聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ14章

2018-10-18 | 聖書
イエスが11弟子に、これから起こるイエスの死への備えをさせるために、ご自分と父との関係や弟子たちに助け手である聖霊を与えることなどを語る。

前章最後の部分でイエスは、ペテロが三度否認する、と予告する。
それに続きこの章は、心を騒がせてはならない、という言葉からはじめられる。

2節。「父の家には住むところがたくさんある。・・・あなた方のために場所を準備しに行こうとしている」
教義では、イエスが天に準備されるのは、14万4千人の油そそがれた者たちのための場所。でも「たくさんある」っていうのに、14万4千人分ってなんか違和感あるよね・・・油そそがれた弟子たちは「小さな群れ」ってことなのにね。

5節。トマスの質問。「あなたがどこへ行こうとしているか分からない。どうしてその道が分かるか」
6節。イエスの答え。「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはない」
言い換えれば、イエス以外に神に至る道はないし真理もないし命もない。でもこれって、神の民イスラエル人の忠実な11人の弟子たちだけに語られた言葉なんだよねぇ・・・イエスを知りえなかった(今も知りえない)全世界の人に当てはまる言葉なのかなぁ・・・

8節。フィリポの願い。「父をお示しください。それで十分です」
9節。イエスの答え。「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」
この[も]は新世界訳の付け足し。三位一体じゃないことが分かるように付け足してる。他の聖書は「父を見た」になってる。続く聖句(10,11,20節)に「結びついている」という言葉が何回か出てくるけど、これも三位一体じゃないという印象操作の意訳。他の聖書は「いる」「おる」「中におる」「内におる」などになってる。13節の「父が子との関連において栄光をお受けになる」も、他の聖書では「父が子によって栄光を~」となってる。
この章には、他にも三位一体じゃないことを示すための意訳がいくつもある。これじゃあ新世界訳が聖書じゃないって言われても文句言えないよなぁ・・・
自分は三位一体を支持するわけじゃないけど(三位一体もアリかなとは思う)、聖書を書き換えてまで否定するってオカシイと思う。いろんな解釈が出来る余地を神が良しとされてるのなら、違う解釈を受け入れることも必要なんじゃないかなと。信じるかどうかは別にして。

22節。ユダの質問。「わたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ、世に対してはそのようにされない、これは何が起きたのか」
23節。イエスの答え。「わたしを愛するならわたしの言葉を守り行ない、父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て住まう」
神とイエスが来て住まうのは、やっぱり組織じゃなくて個人。助け手(法的に味方になってくれる弁護者の意)である聖霊も個人に働く。信者同士で集まり合うのは必要かもしれないけど、組織は必要ないように思う。

最後に一行はゲッセマネの園に向かう。

洗足式と記念式

2018-10-17 | エホバの証人
洗足式とは、ヨハネ13章1~17節に基づく、多くのキリスト教で行なわれている儀式で、聖餐式と共に行われることもある。(byウィキ)

エホバの証人は行わない。イエスが制定されたという記念式(聖餐式とは違う)だけを行なう。
エホバの証人(組織)は記念式をとても重要視しているけど・・・どうなんだろう。

最後の過ぎ越しのとき、ヨハネは洗足のことは書いたけど、記念式のことは書かなかった。

なぜ書かなかったのか。

そのころにはそれがもう確立していたので書く必要がなかったのか、あるいは後代の弟子たちに、形だけになってしまった儀式よりも大事なことを伝えたいと思って洗足のことを書いたのか。(洗足には、愛をもって謙遜に仕え合うこととイエスの贖いをもって日々犯す罪を覆ってもらう必要があることを教える意図があった・・・と思う) もしくは記念式の制定なんてなかったのか。

自分が今の時点で考えているのは、イエスは記念式の制定なんてしなかったこと。イエスが記念式みたいな式典を行なわせる方だとは、どうしても思えないんだよね。
たぶん弟子たちが、この時のイエスのことを思い出したり記念したりするために、主の晩さんと称して度々(特に日にちを決めないで)行なってただけなんじゃないかなぁと思う。
でも人って、そういうものを形式化したがるから、そうならないようにヨハネはあえて、パンとぶどう酒のことは6章で書き、過ぎ越しでは洗足のことを書いたんじゃないかなぁと。

というわけで、エホバの証人が行なってる記念式は、イエスに喜ばれてるとは思えない。


さて。

興味深いことに、日本語にも「足を洗う」という言葉がある。

仏教から出た言葉で、裸足で修行に歩いた僧が寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行ないをやめる意味で用いられるようになった。(by語源由来辞典)

