![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/0f/beb461a2731968728574c088ea4daa86.jpg)
・思い出したことは、私は恋をしたことがない。
夫と結婚したのは五十何年か前であるから、見合結婚であった。
一緒にいる間は情愛も生まれたが、
恋の何のというのではなかった。
してみると神サンは私に、
(恋と無関係で一生終わる当番札)をかけたに違いない。
ただ、ありがたいことに、
この札は首にかかっていても、たいして辛くない。
あってもなくても同じもの。
そこでふと(そうや・・・)と思い出した。
ハタチくらいの時、今の夫との縁談の前、
母方の遠縁の青年と見合させられた。
浦部謙次郎という人である。
この名前がすぐ出てくるところがクセモノである。
絵に描いたような美青年だった。
役者になったらいいような男だったが、
じっくりと地味で人柄がおだやかで、
私はいっぺんで好きになった。
父も母も気に入り、縁談はととのいかけた。
謙次郎は材木問屋の息子であったが、
次男なので勤め人になっていた。
近々、東京の本社へ転勤が決まり、
私は結婚すると東京へ行けると思うと、
それも嬉しかった。
「大学は出たけれど」という昭和初期の不景気の最中、
流行った言葉であったが、謙次郎もその通りになってしまった。
会社が左前になって、
新しい職場を求めて満州へ行くことになった。
私の父や母は、私を満州まで手放しかねて、
縁談は立ち消えになってしまった。
父や母の気持ちは私の恋心をもみ消してしまった・・・
双方、別々の結婚をして違う道を歩むことになり。
~~~
・終戦後、謙次郎の消息は、満州から引きあげ、
奥さんの在所の奈良に落ち着いたという便りを聞いたが、
その頃、私も生きるのに精いっぱいだった。
私は死んだ夫と結婚のはじめから、
謙次郎に感じたような胸のときめきはなかったのである。
(そうや、浦部はんは、まだ生きてはるやろか・・・
生きてはったら逢うてみたい)
急に私は思い立った。
私の喜寿のパーティの何よりの花束ではないか。
歌子一世一代の恋物語である。
そう思うと生きがいが出てきた。
私のお習字教室の女の子ばかりのグループが、
「歌子先生、任しといてください!」
とやってくれるのである。
ホテルを押さえ、予算を決める。
ごく安い会費をとることにする。
私が全費用を持ち、会費は形ばかりで、
招待客の精神的負担を軽くするためのもの。
船場時代のお政どん、おトキどん、西条サナエ、
前沢番頭が死んだのは惜しいけれど、
お習字教室の生徒さん、絵の仲間・・・百人近くになる。
ひょーたんから駒で、
あでやかなロングドレスを作ることになってしまう。
親類に頼んでおいた菓子問屋の当主(私の従兄の子)から、
浦部謙次郎の居所について電話があった。
兵庫県の三田の奥の老人ホームにいることがわかった。
「奥さんは死にはりましたんか?」私は聞く。
「はじめの奥さんは死なはって、
二度目の奥さんは、十年前に離婚しはって、
子供もみな東京で所帯持って、
一人ホームに入ってるらしいでっせ。
七十九になる、いうてはりました」
私は案内状を送っておいた。
すぐに出席のところにマルをつけて、返信が来た。
パーティ当日、私は早めにホテルへ行き、
ロングドレスを着る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/fashion_dress.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/fashion_dress.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/fashion_dress.gif)
(次回へ)