教会では「十一献金」というものがある。
洗礼を受けて教会員になると、
月収の十分の一を献金として捧げなさいという決まりなのだ。
これは聖書にもそう書いてあるということだった。
(解釈だとは思うけど・・・・)
我々は、今は私が働いていないこともあり、
その他の諸事情もあり貯金を取り崩しているので、
十一献金をしていたら生活が成り立たないので、
自分たちで決めたほんの微々たる金額を献金している。
でも、精いっぱい心を込めて感謝して献金しているのだ。
今日の礼拝でのメッセージが十一献金のことだった。
十一献金を粛々と行っていたら、
思いがけず神さまがよい道を用意して下さったとか、
十分の一より少し多い額をがんばって献金して欲しいとかいうことだった。
・・・・が。
十分の一より少し多い額なんて聖書のどこにも書いていない。
現世でお金をより多く捧げた人が多くの恵みにあずかる?
天国で豊かになる?
そんなのおかしい。
聖書には「貧しきものも富めるものも病めるものも・・・」
そう、みんな分け隔てはないと書いてあるのだ。
キリスト教は他の邪宗教とは違う。
2000年の時を経て育ってきた真の宗教なのだ。
そんな信仰がお金の力でどうこうなるのだったら、
私はキリスト教なんて辞めている。
浄土真宗では戒名に「院」と付けるためには、
普通よりも多くのお布施を払わないといけないのだそうだ。
そんなことがキリスト教で言われたことがあっただろうか?
十一献金をしなかったからと言って、
扱われ方に違いが出るとしたらそれは邪教だ。
それに、「マラキ書」を持ち出すなんて、
あの部分はカルトなんかがよく引用して、
お金集めをすることで有名な箇所だ。
聖書学、説教学を学んだ人が安易に引用する箇所では無いと思う。
それほど扱いの難しい文章だと思っている。
教会の運営は確かに大事で、経済的なことからは逃れようがない。
でも、お金のことと信仰を一緒に語って欲しくない。
総会で議題に上がるのならまだしも、
礼拝のメッセージでお金の話なんて・・・・
私はただ我々の救い主、主イエス・キリストを信じて、
神さまに手を引かれ、道を照らしてもらい、
愛をもらい、癒され、天国に入る日を待っているに過ぎない。
今日は今年最後の礼拝だったというのに、
あまりのショックと突き刺さるような内容に、
帰りの車の中で泣いてしまった。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、
強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
(第2コリント9:7)
くぅ