「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、姥ときめき  ③

2021年09月23日 08時00分42秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・思い出したことは、私は恋をしたことがない。
夫と結婚したのは五十何年か前であるから、見合結婚であった。

一緒にいる間は情愛も生まれたが、
恋の何のというのではなかった。

してみると神サンは私に、
(恋と無関係で一生終わる当番札)をかけたに違いない。

ただ、ありがたいことに、
この札は首にかかっていても、たいして辛くない。
あってもなくても同じもの。

そこでふと(そうや・・・)と思い出した。

ハタチくらいの時、今の夫との縁談の前、
母方の遠縁の青年と見合させられた。

浦部謙次郎という人である。
この名前がすぐ出てくるところがクセモノである。

絵に描いたような美青年だった。

役者になったらいいような男だったが、
じっくりと地味で人柄がおだやかで、
私はいっぺんで好きになった。

父も母も気に入り、縁談はととのいかけた。

謙次郎は材木問屋の息子であったが、
次男なので勤め人になっていた。

近々、東京の本社へ転勤が決まり、
私は結婚すると東京へ行けると思うと、
それも嬉しかった。

「大学は出たけれど」という昭和初期の不景気の最中、
流行った言葉であったが、謙次郎もその通りになってしまった。

会社が左前になって、
新しい職場を求めて満州へ行くことになった。

私の父や母は、私を満州まで手放しかねて、
縁談は立ち消えになってしまった。
父や母の気持ちは私の恋心をもみ消してしまった・・・

双方、別々の結婚をして違う道を歩むことになり。


~~~


・終戦後、謙次郎の消息は、満州から引きあげ、
奥さんの在所の奈良に落ち着いたという便りを聞いたが、
その頃、私も生きるのに精いっぱいだった。

私は死んだ夫と結婚のはじめから、
謙次郎に感じたような胸のときめきはなかったのである。

(そうや、浦部はんは、まだ生きてはるやろか・・・
生きてはったら逢うてみたい)

急に私は思い立った。
私の喜寿のパーティの何よりの花束ではないか。
歌子一世一代の恋物語である。

そう思うと生きがいが出てきた。

私のお習字教室の女の子ばかりのグループが、

「歌子先生、任しといてください!」

とやってくれるのである。

ホテルを押さえ、予算を決める。
ごく安い会費をとることにする。

私が全費用を持ち、会費は形ばかりで、
招待客の精神的負担を軽くするためのもの。

船場時代のお政どん、おトキどん、西条サナエ、
前沢番頭が死んだのは惜しいけれど、
お習字教室の生徒さん、絵の仲間・・・百人近くになる。

ひょーたんから駒で、
あでやかなロングドレスを作ることになってしまう。

親類に頼んでおいた菓子問屋の当主(私の従兄の子)から、
浦部謙次郎の居所について電話があった。

兵庫県の三田の奥の老人ホームにいることがわかった。

「奥さんは死にはりましたんか?」私は聞く。

「はじめの奥さんは死なはって、
二度目の奥さんは、十年前に離婚しはって、
子供もみな東京で所帯持って、
一人ホームに入ってるらしいでっせ。
七十九になる、いうてはりました」

私は案内状を送っておいた。
すぐに出席のところにマルをつけて、返信が来た。

パーティ当日、私は早めにホテルへ行き、
ロングドレスを着る。






          


(次回へ)

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