・私は結局、
長い里下りをすることになった
内大臣・伊周(これちか)どのたちの、
騒ぎはいっこうに片付かず、
左遷流刑の宣告に、
あれこれ抵抗されたからである
宣命が下りたのは、
四月二十四日であったが、
それから四日たっても、
検非違使は内大臣どのを、
捉えられない
中宮と母君の貴子の上が、
内大臣どのの手にとりすがり、
一緒に泣いていられるので、
役人もどうするすべもない
五月一日になって、
ついに役人たちは、
宣命を奉じて邸内捜索を、
強行する
「宮さま(中宮)は、
ご退去ください」
車が用意され、
やむなく中宮は乗られる
その間に役人たちは、
中宮の夜の御殿であった、
塗籠の扉をこじあけようとする
塗籠は四方を壁で、
塗り立てた部屋、
扉は頑丈なので、
打ちこわしても開かない
扉の脇の壁板を、
かなぐり破って乱入したという
中には中納言どのが、
蒼白になって坐っていられた
貴子の上はじめ、
女房たちがいっせいに泣き出すが、
肝心の内大臣どのは見当たらない
床板をはがし、
天井板を引きはがしてさがした
従者の一人が、
愛宕山へいかれたと白状した
すぐさま、
兵が愛宕山を捜索したが、
見つからない
内大臣どのはこの夜、
父君・道隆公のお墓に詣で、
そこから北野の天神にまわって、
祈念をこらされた、
ということである
しかしいつまでも、
逃げおおせることはできない
翌日の明け方、
網代車で二条邸に、
帰ってこられた
検非違使たちが車に手をかけ、
「誰の車か」
と咎めると、
供の者が、
「殿です」
という
門前で車が牛から離される
内大臣どの、
いや、もう帥どのと、
呼ぶべきであろうが、
車から下り立たれると、
検非違使たちがあわてて、
庭に飛び下り、かしこまった
位を落とされなすったとはいえ、
つい数日前までは、
内大臣であられた方だから
静かに車から下りられた、
内大臣どのは、
二十三というお年にふさわしく、
色白に肌清げに、
ととのったご容貌はふっくらして、
お体も貫禄あって気高く見えた、
という
薄鈍色の直衣に指貫、
清らかなお姿で、
見上げる人々は、
(昨日に変る今日のお身の上は)
と泣いたということである
朝廷では、
「翌朝は卯の刻(午前五時~七時)
までに必ず配所へ出発させよ
今まで延引したのも、
検非違使の怠慢である」
ときついお達しがきている
内大臣どのを中に、
中宮と母君の貴子の上が、
左右からとりすがって、
一晩中、泣き明かされた、
ということである
「もはやご出立の時です」
と促しても、
中宮と貴子の上は、
内大臣をひしと捉え、
貴子の上は涙にむせんで、
「いいえ、
離すものか
私が行かせません
老いた母を置き去りには、
させませぬぞ」
といわけない童のように、
狂乱していられたという
朝廷からは、
「遠慮に及ばぬ、
もはや内大臣ではない、
流人にすぎない、
実力行使して引っ立て、
すぐさま下せ」
「しかし何といっても、
中宮がひたとお付きになって、
いられますので、
手を下すこともはばかりが・・・」
「ええい、猶予はならん」
そういう命令ではあるものの、
さすがに検非違使たちも、
中宮のお体に手を触れることは、
恐ろしくてできない
「時刻が移りますと、
この上、どのようにきびしい、
ご処置が取られるかしれませぬ
どうか帥どの、
穏便にお出ましを願います」
この日も暮れてしまえば、
明日は力づくで引っ立てなければ、
ならなくなる
検非違使たちも寝ていないのである
内大臣どのは観念されたらしい
邸の奥から出て来られた
幼いご長男の松君が、
あとを慕って泣かれるのを、
女房たちがだましてすかして、
奥へ連れて入る
内大臣どのを待つ車は、
粗末な莚張りである
道中の食料が、
わずかばかり車に入れられた
橘の実に柑子などである
中納言・隆家の君の車も、
同じ莚張り
内大臣どのは筑紫なので、
西南の方角へ、
中納言どのは出雲なので、
西北へ、
それぞれ追われて行かれる
