聖なる書物を読んで

現役JW29年目

10月ブロードキャスティング

2018-10-06 | エホバの証人
懸命に、新世界訳改訂版とみ名の復元と教義の正しさを訴えてました。

新世界訳改訂版が分かりやすくなったのは、現代語にしたからというより、教義に合わせて意訳したからだろうね。
調べなくても、読むだけで伝わるようにね。
ますます独自の解釈に基づいたエホバの証人だけの聖書って言われるね。
そのうち聖書じゃなくて、エホバの証人の聖典とか言われるようになるかもね。
(使った人のインタビューでは、「個人の感想です、ってちっちゃくテロップ入れといて欲しいね」と主人)

新約にみ名を復元した事も、イエスや使徒たちがみ名を用いていたかどうかよりも、実際に書かれた時にみ名が用いられたのかどうかが大事だと思うけど。
もし用いられていないのなら、そこに理由があるんじゃないかと。
だとしたら復元すべきじゃないよね。
み名を負う民だからといって、勝手に復元していいのかなと。(自分は旧約からの引用は復元してもいいと思ってますが・・・)

フェルメールの贋作の話、主人は有名な話だといってたけど、こんなことに使わないで欲しい。

三位一体論者を糾弾するのはいいけど、例に出てくる疑問が幼稚過ぎ。(自分は最近三位一体もアリかなと・・・)

全体的に見て、いかにも正論を言ってるように見えるけど、一部の正しさを示して全てを正しいと思わせるような、胡散臭いお話でした。
騙されないように、自分の頭を使ってちゃんと考えないとねw。

2018-10-04 | エホバの証人
「神」とはどんな存在か。
反JWの立場で書いているブログを読んでて感じたのは・・・

自分や世の中の問題をすべて自分の思い通りにすぐ解決してくれる存在。
悪が起こることなど許さず世の中を善で満たしてくれる存在。
子どもが悲惨な目に遭うことなど絶対に許さない存在。

こんな感じかな。
もちろん人によって違うだろうけど・・

きっと自分が思い描いている神とは全く違うんだなぁと思う。

自分にとっての神は、そんなに自分に都合の良い神ではない。
かといって、そんなに冷たくも過酷でもない。

今は基本的人権が保障されてる世の中だから、旧約時代の出来事を今の感覚をもって、神は残虐だと言うのもどうかなと。(神は時々の人間の考え方に譲歩されてる)

ご自分が犠牲になることはできなかった(世界が消滅しちゃうとかw。でも三位一体なら出来るねw)から、み子の犠牲を受け入れたんじゃないかなと。

確かに早く悲惨な出来事を終わらせて欲しいとは思う。
そう願ったから信仰を持ったんだし・・・(いつの世もそう思う人がいっぱいいたんだろう)

でも、神が時を定めているのなら、その時は確実に来るはずだと思ってる。いつかは分からないけど。キリストの再来は預言されてるから。

ヨハネ10章

2018-10-02 | 聖書
イエスはりっぱな羊飼い。

ものみの塔によると、イエスは羊の3つの囲いについて話されてるそうな。1~6節では律法契約下のユダヤ人がいる1番目の囲い。戸口番であるバプテストのヨハネがイエスに対して戸を開け、イエスはその囲いの中からご自分の羊を導き出すそうな。んでもって7~15節では、イエスは新しい契約下の2つ目の囲いの戸口となって、そこに羊を導き入れてりっぱな羊飼いとして養うそうな。んでもって16節の3つ目の囲いには、ほかの羊である地的希望を持つ人々を連れて来て、一つの群れ、一人の羊飼いになるそうな。(合ってるかな?)

これだと、異邦人の居場所がないよね。

9章の続きだから、イエスはパリサイ人たちに語ってるわけで、1~6節の解釈はまぁいいとしても、7~15節はご自分が羊の戸口であり、りっぱな羊飼いであること、盗人でも雇われ人でも(これらはパリサイ人のことかな)ないことを語ってるわけで。8節で、「羊は彼ら(盗人)の言うことを聴きませんでした」とあるから、9章で盲目を癒された人のことを暗に言ってるんじゃないかと。イエスはイスラエルの失われた羊のために遣わされたことも考え合わせれば、続く16節のほかの羊は異邦人のことだと、普通に読めばそうなると思うんだよね。

天的希望と地的希望を分けて考える必要なんかないと思う。
イエスの声を知っている羊は、イエスの後に付いて行く。イエスはりっぱな羊飼い。

ヨハネ9章

2018-10-01 | 聖書
まるまる1章、生まれつき盲人の目を開けるという奇跡(ヨハネの書いた6番目の奇跡)のこと。

前章8:12で、ご自分を「世の光。わたしに従う者は・・命の光を持つようになる」と述べたイエス。この章では、それを業によって証明されたことがわかる。
癒された者は、実際の光だけでなく、霊的な光(命の光)も持つようになった。

さかのぼって6:28,29で、神の業をするため何を行なったらよいか、という質問にイエスは、神の遣わした者に信仰を働かせることが神の業だ、とお答えになっている。

この者が、イエスに信仰を働かせるようになって行く過程が興味深い。

イエスは、どんな方法でも(言うだけでも、触るだけでも)癒せるけど、この時は粘土を作って目に塗り、行ってシロアムの池で洗うようにと指示された。
イエスの言葉を聞いてそれに従うこと(特に自分ではどうにもできないこと)で、実際に良い結果を得られたことが、信仰の始まりになる。

その前に「この人が罪を犯したのでも、その親たちでもない」と述べているイエスの言葉に心動かされたんだろう。さんざん、お前のせいだ親のせいだ、と言われてただろうから。イエスが従い易くしてくださってることも分かる。そうでなかったら、目が見えないのにシロアムの池まで行こうとはしなかったかもしれない。

ヨハネがわざわざ、シロアムの意味を「遣わされたもの」と書いているのも、イエスが遣わされた者であるという信仰が関係しているからなんだろう。(新世界訳は「送り出された」となっているので、そこが分かりにくい)

この者がイエスについて語る言葉は、まず人々に「イエスという人」⇒パリサイ人には最初「彼は預言者です」、2回目には「神からの人」⇒そしてイエスに「主よ」となっていく。

神の業は奇跡的に癒されることだけでなく、その事実(経験や知識)に基づいて、追放されても、親から見放されても、イエスに信仰を働かせるようになっていく、これが神の業なんだなぁと。

3節でイエスは、この人が盲人として生まれたのは「神のみ業がこの人の場合に明らかにされるため」と述べている。その通りになった。

そしてイエスは、パリサイ人たちに「盲目であったなら罪はなかった。あなた方は『見える』と言う。あなた方の罪は残る」と言われる。
盲目であること(=罪人であること)を自覚するのが信仰への第一歩。これを考えると、パウロの回心の過程が興味深い。一度盲目にされてから、視力を回復されてる。彼が与えられたとげ(視力に関することらしい)は、このことを忘れないようにという戒めでもあったのかな。

ものみの塔をいくら研究しても、今回のようなことは学べない。これは、いわゆる世のクリスチャンたちがネットに載せてくださっていること(感謝です)をまとめたもの。

聖書をものみの塔解読のための辞書のように使っているエホバの証人は、もっと聖書そのものを勉強する必要があるとつくづく感じた次第です。