イエスが行なったこととは関係ないけど、なんとなく繋がりを感じるなぁと思いました。

ヨハネ13章

2018-10-15 | 聖書
最後の過ぎ越しの途中でイエスが12弟子の足を洗う。

エホバの証人の組織ではこの部分、イエスが謙遜さの際立った模範を示した、としている。誰が一番偉いかを競い合っている弟子たちに謙遜さを教えるために、イエスの実物教育、という言葉まで使って。イエスが居なくなった後のことを思って。

自分はそれにいつも違和感を感じていた。謙遜さの模範というだけではどうもしっくりこない部分があって。

7節の「わたしのしている事を、今は理解していないが後に理解するようになる」とか、8節の「わたしが洗わないならあなたはわたしと何の関係もない」とか、10節の「水浴びした者は足を洗ってもらう必要があるほかは全身清い。それであなた方は清い」とか。

今回いろいろ調べて(もちろん組織の出版物ではありません。組織以外のキリスト教です)、腑に落ちたことがたくさんあって、いったい自分は今まで何を学んで来たんだろうと。
エホバの証人は聖書を全く理解してないことがよく分かったです。

で、何が分かったかというと・・・上手くまとめられないので列挙します。

イエスが弟子たちの足を洗ったのは、謙遜さを示すと同時に、弟子たちの日々の歩みで付いてしまう汚れを洗う、つまり日々犯す罪をイエスによって洗い清められなければならないことも示していた、ということ。
そしてそれはイエスの愛の表明(贖い)でもあり、ペテロのように拒んではいけない(拒むのは高慢)こと。受け入れて神の愛を知り、それに倣って他の人を謙遜に愛すること。
さらに、水浴びした者、つまりイエスがメシアであるという信仰を抱いた者はすでに清い者であるけど、日々の歩みで足に汚れが付くのでイエスに足を洗ってもらう(贖いに基づいて許しを祈り求める)必要があること。
ユダは信仰を失ってしまっていたので、イエスは「すべての者がそう(清い)ではない」と言ったこと。
などなど。

これらが分かって読むとヨハネの書いてることって深いなぁと。聖書ってやっぱいいなぁと。

ついでに、組織の出版物から分かったことも1つ。
21節。「イエスは霊において苦しまれ・・・」とある。前の18節でユダの裏切りに関してイエスは詩編41:9を引用された。それはダビデがアヒトフェルの裏切りについて書いたものらしい。アヒトフェルは首をくくって自殺した。聖書に記されてる2つの自殺のうちの1つ目。2つ目は・・・イエスがユダの行く末のことを思って苦しまれたことがわかる。

分からなかったことも1つ。
32節。節の頭にあるはずの「神が彼によって栄光をお受けになったのであれば」という言葉が、新世界訳では「また」という言葉に置き換えられてる。神が彼によって栄光を受けては何かまずいことでもあるのかな。これって三位一体を否定したいがための書き換えじゃないのかな。

聖書は信頼できるか

2018-10-13 | 聖書
自分的には聖書は信頼できると思ってる。

まず全体の印象として、学生の頃に読んだ神話とはどこか違ってるなぁと思う。作り話にしてはあまりによく出来過ぎてるなぁと。
組織がよく言ってるけど、真実の響、を個人的には感じた。

言語がこんなに多い理由はバベルの塔だとか、地球の表面の大半が水なのはノアの日の洪水だとか。

人間だけがなんで服着てるのか。人間にはなんで良心があるのか。
地球にだけなんで命があるのか。

聖書は結構いろんな疑問に明快に答えてると思う。

他の宗教書は読んだことないけど、今のところ聖書で満足しちゃってるかな。

見かけで判断しない

2018-10-12 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究のテーマは「見かけで判断しないようにしましょう」。

内容は、人を見かけ(人種や民族、お金や物、年齢)で判断しないよう(裁かないよう)にというもので、今更感満載な内容。

気になったのは、主題の聖句にヨハネ7:24「うわべを見て裁くのをやめ、義にかなった裁きで裁きなさい」が用いられていること。

この聖句は、文脈から言うと、「律法の言葉を額面通りに受け取って裁く(安息日を破った)のではなく、律法の精神を汲み取って義にかなった裁き(病気を癒す)で裁きなさい」ってことをイエスはおっしゃってるわけで。

まぁ拡大解釈すればこの記事に当てはめられなくもないんだろうけど。イエスは実際見かけで判断するような方じゃなかったわけだし。

でもなんだかモヤモヤする。イエスの言葉をゆがめて当てはめてる感じがして。


さて今回は、読みながらの心の声を。

6節。「~族には不潔でだらしない生活をしている人が多いですが」(民族性を認めていることと偏見を持ってることとは違うんじゃないかなぁ。「~族」を「世」に置き換えると、組織の言葉みたいだなぁw)

9節。「注意していないと、裕福な兄弟とは友達になるものの、貧しい兄弟は避けようとするかもしれない」(んなことしないわ。レベル低っ。これ書いた人の周りってそんな兄弟ばっかりなのかい)

12節。「お金や物で人の価値を判断しないようにしましょう」(だからしないって。してるのあなたたちでしょ)

15節。「パウロから重い責任をゆだねられていました」(パウロじゃなくて神からでしょ!)

