・「何しとんねん、いま」 西宮の長男の電話、
いまはほとんど毎夜のようにかけてくる。
「八十のお袋、一人で住まして、
どないしとるかわからん、では具合わるいやないか」
私だってすることはいっぱいある。
油絵、お花のサークル、英会話、古典の勉強、
それに私が教えるお習字教室のお手本を書くこと。
五十七の息子につき合っていられない。
「おもろないやろ、一人で居って」
一人でというか、
さっきまで私はお花のグループと食事して帰ってきたばかり。
春寒というのかしら、私は煖房を弱にして、
町着のオレンジ色のスーツを脱ぐ。
やわらかいシルクウールの室内着。
香りは今夜はジャン・パトゥのオードトワレより、
京都の松栄堂の「芳輪」にしよう。
「一人で何考えとんねん」
長男はせかせかと言う。
そこはかとなく漂うお香のいい匂い。
室内着は甘い水色。
白レースが胸と袖口にたたまれているブラウスとロングスカート。
ボタンは銀色のハート型。
春の服をまとってお習字をしているが、
八十になって字が衰えはせぬかと気になる。
栄枯盛衰は世の習い。
市の文化教室からは、今年もよろしく、というばかりであるが、
適当な折を見て引退せねば。
それに自分で自分のことはわからぬ、という心配もある。
目の前で、「ヘタになったねえ」という人はいないのだから。
心せねば。
才能もさりながら、五感もそう。
私は今まで自分の味覚を信じていた。
週に二度来てもらう家政婦さんに、
私好みの味を教えていたのに、この頃やたら薄味に思われ、
はっとして思い当たった。
この人はお料理上手な人で、
これは私の舌がばかになったんじゃないか。
時は移り、人は変る。
肉体の衰えはどうしようもなく、鈍化している。
味覚にまずそれがきているのかもしれない。
辛いものしか認められなくなったのかもしれない。
なので「お袋の味」というのもいい加減なものであろう。
若いうちのお袋さんの味ならともかく、
年寄って舌が鈍くなったお袋さんの味は信用がおけない。
お袋が作れば男たちは有難がるが、
彼らの女房たちに言わせてみれば、
(なにさ、ただ、ダダッ辛いというだけじゃないのさ)
と笑っているかもしれない。
思えば人間の才気も健康も、
神さま(モヤモヤさん)からの預かりものであろう。
私としては、
才気や健康なしに寿命だけ延ばしてもらっても仕方ない。
つまり、そういうことを考えつつ、手習いをやっている。
「一人で何考えとんねん」と言われたって、
「いろいろ考えごとしてますのや。
ひとくちで言われへんし、言うても他人にはわからへん」
「可愛げないな。
何も楽しみないやろ思て、この間から、
シルバー・ハイクラス・ツァーに行けへんか、言うたのに」
長男が言うのは、五十代以上のヨーロッパぜいたく旅行を、
プレゼントしようと提案してくれたことだ。
私は断った。
ほんとの話、爺さん婆さんとは行きたくない。
中年や若者が混じる旅行こそ面白い。
いくら医者、ナースつき、一流ホテル泊りといったって、
シルバー世代ばっかりが、なんで楽しかろう。
・・・とも言えず、
「私ゃ、この頃海外がおっくうでねえ、飽きましたわいな」
「しゃけど、習字ばっかりしててもおもろないやろ。
そんなことより、何ぞ自分で体動かすこと、考えなはれ。
体操でもしたらどないですねん」
「体操なんかしたら、寿命縮めるがな。
戸外走るなんて、荒々しい、むくつけきこと出来まへんデ。
私ゃ、スポーツは健康の敵や、思てまっせ」
(次回へ)