母君・貴子の上は
内大臣にとりつき、
「一緒に連れていっておくれ」
と無理にお車に乗ってしまわれた
「けしからぬ、
引き離し奉れ」
侍たちはわめくが、
貴子の上は、
手のつけられにほど、
惑うて、
「せめて山崎まででも、
お送りしたい
それすら許して頂けぬ、
はずはあるまい」
とひしと内大臣どのに、
しがみついていられる
「よんどころない
お車をそのまま引き出せ」
お車が別々の方角へ去り、
おあとを慕う人々の泣き声が、
邸をゆるがす
そのさなか、
また、痛ましいことが重なった
中宮がお手ずから、
鋏を取られて御髪を切られ、
尼になられたという
そのとき、人々は、
伏しまろんで、
魂も消え入るばかりだった、
と
これはずっと、
中宮のおそばについていた、
右衛門の君が伝えてくれた
すぐさま内裏へ使者が立った
主上は中宮が尼になられた、
と聞かれて、
「ただではないお身なのに
よしない思いをさせて」
と落涙されたという
(次回へ)
・則光は、
昨夜は内裏で宿直だったそうで、
彼の話を聞いてやっと、
少しばかり様子がわかった
内大臣・伊周(これちか)どのも、
中納言・隆家の君も流罪、
叔父君の高階信順、道順の君も、
同じく流罪だそうである
頼親、周頼の君たちは、
伊周の君の異母兄弟であられるが、
その方たちもそれぞれ処罪、
これは殿上の札を削られ、
出仕差し止め
内大臣どのは、
太宰権師(だざいごんのそち)として、
筑紫へ流され、
中納言どのは出雲権守として、
出雲へ左遷されるという
信順、道順の君たちは、
伊豆、淡路へ
ご一族には壊滅的打撃、
といっていい
この衝撃の除目は、
主上の御前で行われ、
ただちに検非違使が、
二条の宮を包囲して、
宣命を伝えた
「太上天皇(花山法皇)を、
殺し奉らんとした罪一
帝の御母君(東三条院)を、
呪わせ奉りたる罪一
朝廷よりほか、
臣下の者の行うべからざる、
大元師法を行いたる罪一」
とうとう、
こんなことになってしまった
検非違使は邸内にずかずかと、
踏みこんで声高にこの宣命を、
読みあげたという
その途端、
邸内からは、
どっと嗚咽の声がもれ、
宣命を読む検非違使も、
立ちすくみ、
他の人もあわれを誘われて、
涙したということである
中宮はどんなお気持ちで、
いられるのだろうか
「それで、
大宰府へのご出発は、
いつになるの?」
「そんな悠長なものじゃない
宣命が下るとすぐ網代車で、
出発しなけりゃならん
身分も剥奪されたのだからな
ところが二条のお邸じゃ、
扉を閉めきって返事もしない
検非違使も困って、
内裏へなんべんもおうかがいを、
立てたが、
お上では四の五のいわず、
ひっとらえろという厳命だ」
則光の話では、
左大臣・道長公はことのほか、
峻烈な態度で、
「天皇の宣命に従わぬとは、
重ね重ね不届きな所業
寸刻も容赦せず、
ただちに都を逐うべし」
と命じていられるという
今まで沈黙していられて、
この事態をどう収拾なさるか、
そうはいっても、
よもやきびしいお咎めは、
なさるまいという、
こちら側の甘い読みを誘いながら、
いったん態度を表明されると、
待ったなしに手きびしい
そのやり口も、
辣腕家の左大臣らしい
「でも、
中宮がお邸にいられるわ
それにご懐妊でもあるし、
主上もおゆるしになるかもしれない」
私は内大臣というような、
高い身分の人が、
一切の位階を剥奪されて、
九州へ流されるという、
極限状況はどうしても、
信じられなかった
「主上は?」
私が聞くと、
「主上はむろん、
私情をさしはさむことなんか、
おできになれない」
則光は眠るつもりで、
私の家に来たのだが、
夜が明けきっても、
町の空気は不穏で、
内大臣どのが、
筑紫へ護送されなすった様子もなく、
則光は身支度をした
私は横になったけれども、
目が冴え、体がだるいくせに、
頭は冴えていた
中宮のおそばへ行きたい
おそばいついてさしあげたい