16節。「若い人を見下げる文化圏もあります」(あれ?これは偏見じゃないのかな?)

同節。「長老が文化に基づいて規則を設けるなら、聖書に従っていないことになります」(ローカルルール、長老ルール、いっぱいあるよね。でもまぁ文化をある程度反映させるのも必要かと。こういう文化圏で若い人ばかりが長老だったら信頼されない会衆になってしまう可能性だってあるわけだし。言ってしまえば組織自体アメリカ発信だから、書いてること言ってることが日本人の現状や見方とズレてることもままあるわけだし。組織だって聖書じゃなく現状に合わせてイロイロ調整してるよね。ますます集まり合わなきゃならないのに集会大会減らしたもんね・・・・・以下脱線していってしまったのでこのへんで)

Y姉妹

2018-10-11 | エホバの証人
電車で3時間ほど離れたところにいる、年上のY姉妹とよく電話する。

Y姉妹の会衆は成員があまり多くないので、Y姉妹はものみの塔研究でなるべく1回は注解できるように、何か所かの注解を準備している。でも話によると、S長老が司会するときには、何度手をあげても指されないことが多いそうだ。S長老は、自分の家族や自分と仲の良い兄弟姉妹へのエコヒイキがあからさまで、そのことは会衆周知だとか。Y姉妹はうんざりした声で「前回はS長老が司会だったのよねぇ。また当たらなかったわ。S姉妹は何回も当たったのに」と。

Y姉妹は与える精神に富んだ方で、いつも兄弟姉妹をよくもてなしておられる。以前に特開者のA姉妹が交わっていたときにも、食事や洋服やガソリン代などもろもろ援助していたらしい。そのうちにA姉妹は、援助されてあたりまえのような態度になって、「Y姉妹、今日はお昼を食べに行きましょ」と自分から誘っておきながらY姉妹に払わせるということもあったそうな。Y姉妹はエホバのためと思って援助を続けたけど、「異動してくれてほっとしたわ。ほんとどうしようもない特開者だったわ」と。

Y姉妹の愚痴は延々と続くのでした・・・・・

ヨハネ12章

2018-10-10 | 聖書
マリアがイエスの足(マタイとマルコでは頭)に香油を塗った話。

ユダが「どうして香油を三百デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と言ったのは、貧しい人を気にかけていたためではなく、彼が盗人で、金箱に入れられる金を常々くすねていたから。

ここを読んでて思った。この組織(エホバの証人の上層部)って、まさにユダだなぁ。

信者にとって貴重なものを、イエスに捧げるより、組織に捧げるように要求してくる。

資産にしても、色んな寄付の方法を示して、貧しい人たちのためとか災害救援のためとか言ってるけど、実際は何に使ってるのか全く報告されない。(うすうす気付いてることもある。上層部贅沢費とか児童性虐待隠蔽用とかとか)

常々金箱からくすねていたユダはどうなったか・・・・・・この組織もユダのように滅びに向かっているんだろうなぁ。ともに滅びることを望まないなら彼女から出なさい、ってことかなぁ。


さて、この話はイエスが亡くなる6日前のこと。

世界中どこでも良いたよりが宣べ伝えられる所では、この女のしたことも彼女の記念として宣べ伝えられる、とイエスは言われた。それほど重要なことをマリアは行なったわけだけど・・・・なぜそれほど重要だったのかがどうもよくわからない。で、自分なりに考えてみた。

ヨハネはこの話を過ぎ越しの6日前として書いてる(エルサレム入場の前日)けど、マタイとマルコはユダの裏切り行為(過ぎ越しの2日前)の前に挿入するように書いてる。とすると、この話もユダの裏切りに深く関係していた出来事だったから重要だったのかもしれない。
この時ユダは良いこと言って、それに賛同する者もいたのに、イエスはマリアの肩をもってユダを叱責された。ユダの中で何かがぷっつん切れちゃって、裏切り行為に走ることになっちゃった、という出来事なら重要だよね。
でもこれだとマリアの記念というより、ユダの記念になっちゃうかw

