むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、姥ごよみ  ①

2021年09月13日 07時56分37秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・今年は、正月のお煮しめとお節料理の手伝いに、
西条サナエが来てくれた。

黒豆は私が煮き、思うように出来た。

いっぺん三男の嫁が、
「あたし黒豆が得意なんですよ」というので私は頼んだ。

嫁は大得意で車を運転して持ってきた。
三人の嫁の中でこの子だけが運転できる。

他の二人の嫁、まだ四十代なのに、家に車はあるくせに習おうとしない。
なんという欲のなさであろう。

三男の嫁は大学出のヘリクツ言いで、
カチンとくることをぬかす奴であるが、車もチャンと運転する。

「これからの女は、車の運転ぐらい出来なあきませんな。
それだけでも取得や」

と私がほめたら、

「それしか取得がなくて悪うございましたね」

とむくれ、赤信号なのに突っ走って、交差点のど真ん中で急停車。

私はカクンと前につんのめり、

「やれ怖や。しっかり頼みまっせ」

といったら、

「そういう時のために、シートベルトがあるんです!」

と言い返し、
「ゴメンナサイ」という言葉はどこを押しても出て来ぬ女である。
強情嫁め!

この女はいつだか、私が頼んだ贈り物の送り先を間違い、
私はえらい目にあったが、そういう時ですら、

「人間だから間違いもありますわ」

とうそぶいた。

私は舌戦にかけては四十くらいの嫁に負けはしないが、
あたまのいい人間と舌戦を戦わすのは知的リクレーションであるが、
あたまの悪い人間と言い合いするのは、
エネルギーの消耗である。

昔なら、私がこんなことを姑にいおうものなら、

「よろし。あんたもう去になはれ」

のひと言で実家へ戻されてしまう。

そういう時、亡夫、慶太郎はおろおろするばかりで、
私の味方について姑にたてつくということはしなかった。

いまの時代であると、三男は嫁の味方につき、

「なあ、もうええやんか。お母ちゃんはひと言多いよって」

と私をたしなめる。
ま、その方が私は気楽。

これがお袋側につき、嫁をたしなめる息子であれば、
私はゾッとするであろう。

息子と嫁さえ仲良くしていてくれれば、
こっちは安心して言いたい放題言えるから嬉しい。

世間には息子が嫁のワルクチを言ったり、
嫁を叱ったりしているのを嬉しがる姑がいるようだが、
どういう気持ちかしら?

嫁と不仲になって、
こっちへ寄りかかられたら目も当てられない。

嫁をもらったら、親のことをかえりみないのが、
息子のあらまほしい姿であろう。

それも程度問題で、
まるきり姥捨てになっても困るけど。


~~~


・ところがこの黒豆、嫁の自慢にもかかわらず、いただけない。
嫁というより、これは嫁の母親のやり方であろう。

フニャフニャと軟らかく、
皮はシワ一つなく、たるみきり、ふやけてやけに甘い。

私は黒豆の心得を説いて聞かそうとしたが、

「お姑さんにとって、黒豆とは何ですか?」

とやられそうなので、やめた。

その黒豆は、正月に来た前沢元番頭が、

「歯ァが悪おますので、こういうのが一番おいしゅうござりま」

と言ったので持って帰らせた。

何より大事なことは、黒々と美しく輝き、
皮にしわが寄らなければならない。

「シワは寄っても、マメなよに」

という心でお節料理に入れるのである。

この私のやり方を長男の嫁も次男の嫁も覚えようとしない。
みな、それぞれの母親を見習う。

それにこの頃はデパートであつらえるらしい。

正月にはそれなりに客が来るから、
つい自分で作る。

英会話仲間、油絵仲間、昔の人たちが挨拶に来る。
昔、船場にいたころ、奉公していた女中衆(おなごし)の、
お政、おトキ、(二人共上女中で姑たちが親代わりになり嫁入りさせた)
番頭だった前沢も来る。

お政どんは、頭のはげた五十二の長男をつかまえて、

「大坊ンちゃん(おおぼんちゃん)」と呼ぶ。

次男は「中坊ンちゃん(なかぼんちゃん)」
三男は「小坊ンちゃん(こぼんちゃん)」

長男も小さいときのままに「おまさン」と呼ぶ。

そういう人たちが私のところへ来るので、
一応の正月支度はしなければならない。






          


(次回へ)

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