それが出来なくなってしまった
出来ないのは私の意志ではなく、
偶然の結果である
斉信卿や経房の君の、
示唆によるものでもないのに、
結果としてはそれに従ったことに、
なってしまった
中宮はどんなに、
お心細い状態でいられることか
おそばにいない私を、
(頼りにならない)
と思っていられるかもしれない
(了)
・右衛門の君と、
話しているうち夜が明けて、
邸内はひそかな人声、
馬のいななきのうちに、
目覚めてゆく
武者が庭のあちこちにたむろして、
その眺めは異様だった
むくつけき男たちが、
殺気をはらんで邸内に満ちている
賀茂祭が近づいても、
今年は浮き立つ心にならない
今年の初夏ほど、
憂鬱な心たれこめる季節は、
知らない
青空もほととぎすも、
私の心をかえって閉ざす
二条北宮に笑い声の、
洩れるときはない
格子も蔀もしっかり閉められ、
刻一刻と待ち受ける不吉な、
緊張が感じられる
祭の日はさすがに、
邸内の武者たちも散って、
装束を付けた人々が出入りし、
やっと和やかな雰囲気が戻った
中宮はここ数日、
臥せっていられたが、
私たちに、
「祭の見物に行ってらっしゃい」
とのお言葉がある
迎えの牛車に乗る人、
祭の時だけ実家へ里下りする人、
などなどで、
邸は昔のように花やかになった
内大臣どのつきの女房たちも、
久しぶりに格子を開けて、
顔を見せていたりする
私は三条の自邸へ、
しばらくぶりで帰った
この祭のあと、
どんなことが待ち上がるか、
それは誰にも予想はつかない
もし長いこと、
この邸に帰れない、
ようなことになれば、
整理しなければいけない
私は少女の小雪を相手に、
長い留守をしてもいいように、
片づけはじめた
経房の君には、
この邸を教えてあるので、
何かことづけでもあるかと、
留守番の爺さんに聞いたが、
何もなかった
男たちはいま、
釘で打ち付けられたように、
動けないらしい
内大臣・伊周(これちか)一家の、
処遇を固唾を飲んで見守り、
それによって動き出そう、
というところらしい
ただ爺さんの話では、
「兵部の君」という人から、
お使いが来ました、という
珍しい
「兵部の君」は、
土御門どの、つまり、
道長の君の北の方・倫子の上に、
お仕えする女房で古い馴染みである
何か用があってのことだろうか
「二条北宮においでになります、
と申しあげましたが、
行かれませなんだか」
その使いは来なかった
ここの邸へは来るが、
二条北宮ときいて、
あえて来なかったとみえる
用向きの内容は、
何かそこに関係があることかも、
しれない
私は二条北宮へ戻った
いや、戻ろうとした
ところが都大路は、
一夜のあいだに武者ばらでいっぱい
二条北宮へ近づくにつれ、
その数は増した
門前にも近寄れない
検非違使庁の下部たちが、
手を振って追い払う
内大臣どのの罪状が、
決まったのだろうか
「お仕えする女房でございます
どうか道をお開けください」
と私は従者の男たちに言わせたが、
侍たちは耳にも入れず、
「邸へ入るも出るも、
みな罪人一味となるぞ
悪いことはいわない
かかわりあいになるまい、
と思うならさっさと立ち去れ」
という
二条のお邸はすき間なく包囲され、
邸内の様子はうかがいしれない
一方、武士たちは、
宮中にも詰めているという
近衛府のつわものたちが、
宮中の殿舎を守り、
馬は集められ、
諸門は逆徒が攻め込まぬよう、
しっかと閉じられているという
そうして、
二条邸にこもる高貴な罪人たちを、
召し捕ろうとして、
門内には検非違使の手の者たちが、
ひしめいている
中宮は、
どうなさっているであろうか
右衛門の君は、
首尾よく邸内に戻ったであろうか、
内大臣どのは、
からめ捕られなさったのか、
私は胸とどろき、
車から下りて走り込みたいほど
「お止しなさいませ
ここにいては、
どんなめにあうかわかりません
お車を戻しましょう」
供の者たちが泣き声を立て、
車の向きを変えてしまう
「待ちなさい!