もう一つ考えたのは、ルカが書いてる類似の出来事との関係。
罪人の女がマリアと同じことをイエスにした時、イエスは「このことによって、彼女の罪は多いとはいえ許されたのです。彼女は多く愛したからです。わずかしか許されていない者は、わずかしか愛さないのです」って言われた。
その話を聞いていたマリアが、自分の方がもっともっともーっとイエス様を愛してるのよっっっ、とばかりに高価な香油を塗ったんじゃないか、なんてね。(頭だけじゃなくて足にも塗ったってところがあやしいよねw)
それをイエスが良い方に解釈されて、愛から出た行ないとして褒めてくださったんじゃないかと。


ということで・・・・・自分、あんまりマリアのことが好きじゃないんだなぁと思いました。(マルタの方が断然好きです)

ヨハネ11章

2018-10-09 | 聖書
ラザロの復活の話です。

最後の過ぎ越しが近付いていた頃。ご自分が贖いとなって最後の敵である死を無にきたすという、イエスご自身の死も近付いていた頃。

「あなたが愛情(フィリア)を抱いてくださる者が病気です」とあるので、それまでにイエスが復活させた人たちとは、イエスとの関係性が違うことがわかる。人間イエスとしては、すぐにでも病気を治したいと思ったかもしれないけど、「この病気は死のためのものではなく神と子の栄光のため」と言われ、遠くからでも癒せるのにそうなさらず、なお2日そのまま留まられる。
イエスは「彼らを愛して(アガペー)おられた」とある。フィリアとアガペーでは出てくる行動が違うってことなんだろうなぁ。愛情を抱く者の死を、癒す手立てをお持ちなのに、ただ待っているのってどんな思いだったんだろうなぁ・・・

マルタがまずイエスを出迎えに行ったのは、ユダヤ人たちがいっぱい来ていて、特にマリアを慰めていたのもあるんだろうな。マルタがイエスに「ここにいてくれたら死ななかったでしょう」と言ったときは、幾分非難口調だったかも(心の声「なんですぐ来て癒してくれなかったのよぉ。ひどいじゃないのぉ。終わりの日に復活することぐらい知ってるわよぅ」みたいなw)。それに答えてイエスは、ご自分が復活であり命であることを信じるようにと言われ、マルタは信じてるとは言うけど、すぐに復活が起きるとは思ってなかったんだろうな。

マリアは同じ言葉をひれ伏してから言ってるから、悲しみと嘆きの方が強かったのかな。だからか、それに対するイエスの反応がマルタの時とは全く違う。ユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になって、新世界訳では「霊においてうめき、また苦しみを覚えられた」(33節)となってる。

黒崎註解によると、「霊においてうめき」で用いられてるギリシャ語はエンブリマオマイで、専ら憤怒の情(マルコ14:5)を表す。厳しく戒める意味(マタイ9:30マルコ1:43)に用いられている。単に愁傷の意味ではなく何かに対する反対の激情を意味する、とある。「苦しみを覚える」はタラッソーで、心騒ぎ(ヨハネ12:27、13:21のイエスの霊肉が苦闘の状態であるのと類似)。

他の訳では、「激しく感動し、また心を騒がせ」「心に憤り、かつ興奮して」「心になげき、激して」「心に憤りを覚え、興奮して」「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」などとなっている。

ものみの塔ではこの部分、イエスが心から深い同情心を表され涙したとしているけど・・・それがどうもピンとこなかった理由が少し分かった気がする。

イエスは憤っていたんだね。これほど人々を苦しめる死というものに対して。ずーっと人類史の最初から死を見てきたけど、この時は状況がちがった。あえて死ぬにまかせた友人。死に対しての人間の無力さも実感したのかもしれない。だから涙を流された。ご自分の感情ゆえの涙だったと捉えた方が自分的にはしっくりくる(同情心もあっただろうけど)。これからご自分が行おうとしている贖いの死が、人間にとってどれほど価値のあるものかも改めて実感されたかもしれない。(大げさに泣いてるユダヤ人や、不信仰なユダヤ人に対しては、別の意味での憤りもあっただろう)

死後4日経つと肉体も腐り、3日間近くをさまよっていた霊も離れて、完全に死んだとユダヤ人の間では信じられてたとか。だからイエスは4日後に来たんだね。復活はありえないと思われた死後4日経ったラザロが、イエスの声を聞いて復活した。

