「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

13、さらわれた姫君  ①

2021年07月31日 08時40分34秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・風が渡ると花吹雪が散る。

北山のふところ深いところ、桜の老樹が一本あって、
あたりの地面は雪のように白い。

山かげにとくとくと涌く清水、
その側に小さな庵があり、老いた尼が物語っている相手は、
この辺りの寺へお詣りにきた都の貴婦人たちであろうか。

夕陽はかげったがまだ明るい。
落花がひとしきり、そこへ入相の鐘が鳴り、
空は澄んで深くなってゆく。


~~~


・古い、古い昔の話だそうでございますよ、
と老尼はゆるゆると語る。

なにがしの帝の御代にさる大納言がいられました。

お子たちがあまたおわしましたが、
その中に、ことに美しい姫君がいられて、
大納言どのは掌中の珠とおいつくしみになり、
やがてゆくゆくは后がねと、大切にしていらっしゃいました。

そのお邸に仕える者の中に、
若い内舎人(うどねり)が居りました。

内舎人というのは奥御殿まで上がってご用を勤めたり、
またお邸の警備に当たったりする者でございます。

さればおのずから、
この姫君を垣間見る折もございました。

姫君はこの世の人とも思えぬ気高く美しい方で、
男はたちまち恋に落ちてしまったのでございます。

もとより身分違いの叶わぬ恋、
どんなにあがいてもむくわれる思いではございません。

それなのに若者はほかのことは考えられずに、
ただもう姫君のことばかりに思いをかけ、
どうぞしてお姿だけでもお近くで見たい、
いや、わが思いのたけを残らず打ち明けたい、
次から次と思い続け、身も心もぼうっとして、
夢かうつつかというさまになり、
物も食べられなくなりました。

命もあぶなく思われたとき、
若者はつくづく考えたのでございます。

同じ死ぬなら恋を遂げて死にたい、
一か八か、やってみようとまで思い詰めました。


~~~


・まず姫君のお付きの女房を呼んで、

「これは極めて大切なことでございますが、
本来なら殿に申し上げるべきところ、
姫君に関係がございますので、
ぜひそっと姫君に言上したいと存じます」

と申しました。女房は当然ながら、

「何ごとでしょう。
姫君に直々とは失礼ではありませんか。
ご用なら私がお聞きして、姫君にお伝えいたします」

と申します。

男は深く思い込んだことでございますゆえあとへは引きません。
声をひそめ、力をこめていうのでございます。

「これは極めて重大な秘密でございまして、
姫君のご一身にかかわる大事、
人づてには申し上げられません。
何とぞご信頼頂いて、恐れながら姫君に、
端近までお出まし願いとうございます」

思いつめた目の色を、
女房はよほど重大なことと思い、
姫君にこっそりと告げました。

「何ごとでしょう。
あの男なら誠実で信頼できるとお父君もおっしゃっていたわ。
よほどのことがあるのでしょう。
わたくし自身で聞きましょう」

と姫君は許され、
女房はそれを男に伝えたのでございます。

男は飛び立つばかり嬉しくありましたが、
一方、胸もつぶれる思いがいたしました。

男はこの姫君を奪って逃げようという、
恐ろしい心を起こしたのでございます。

そんな横道なことをしでかしてはとても生きていられまい、
といってこのまま恋に焦がれて悶え死にするのも心残り、
いっそ思いを遂げてから、淵川に身を投げて死のう、
と考えたのでございます。

死を覚悟した男の目には、
すべてのものが心細くあわれに深くうつります。

男は幾度もためらい、迷いぬいたか、わかりません。
しかしどうしても恋心を抑えつけられなんだのでございます。


~~~


・(迷うだけ煩悩が増すのに・・・)

と決心して、端近くひざまずき、
ひそかに姫君を待ちます。

そんな恐ろしいたくらみが男にあろうとは、
つゆご存じない姫君は、女房も連れずに、
何心なく縁にお立ちになります。

夜でございましたから、
あたりに人の気配はありません。

灯が邸の奥ふかくともされており、
いつもはしっかり閉ざされている妻戸のかけがねは外されて、
その御簾の向こうにお立ちになっている姫君のお姿が、
ぼんやりと見えます。

男は縁近くひざまずきましたが、
言葉が出てきません。

(ああ、おれは何というそら恐ろしいことを、
しようとしているのだろう。
破滅だ、おれは自分で生涯を台無しにしようとしている)

と思いつつ、この期に及んでまだ迷っておりましたが、
突然、姫君恋しさに矢も楯もたまらなくなったのでございます。

(ええい、ままよ、あとはどうなってもいい、
死んでしまえばいいんだ!)

と思うと躍り上がって簾の内へ飛び入り、
驚きのあまり声も出ない姫君の体を、
「御免!」と叫びざま横抱きにして縁を走り去り、
まるで飛ぶように逃げたのでございます。






          


(次回へ)

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