「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

11、明石 ⑤

2023年09月29日 08時14分10秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・入道の話を聞いて、
源氏は物思いに捉われていた。

何という不思議な話だろう。

自分が思いもかけぬ、
こんな田舎にさすらうようになったのも、
もしかしたら、
大いなるもののおん手に、
知らず知らず動かされていたのかもしれない。

「浅からぬ前世の契り、というのは、
こういうことをいうのでしょうか」

源氏もしんみりして言った。

入道は、
日ごろ念じ暮らしていたことを、
残らず源氏に話して、
胸のつかえが下りたような、
晴れ晴れした顔をしていた。

源氏は、入道の娘に強い関心をもった。
どういう娘なのだろう。

こういう片田舎にこそ、
すばらしい女性がいるかもしれないと、
久しぶりに青年らしい昂ぶりを感じた。

それは、都に置いて来た可憐な紫の君への、
愛情とは全く別のところで、
うごめいている男の好奇心である。

源氏は念を入れて手紙を書いた。

入道は折も折、娘の家に来ていた。

実は人知れず、源氏から娘への、
求愛の手紙を心待ちしていたからである。

期待通りに手紙が来たので、
入道は大喜びで使者をもてなした。

娘はしかし返事を書かない。

娘は源氏の身分や、
自分の身を思ったりして、
気おくれして恥ずかしく、
しまいに気分が悪いと横になってしまった。

入道は困って自身で返事を書いた。

源氏は次の日、
娘あてにまた手紙を書いた。

「代筆のお手紙はすこし、
がっかりしました。
私の方はまだ見ぬ人ながら、
ひそかにお慕いしています」

娘は、若い女らしく、
心ときめかせてその手紙を見た。

源氏の君が、
貴族の姫君にするように、
自分をねんごろに扱って下さった、
と思うだけで、娘は嬉しかった。

いつものように娘は返事を拒んでいたが、
まわりにせきたてられて、
とうとう筆をとった。

「まだ見ぬ人を恋するということなど、
あるものでございましょうか。
お言葉のたわむれとしか思いませぬ」

源氏が見たその手紙は、
筆蹟といい、気品といい、
都の貴婦人に劣らぬくらいである。

源氏はさながら京にいる心地がした。

しげしげと手紙を遣るのも、
人目が気になるので、
二、三日おきに、風情のあるとき、
手紙を書いた。

娘の返事は、充分、
源氏に対抗する力量あるものだった。

(心ざま深く、気位高い娘だな)

源氏はいよいよ、娘にひかれてゆく。

娘のみめかたちを、
今は、この目で見たくなっていた。

それは娘を恋人とすることを、
意味している。

しかし源氏は、良清のことを忘れていない。

良清がいつぞや、
娘の噂話を得意然としていたことを覚えている。

本来なら良清程度の男が、
求愛してしかるべき身分の娘なのだ、
という気が、源氏にはあった。

それに、良清が年頃、
娘に執心しているものを、
彼の目前で奪うというのも哀れであり、
源氏はためらわれた。

(娘の方から積極的に、
近づいてくるのならば、
良清に対しても言い訳も立つのだが)

などと思うが、
娘は娘で、都の貴婦人のように気位たかいので、
われから進んで源氏になびくどころか、
つんとして、身を高く持している。

こうして根気くらべのような形で、
時は過ぎてゆく。






          



(次回へ)

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