ぐるぐるねこぐるま

ねこぐるま別館です!

ジュエリーや日々のよもやま話に
おつきあいください♪

今日2回目のブログ

2014-09-04 18:12:52 | よもやま

 今日はちゃだが朝からJAVAとかの勉強をしていた。
 企業から仕事をもらって、プログラミングなどを行って返す。
 そういうSOHOの仕事形態があるけれどそれなのだ。
 教会のHPももう少しオシャレに今風に改造しようと企んでいるらしい。
 H師には了解をもらっているので、
 早くフラッシュとかを使って、洗練されたHPになればいいなぁ~。

 午後からはもうボロボロになっていたネイルを塗り替えた。
 爪の先が伸びて指から出てしまうと、
 ピアノを弾いたときに黒鍵に引っかかったり、鍵盤を滑るようになる。
 そうなってしまうととても弾きにくいので、
 普通の人は3週間くらいは持つだろうけど、
 私の場合、セルフネイルという事もあって10日くらいでダメになる。
 でもその分、練習ができて少しずつ利き手でない左手が器用になった。
 最初は左手で右手の爪をグラデーションなんかできなかったし・・。
 たまにはプロのところへ行って技を盗みたいなぁ。

 ☆今日のネイル「夏の終わり」☆

 

 近くで見ると結構ツヤ感もあってはみ出しも少なくなり、
 だいぶんと腕が上がったと思うよ
 アクリル絵の具では再現できなかった「たらし込み風」のシールが綺麗!

 レース編みも段々と早くなり、ムラなく編めるようになった。
 継続って大事だね!

 継続といえば、聖書”音”通読はやっとエゼキエル書が終わったのだけど、
 教会のFさん曰く「旧約はへブル語が分からないと難しい」らしい。
 そうなんだよねーーー、何を読んでいるのか全く分からないこともあって、
 設計図のような「~は○キュビト」と延々と書いてある箇所もあったり、
 ようやくそこを通り抜けた。
 ただ、この預言書のところは「私」「あなたがた」という人称が誰なのか、
 ときたま分からなくなることがあり、やっぱり難しいことには変わりない。
 でも、今年中に黙示録まで読み終えることができるペースでいっている。
 これも今年の元旦には途方もないと思ったけれど、継続は力なり。
 早くイエスさまのお話を読みたいなぁ~~。
 クリスマスに向かって行って、その話を読めるようになるので、
 季節的にはGoodだ!!

 聖書の言葉は「読む」のではなく「感じる」のだと、
 そのFさんが言っていた。
 私は祈っているとき、神さまの御声を聞くことがある。
 それは心が整えられて、静かな水面のように透明になっているときだ。
 新しい自分を見る。
 そしてこれから向かう未来の自分を感じる。
 連鎖祈祷も途切れないように・・
 自分の力ではなく、神さまが祈らせて下さっていると謙虚になる。
 全てを委ねよう。
 それが一番難しいことだと思うけれど、信仰とは幼い子供のように無垢になることだ。
 母親を慕う子供のように、私は御神を見上げて祈ろう。

 私にはいつまでも罪がある。
 でもH師は言ってくれた。
 それをイエスさまが赦されたんですよ・・・・と。

 

 

 くぅ

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もういい

2014-09-04 08:45:31 | よもやま

 私がこの事を書くのはこれが最初で最後にしたい。
 
 こんな言葉を浴びせられたことがあるだろうか。
 「毎日時間だけは有り余るほどあって、自分のことだけ、
  必死で考えていればいい生活をしていると、考え方が更に固執してしまうんだね。
  (中略)社会人としてしかるべき生活ができるように考えるほうがいいよ。」
 (原文のまま)
 私がうつ病で働いてもいないくせに・・・という意味だ。
 「しかるべき生活」とはなんだ?
 私が貧乏でイライラ過ごしているとでもいうのだろうか?
 この我が家の経済状況も全く知らないくせに!

 それをメールで突きつけられた。
 いままでの言い合いはこの言葉を考えるとたわいのないものだった。
 人には言って良いことといけないことがある。
 知人はその最後の一線を越えて、私の障害をまさに非難した。
 それをメールに書くことで相手がどれだけ傷付くか、
 自分も障害を持っていたら分かるはずなのに・・だ。

 そんなことを平気で言える人の神経が私には理解できない。
 障害を持っていても社会で働いている人は立派だと思う。
 でも、その人個人の事情というものもかならずあって、
 働きたくても働けないという人もいるのは事実だと思う。
 それを、良く知っている知人にこんなことまで言われて、
 これはうつ病を患っていると知っていながら、
 その相手にいくら腹が立っていても、最後まで言ってはいけないことだと思う。
 私が働けないことを非難するなんて最低だ。
 
 「怠けてないで働けよ!そんなやつの意見なんか聞かない」
 というものすごい上から目線の言葉だった。
 知人は障害を持って働いている。
 しかも人の何倍も努力したのだろう。
 それなのに、同じつらい状況の人の気持ちは全く理解しない。
 言葉の暴力で人を平気で傷つけ、自分は何も悪くないと思っている。
 自分は働いている、でもあなたはできないのねという嘲笑だ。

 同じ人間。
 本当に自分は一変の曇りもなく、神さまの前に正しいと言えるのか?
 いや、そんな人間はこの世の中にはいない。
 みんな何かしら罪を背負って生きているのに、
 「自分が絶対」「自分が正しい」「人がどれほど傷付いても平気」
 
 私には理解できない。
 もう親しく接する事もないし、話すこともない。
 傲慢に常に強い口調で自論を振りまいて、人の意見は全く聞かない。
 目上の人にも尊重する気持ちがなくてためぐちで話して、
 自分がどれだけ優れているか、どれだけがんばっているか、
 ただそれだけを主張して、人に優しく声をかけることもない。

 この人は優しくされたことがないんだろうか?
 私はこの人に優しい言葉をかけてもらった覚えがない。
 いつもきつい口調でたしなめられるか、
 意見を押しつけられるか、私を否定されるか、そんなことばかりだった。

 もう本当に我慢の限界がきて、この人とは付き合っていけない。
 もっと回りを見て欲しいし、社会人として最低限のマナーを守って欲しいし、
 年上の人を尊敬もして欲しいし、「謙虚」になって欲しい。
 そう謙虚だ。
 一番ふさわしい言葉は「謙虚さ」「へりくだり」だと思う。

 神さまの前にへりくだってその心を優しさに変えて欲しい。
 できるものならやって欲しい。
 でも、私はもう関わることはないだろう。
 たぶんそんなことを続けていれば、友人も人生の先輩も離れていく。
 年上の人に敬語も使えないのではね・・・・非常識極まりない。

 

 

 くぅ

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