野生、夢と現実、教養社会と無智階級、
というように。
この二作は王朝の光と影である。
それにしても「今昔」の野人たちのたくましい哄笑は、
エネルギッシュである。
このおびただしい短編に登場するのは庶民だけではない。
天皇后妃をはじめ公卿、武者、僧侶、女房、
ありとあらゆる階層の人々である。
それが心のままに、
泣き笑い怒り悲しみ恋し欲情しむさぼるのである。
作者はまだつまびらかでない。
仏教説話や仏教的教訓が多いところから、
複数の僧侶であろうかと思われるが、
私にとって魅力的なのはゴツゴツした漢字まじりの文章である。
一見、そっけないようでありながら、
正確無比な描写力、簡潔なユーモアに富んでいて飽かせない。
全篇「今ハ昔」ではじまり、
「トナム語リ伝へタルトヤ」で終わる。
このすてきな民族遺産を私なりに語り伝えてみようと思う。
(1990年9月 角川書店刊より)