「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、須磨 ⑩

2023年09月23日 08時00分31秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・須磨に春が来た。
早や、一年が経った。

あの別れの日のそれぞれに切なかった、
女(ひと)たちとの思い出もさることながら、
過ぎしひととせの花の宴に、
亡き父院の麗しいご機嫌、
そのころ、東宮でいらした兄帝の、
清らかなお姿、
それからそれへと思われる。

つれづれなある日、
思いがけぬ訪問客が源氏を喜ばせた。

親友の三位の中将である。

今は宰相に昇進し、
世間からも重んじられているものの、
源氏のいない世の中があじけなくて、
毎日つまらぬ思いをしていた。

それで、
(ままよ、大后一派が何を言おうと、
それで罪に落とされるなら、
それまでのことだ)

と急に思い立って、
須磨までの陸路何十里を訪ねてくれたのだ。

「よく来てくれた。感謝する」

源氏は親友の手をとった。
親友同士の話は尽きない。

男ばかりの生活、
田舎屋の風趣・・・

夜一夜、
京のうわさを語り合った。

「夕霧は元気だよ。
無邪気に可愛いのが、
父(元右大臣)には悲しくて辛そうだ」

中将の供の男たち、
源氏に仕える若者たちも哭いた。

彼らは旧知の間柄であり、
都にいたときは親しい仲でもあった。

久しぶりの二人の対面のあわれは、
彼らにもあるのであった。

旧友との再会は、
かえって源氏の心をさびしくした。

宰相の中将は別れにのぞんで、
笛をおくり、源氏は黒い馬を贈った。

「流人の贈り物は不吉かもしれないが、
故郷の風が吹けば、
この馬もいななくかもしれないから」

「これはすばらしい逸物だ」

中将は喜んだ。

見送る者、見送られる者、
名残りは尽きなかった。

「いつまたお会いできるか。
永久にこのまま、
ということはあり得ないだろうけれど」

中将がいった。

「いや、わからない。
いったんこんな境涯に堕ちれば、
再び返り咲くことはむつかしいのが世のならい。
都をまた見ようという色気は捨てているよ」

源氏はきっぱりと答えた。

「君のいない都は火が消えたようだ。
特に私は毎日あじけなくて張り合いがない。
いつかまたきっと、
都へ帰ってこられる日のあることを信ずる」

源氏と宰相の中将は、
しっかと手を握り合い、
肩を抱き合って別れた。






          


(次回へ)

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