しばらく様子をみてから」
と私は声もかれるばかりに、
いうのであるが、
そういう間も、
大路に武者たちの数は増えてゆく
馬がいななき、
男たちの怒罵がとびかう
内裏とこの二条邸を包囲する、
検非違使庁の武者ばらの間に、
ひっきりなしに伝令が行き交うらしい
日は中天に昇り、
初夏の熱い日ざしのもと、
大路は殺気立って、
人と馬でごった返している
追っても追っても、
物見高い群衆は集まってくる
内大臣どのの護送を、
ひとめ見ようとする人たちだ
その人波がどよめきと共に、
さっと二つに分かれるのは、
馬が走りこんできたときである
「内大臣を召し捕れという、
朝廷のご命令だそうだ」
「いや、まさか、
やはり高位のお方を、
どうすることもできぬであろう
何しろ中宮さまのお袖の下に、
かくれていられるのだから」
「すれば、
おゆるしが出るのかな」
「そんなことがあろうか
いったん朝廷のご宣命が、
下された以上、
ひっこめられることはあるまい」
と野次馬たちがしゃべりあって、
いるのが車の中の私にも聞こえる
私は手を握りしめ、
(今こそ、
おそばについていて、
お力になりたかった)
と切に思う
私が、
「待って
待ちなさいというのに」
と叫んでも、
車はどんどんお邸から、
離れようとする
「物騒なところでございます
ひとまず逃げましょう」
車のそばを、
歩いてついてくる小雪も、
恐怖に青ざめている
「御方さまに、
万一のことでも起きましたら、
ご主人さまに顔向けできません」
などと供の男はいう
彼らがご主人さまと呼ぶのは、
則光のことで、
私の邸の召使いたちからすれば、
私は今でも則光の妻、
という意識であるらしかった
夜に入って、
二条邸の前の通りは封鎖され、
通行止めになっているという
辻々にかがり火が焚かれ、
夜空が赤く染まっているのが、
自邸から見える
何ごとが二条邸で、
行われているのか、
私には知りようもなかった
夜っぴて、
町の者が逃げまどう物音がして、
かしましい
町の者たちは、
戦いでも起きるかのように、
逃げてゆく
夜明けに近いころ、
則光が馬で来た
(次回へ)
・中宮のお里、
二条北宮へお渡りが近づいたころ、
ふと中宮のお前に、
人のいない時があって、
「少納言は二条へ来るの?」
と仰せになる
「はい、むろん、
お供させて頂きます」
と申しあげると、
考え込む表情をなさって、
「賀茂祭りが過ぎれば、
あなたも里下りをして、
お休みをとればいいわ」
とおっしゃった
私は、
中宮がねぎらって下さったもの、
とばかり考え、
恐縮したが、
則光にいわせると、
「賀茂祭りが過ぎたら、
内大臣たちの罪科が、
決定するだろう」
という世間の噂だそうである
賀茂祭りは国家の大祭なので、
何はともあれ、
それを済ませてから、
右大臣(道長の君)側は、
動きはじめるつもりで、
あろう
それにしても、
中宮はどういうお気持ちで、
私を里下りさせようと、
なさるのだろう
私はその時、
中宮も斉信卿と同じお考えで、
(離れて守ってほしい)
というお心持ちなのかと、
考えた
勿体ないことだけれど、
中宮と私は反応力、感受性も、
相似しているので、
圏外にあって、
いわば留守居役といった、
うしろの守りをして欲しいと、
托されたのではなかろうか、
と思ったりした
二条北宮は、
来てみると、
狼藉の限り乱れていた
中納言の君が、
「去年とは違うのですよ」
といったはずである
邸内に仕える人々が、
あわてふためいて、
家財道具を運び、
逃げていくのだ
馬に乗せ、
牛にひかせ、
目の色変えて、
仕える主人や邸を見捨てていく
中には残りとどまる者と、
いさかう従者もあり、
女房たちも何かにおびえるごとく、
あたふたと去っていく
私たちは顔を見合せ、
黙ってしまった
あれはわずか去年のこと
去年の二月二十日、
積善寺で一切経の供養があるので、
中宮は二月一日にお移りになった
新築の御殿は、
檜の香もすがすがしく、
新しい御簾が青々と、
かけ渡してあった
一年たった今年は、
お邸のうちは荒れ、
ざわめいて、
人々は浮足立っている
庭は造りかけのまま、
うち捨てられ、
