・女には弱音を吐ける相手がいない、と私は書いたが、
女は愚痴をいう。
それで思い出した。
長女の私は昔から母の愚痴のはけ口であった。
大家族に嫁してきた母は、
姑や小姑にいじめられたことを、私にこぼす。
小さいときはともかく、十代後半になると、
もう聞いてやる余裕がなくなる。
またか、と思い、反発していた。
そのころ、丁度終戦、
家は終戦二ヵ月前の空襲で全焼し、
大家族も、おおげさにいえば瓦解した。
父も死に、母は女手一つで三人の子を育てるのに夢中で、
昔の恨み辛みどころではなかったわけである。
しかし昔の憤懣や鬱懐は死火山になったわけではない。
九十を過ぎても、時折、噴火する。
あんなこといわれた、こんな仕打ちをされた、
と私に訴えることがある。
今の私は<ふ~ん・・・へ~え>
とおとなしく相槌をうつ。
昔みたいに、じゃけんにあしらわない。
母の話を聞き、
それは祖母らしい、あるいは叔母らしいと思ったりするが、
もうみな、泉下の人である上、
同じ屋根の下で共に暮らしたといっても、
嫁である母と、その家に生まれた子供である私とでは、
祖母、叔母たちとの関係において微妙にト~ンが違う。
このことにつき、ある友人がいった。
彼は何ということなき、市井の一人であるが、
大家族の一員として暮らし、
人知れぬ苦労をしたらしい。
それが彼に、悟りを開かせたとみえる。
<人間の関係、いうたら、点と線に尽きるなあ>
<そういうタイトルの松本清張さんの小説あるけどね>と私。
<どういうことですか?>
<いや、その小説は知らん。
ワシは小説に弱いねん。
けど思うのは、一人ずつが、
点になってつき合うたら、ええんやないか、と>
<点?>
<そや、線で引っぱったら、あかん。
引っぱるさかい、派閥ができる。
大姑派、小姑派ができる。
そやなしに、おばあちゃん対ワシ、
姉妹対ワシ、という風に、点と点でつきあうことやな。
女房(よめはん)とも点のつきあいにする>
そういえば思い出す。
小さい私は祖母の買い物についていってにわか雨にあい、
祖母の袂にくるまれて帰ったこと。
上の叔母にもらったビロードのリボン、
下の叔母に連れられて行った大阪ミナミの松竹座の洋画。
それらの思い出は、私と彼女らとの共有で、
その中に母は入っていない。
母の抱く恨み辛みに、
この年になれば共感できるけれども、
人それぞれ別々の思い出と感情をもっている。
彼の点と線という人間関係の見きわめは、
<いえてる>と思った。
人は生きていると、
おのずとそれなりに、
人生のコツを会得するものらしい。
(次回へ)