信じるなら神の栄光を見る。

神の栄光を見てから信じるのではなく。見ても信じない者が多い中で、信じる者は神の栄光を見る。


さて。ずっと疑問に思ってることがある。

死の苦しみを経験した者を復活させて、もう一度死の苦しみを経験させるというのはどうなんだろうと。

死は思ってるほど苦しいものではないのかなぁ。まぁ・・生きてるから苦しいのであって死んでしまえば苦しくはないだろうけど、死に至るまでの痛みや苦しみは2度も経験したくないよねぇ。そこんところどうなんだろう。
まぁ、若いうちは未来があるから復活はいいことかな・・・年取ったら、また死ぬのに復活って・・いやだよねぇ・・・(産みの苦しみと同じかなw産んでしまえば覚えてないっていうw)

その情報は信頼できるか

2018-10-07 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

背教者のウェブサイトには特に注意が必要です。(4節)
エホバの証人に関する情報を見聞きした時には、特に注意が必要です。(6節)
エホバの証人に対する中傷を見聞きしても、動揺しないようにしましょう。(6節)
ネガティブな情報や不確かな情報を他の人に伝えないことです。(8節)
エホバの証人について間違ったことや批判的なことを言われると・・・そのような批判がうそであるとはっきり分かるような生き方をすることです。(13節)

組織は信者が本当の情報を得ることを恐れているようですね。そしてそれが信者の間に広まることも。

こんな記事を研究したって、イエスの生き方に倣うことにならないよ。

ひとつだけ突っ込みます。

16節の最後の質問。自分が後ろめたいことしてない限り、この場面で浮気してるなんてこれっぽっちも考えないわ。バッカじゃないの。エホバの証人、どんだけ道徳レベル低いのよっ。

趣味(昌磨くん)

2018-10-07 | 趣味
趣味のフィギュアースケート観戦です。

●ジャパンオープン。

日本チーム優勝です(フリーのみの争い)。よかったね、昌磨くん、去年の雪辱果たせて。

男子1位は昌磨くん。今のところ非公認ながら世界記録。186.69。冒頭2つの4回転ジャンプに失敗した(合わせて8点ほどにしかならない・・)のが残念。でも惹き込まれる滑りだった。だいぶ音楽に合って来て、余裕が出てきた感じ。でももっと上半身(特に左腕)での表現が欲しいかな。前半、飽きさせないためにも。後半は凄かった。
でもなんだろう・・・クリムキンが無いし・・・今一つ物足りない感じを、スケーティングでカバーしてるような・・・う~ん。このプログラム、嫌いじゃないんだけど、むしろ好きなんだけど、自分的にはイマイチ盛り上がらないんだよなぁ・・・やっぱ演奏のせいかなぁ・・・。

2位はなんと、織田信成くん。176.95。冒頭4回転トゥループとトリプルトゥループのコンボを見事に決め、続いてトリプルアクセルとループとトリプルサルコウの3連続も決めて、なんとこの2つのジャンプで32点たたき出してます。スゴイ。いやぁ、まさにエンターティナーです。スピンしながらYMCAですよ。会場もノリノリ。ホントに楽しいプログラムでした。信成くんのスケートも大好物です。

ネイサンくんは4位。まだ本調子じゃないのかな。4回転ジャンプがほとんど決まらなかった。でも苦手なトリプルアクセルは良かった。これからに期待。

今年のルールだと、4回転飛んで失敗するより、3回転を綺麗に飛ぶ方が点数は取れそう。ケガのリスク(年齢的にも)を考えたら、無理して何回も4回転飛ばなくてもいいんじゃないかと。見てる方はスリルがあって面白いけど、ジャンプに囚われてそれ以外のことに影響がでてしまうのは残念なので。10代の若いうちは何回でも飛んで欲しいと思うけど、20代になったら4回転ジャンプの数や種類を増やすより、表現力を磨いて欲しいなぁ。

女子1位はザギトワちゃん。ぶっちぎりです。男子と合わせても3位の得点です。世界記録をどんどん塗り替えていきそうな勢い。貫録でてきたなぁ・・・

2位は坂本花織ちゃん。スパイラルで壁にくっつきそうになってました。相変わらずダイナミックです。

3位が知子ちゃん。ジャンプの軸が曲がってるのは、何か調整中なのかな。ケガじゃなければいいんだけど。


●フィンランディア杯。

男子の結果が出ました。

1位。コリャダくん。ネペラより20点以上得点は落としちゃったけど、フリーのpcs90点は健在。

2位。ジュンファンくん。オータムに続いて2位。やはり得点は20点ほど落としちゃってるけど。今年は躍進の年になるかな。期待大です。

草太くんは9位でした。