遣水も涸れていた
おやさしい父関白さまは、
いられないが、
いまはそのかわりに、
一家の中心で柱になられるのは、
中宮でいらっしゃるらしかった
中宮がお渡りになるというので、
尼になっていられる、
母君・貴子の上、
兄君の内大臣・伊周(これちか)どの、
弟君の隆家中納言、
さらには中宮より早く、
内裏を退出された妹君たちが、
お集りになっていられるらしい
ご一族のお内輪話は、
聞こえるはずもないが、
早耳の右衛門の君の、
もたらした噂では、
「仏神のおたすけを願うばかり」
というので、
夜ひる、誦経のお声は、
絶えることがない
夜、私と右衛門の君が、
割り当てられた部屋で臥していると、
あたりをはばかって、
若い女の声がする
「まことに失礼ですが、
前にこの部屋を頂いて、
お仕えしていた者ですが、
忘れ物がございます
ちょっとごめんなさい」
というではないか
私は右衛門の君と顔を見合せ、
ふき出しそうになる
私が妻戸を開けると、
まだほんの少女、
十二、三くらいの子がいて、
お辞儀をする
子供ではしょうがないので、
入れてやる
見苦しくない少女である
部屋の隅の二階厨子の、
まん中の棚に、
古ぼけた香炉があったのを取って、
さっさと、
「これでした
失礼しました」
と出ようとする
眠りを覚まされた右衛門の君は、
「そのお香炉、
ここのお邸のものじゃなく、
あんたのご主人さまのもの?」
「はい
まちがいありません」
少女は咎められたと思ったらしく、
急いで返事をして、
唇をとがらす
右衛門の君は、
「どうしてあんたのご主人さまは、
おいとまをとったの?
お邸の方々がまだいらっしゃるのに、
ひと足先に逃げ出すって、
どういうわけ?」
と意地悪くいう
「だって、
みんな逃げましたよ
いまにここへ検非違使のお侍が、
いっぱい来るって噂ですもの」
「へえ・・・」
「火が出るって、
ご主人さまは怖がっています
ご主人さまはご老女で、
怖がりなんです
検非違使が来た邸は、
あとできっと火が出て、
焼け落ちてしまう、
というのですよ
それで五条の娘さん宅へ、
逃げたんです」
少女が出ていくと、
さすがの右衛門の君も、
「なあに、あれ・・・」
と苦笑いをする
「御方(貴子の上)さまに、
仕えていた女房なのかしら、
あの子のご主人って」
「ご老女といえばそうじゃない?」
弁のおもとが生きていれば、
ご老女と呼ばれていたろうか
でも、弁のおもとは、
こんな目にあわなくてよかった
あの人ならば、
貴子の上や中宮ご一家とともに、
どこまでも踏みとどまったであろう
「ほんとに、
このお邸が、
そんなことになるのかしら?」
私はまだ信じられない
「里下りなさるべし」
という経房の君の警告は、
このことを指すのであろうか
「でもあたしは、
検非違使に囲まれて火が出る、
なんてことになっても、
決して出ていかないわ」
右衛門の君は、
淡々としていう
「あたしなら踏みとどまるわ」
私は思わず、
右衛門の君の顔を見る
皮肉屋で底意地の悪いこの女、
本心はやはり、
中宮への愛と忠実を抱いて、
それだけをみつめて、
複雑な世をさわやかに、
生きようというのだろう
中宮だけを信じて・・・
「じゃ、
少なくとも二人になったわ
いざというとき、
中宮をお守りする楯となるのは
実はあたしもそう思っているのよ
あたしも、
どんなことがあっても、
中宮をお守りし、
お慰めしようと思ってるの」
私は息が弾むのをおぼえる
中宮に対する、
純粋な気持ちの人間だけが、
残ったほうがいい
「あら、
あたしはあんたと違うわ」
右衛門の君は、
面倒くさそうにいう
「面白いからよ、
誤解しないでね」
「面白いって、何が」
「千載一遇の機会じゃありませんか
世の中がいっぺんに、
変ってしまう現場に立ち合う、
なんて
これは歴史的現場だわ」
「・・・」
「むろん、
あたしも中宮さまびいきだわ、
あんたほどじゃないけれど」
右衛門の君は笑うが、
口元の表情が美しいので、
嫌味ったらしさはずいぶん、
緩和されていた
そして私も、やはり、
この目で見たいという欲が、
ないとはいえない
・私が御曹司へ行くと、
