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・姫君のお姿が見えぬと、
お邸では大さわぎになりました。
大納言どのをはじめ、一家中、下人にいたるまで、
騒ぎ嘆き悲しみ、あちこちへ人をやって捜されましたが、
かいもく手がかりはございません。
大納言どの、母の北の方のお嘆きはいうまでもなく、
そういえばその夜から内舎人も姿をくらましていたところから、
「もしや、どこぞのお邸の公達が、
内舎人をそそのかして手引きさせ、
さらっていったのではないか」
ということになりました。
まさか内舎人自身がさらったとは、
考えられなかったことでございます。
仲立ちした女房は、内舎人が姫君を抱いて逃げたのを、
目で見たのでございますが、それを言えば咎が、
わが身に下ると怖れて口を閉ざしておりました。
「どこへさらわれていったにせよ、
元気でいてくれればよい・・・
そればかりを思う」
父の大納言どのはいつまでも悲しみが晴れません。
「これも前世の因縁であろうか」
と涙に沈まれつつ、姫君のことをお忘れになった日は、
一日もありませなんだ。
~~~
・そのころ男は姫君を馬に乗せ、
自分も馬に乗り、親しく召使う従者を二人ばかり連れて、
京をあとに東国へ急いでいたのでございます。
恋を遂げたあとは死んでもよい、
と思っていたのに、そうなってみれば生きたくなったのでした。
姫君の父君、母君の嘆きを十分察しながら、
男は姫君を手放せなくなったのでした。。
姫君をお邸へ戻すべきだ、と心では思いつつ、
男はその反対に、一刻、一刻と京から離れてゆくのでした。
人間の心はどうしようもない、
業深いものでございますねえ。
姫君は衝撃のあまり、ひと言もものをおっしゃいません。
死んだように目をとじてがっくりとしていられます。
男は萎れた花のような姫君も気がかりになれば、追っ手も怖し、
「ご辛抱なすって下さい。もう少しです、もう少しです」
と励ましつつ、野越え山越え、東へ東へと走り続けました。
姫君を抱いて弓矢を負って馬に乗る男、
あとに従者二人、三騎は夜となく昼となく馬を走らせました。
どこか人のいない国で姫君と暮らしたい、
男はそればかりを考えていたのでした。
~~~
・とうとう陸奥の国の安積(あさか)の郡の、
安積山という山の中に行き着きました。
ここなら人も来るまいと、
男は従者たちと木を伐り、小屋を建て、
この姫君を大事に住まわせました。
時折、男は従者を連れて里へ下り、
食べ物を調達しておりました。
姫君が何を考えておいでだったのかは、
誰にも分かりません。
運命の急変に、ただもう、夢見る心地で、
呆然としたまま月日が経ったのでございましょう。
ある時、
男はいつものように従者を連れて里へ下りて行きました。
姫君はその間、一人で待っておられました。
姫君はその時懐妊しておられたと申します。
男が四、五日留守にしておりましたので、
なおのこと姫君は心細くて、
小屋を出て辺りを歩いておられるうちに、
山の北に井戸があるのを見つけられました。
ふとのぞいた水面にうつったわが顔の、
思いがけぬ変わりよう、そのやつれよう、
夢のように京の町からさらわれてから、
旅の途中も山住まいのあいだも、
鏡を見ることもなかったので、
わが顔がどうなっているかも知らずに過ごされたのでした。
それは、自分の運命を省みるいとまもなかったことでしょう。
はじめて、わが身をごらんになって、
あさましい身のなりゆきに、今さら、動転なさったのでした。
思えば、京の邸にあった時は、父君母君はじめ、
たくさんの人にかしずかれ、幸せであった。
なおこの上にどんな幸福が待っているかと、
おとめらしい夢を思い描いていた。
父君はゆくゆくは宮中へ入内させ、
帝のお后にと心づもりしていられた。
そんな夢があの夜以来、灰となって崩れ落ちてしまった。
無我夢中であの男に連れられ、ふと気がつけば、
ここはみちのくの山中。
「なんて運命かしら・・・
どんなに前世で悪いことをして、
こんな報いを受けるのかしら・・・」
と悲しく心細く、
姫君は木ぎれに歌を書きつけられたのでした。
<安積山影さへ見ゆる山の井の 浅くは人を思ふものかは>
そうしてとうとう、傷心のあまり、
そこで息絶えられたのでした。
~~~
・男は従者に食べ物を持たせ、急いで帰って来ますと、
姫君は死んで臥しておられ、まあどのように、
驚き嘆いたことでしょう。
山の井をのぞいて、
はかなく思われたことは分かりませなんだが、
残された歌をよんで、お気持ちを悟りました。
姫君は身の運命を悲しまれたけれど、
男を恨んではおられなんだのでした。
「浅くは人を思ふものかは」
あなたを思う私の気持ちは決して浅くはなかったのよ。
姫君はいつのまにか、
男を愛していらしたのでした。
男は号泣しました。
そうして姫君のそばに横たわって、
そのまま思い死にに死んでしまったのでした。
~~~
・これは古い古い世のお話。
陸奥から来た人が伝えてくれました。
もしかしたら、その人は、
かの男の従者の話を聞いた、
その子孫かもしれませんねえ。
・・・はい、どこの姫君ともお名は知れませぬ。
京では、さらわれた姫君のうわさは、
いつもあることでございますが、
これはあわれな物語でございます。
いつか日は暮れ、庵の縁は真っ白になるほど、
桜の花びらが降りこんでくるのであった。
あたりは泉の湧く音ばかり・・・
巻三十(八)
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(了)