中宮は人々が物語の評論を、
するのを脇息に肘をついて、
大儀そうに聞いていられる
斉信卿が暗に示唆されたような、
まがまがしいことは、
夢にも考えられぬ、
のどかな楽しいつどいである
中宮はご兄弟の君の運命が、
お心に重く沈んで、
不安のたねとなっていられるに、
ちがいなのに明るくふるまって、
いられる
幸福げにほほえんでいられる
それもある意味、
無理からぬこと
中宮は、
ご懐妊でいられたのだった
一条帝にとっても、
中宮にとっても、
はじめてのおん子を
あの粥杖の効果が、
あらわれたのかしら
中宮がご懐妊ではないか、
という噂は、
実をいうと年のはじめからあった
でもその時ははっきりせず、
お体をこわされたのかもしれない、
というようなものだった
そのうち、
花山院への不敬事件がおきて、
その噂で都中はもちきり、
内大臣・伊周(これちか)の君、
中納言・隆家の君は、
どうなられるのであろうと、
そっちの方へ人々の関心は、
それてしまった
しかし中宮が職の御曹司へ、
お移りになったころには、
確定的であった
内大臣どのは、
ご自分の罪名が勘案されている、
大変な瀬戸際なのに、
お妹宮のご懐妊を喜ばれて、
早くも、
(皇子ご誕生)の祈祷を、
していられるということだ
このご一家の、
背後にいられる祖父の高二位どの、
そのご祈祷も何やら後ろめたい、
秘密めかしい色に染まっていく
中宮は職の御曹司から、
内裏の梅壺へはお還りにならず、
二条北宮へお移りになることに、
なった
(罪人のお身内だから、
内裏へお住みになるのは、
恐れありと遠慮なさった)
という人もあり、
(いや、ご兄弟を、
罪に落とすことを、
黙認された主上に、
あきたらずお思いになり、
中宮はすねていらっしゃる)
という噂まで流れる
しかし中宮と主上は、
かわらずおん仲はむつまじかった
はじめてのご懐妊のこととて、
主上はしきりに気遣われる
しかしご懐妊になると、
お里へお退りになるのは、
今までの内裏の慣例である
私たちも二条北宮へ、
お供する
経房の君や、
斉信卿にそれとなく、
示唆されたけれども、
私は中宮から離れることは、
出来なかった
女房の中納言の君は、
中宮ご実家退出について、
「この度はご懐妊といっても、
晴れがましいかたちではなく、
さりげなく・・・」
と念を押している
ふつう、女御・后が、
ご懐妊で退出となれば、
意気揚々と、
これ見よがしの手柄顔、
一門一族で誇りかに行列して、
お送りするのであるが、
その頼りとするべきご兄弟は、
ただいま罪名を待って閉門中
わずかに伯父君にあたられる、
高二位の子息がたが、
渡御の差配をなさる
「さりげなく・・・
それとなく・・・」
というのが一族の、
意向でもあった
中納言の君は、
「このたびは少人数でお供します
去年とはちがうのですよ
ごく内輪に」
と女房たちにいっている
中宮の活発なご気性の影響で、
若い女房たちには、
活発な人が多い
中宮のご兄弟が閉門中といっても、
ぴんとこないらしく、
全く以前と変わらぬ様子
その噂がどう伝えられたのか、
東三条の詮子女院(帝の生母)は、
(つつしみのない・・・)
とお眉をひそめられた
内大臣・伊周の君嫌いの、
女院としては、
どうも中宮の御周囲にも、
ご好感は抱いていらっしゃらない
「派手派手しい行啓になっては、
世の人のそしりを買い、
よからぬ噂をまくようなもの
お若い人は、
しばらくめいめいのお家へ、
退出なすって下さい
宮さまがお里下りなすっても、
二条北宮で待っているのは、
面白おかしい毎日では、
ありませんのよ
宮さまは、
ひたすら静かにご養生、
内大臣さまや御方さま(母君)の、
お心を乱さぬよう、
つつましく控えていなければ、
なりません
ですから、
このたびのご退出のお供は、
年輩の人だけにお願いしましょう」
中納言の君は、
私がはじめて中宮に、
お仕えしたときからみると、
めっきり老け、
太ってきて、
表情には気づかわしげな、
取り越し苦労で疲れ果てた、
というくまがある
宰相の君、
右衛門の君、
式部のおもとなど、
それでも二十人ばかり、
お供することになった
(次回へ)