かすみ【霞】
小学館『日本国語大辞典』第二版に、
かすみ【霞】【一】〔名〕(動詞「かすむ(霞)」の連用形の名詞化)(1)空気中に広がった微細な水滴やちりが原因で、空や遠景がぼんやりする現象。また、霧や煙がある高さにただよって、薄い帯のように見える現象。比喩的に、心の悩み、わだかまりなどをいうこともある。《季・春》*万葉集〔八C後〕二〇・四四三四「ひばり上る春へとさやになりぬれば都も見えず可須美(カスミ)たなびく〈大伴家持〉」*新訳華厳経音義私記〔七九四(延暦一三)〕「晨霞 音計以反 可須美」*源氏物語〔一〇〇一(長保三)~一四頃〕須磨「来(こ)し方の山はかすみはるかにて、まことに三千里のほかの心地するに」*寛永刊本江湖集鈔〔一六三三(寛永一〇)〕四「霞でも烟でも卒度した物のが掩へば見へぬぞ」*俳諧・曠野〔一六八九(元禄二)〕二・初春「行(ゆき)々て程のかはらぬ霞哉〈塵交〉」*唱歌・霞か雲か〔一八八三(明治一六)〕〈加部厳夫〉「かすみか雲か、はた雪か、とばかり 匂う、その花ざかり」(2)朝または夕方、雲や霧に日光があたって赤く見える現象。朝焼け。夕焼け。*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一「霞 唐韻云霞〈胡加反 和名 加須美〉赤気雲也」*和訓栞〔一七七七(安永六)~一八六二(文久二)〕「かすみ。霞をよめり。赤染(あかそめ)の義也。〈略〉全淅兵制に霞をやけと訳せしも亦此義也。俗に朝やけ夕やけなどいへり」(3)酒(さけ)の異称。*蔭凉軒日録‐延徳三年〔一四九一(延徳三)〕六月二七日「集二諸徒一進レ瓜。顕等喫レ雲飲レ霞又喫レ瓜」*俳諧・犬子集〔一六三三(寛永一〇)〕一・元日「年徳へ四方の霞や引出物〈良徳〉」*仮名草子・ねごと草〔一六六二(寛文二)〕上「あはれかすみを汲まんさかづきもがな」*俳諧・西鶴大句数〔一六七七(延宝五)〕五「霞を入るる徳利一対 今からも只暮(くら)そより山桜」*随筆・筠庭雑録〔一八三二(天保三)頃〕増補「むかし酒を霞といふこと、俳諧などに常の事也。〈略〉かすみとは明らかならぬ也。水の濁りて底徹せざるを、今もかすむといへり。濁酒にいふも是なり」(4)酒または酢などを温める時に出る湯気。*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)~〇四〕「サケノ casumiga(カスミガ)タツ」(5)(「翳」とも書く)視力が衰えてはっきり見えないこと。*俳諧・犬俤集〔一六一五~二二頃〕「年よりの眼よりたつ霞かな〈為春〉」(6)衣類などが、日に焼けて変色すること。*油地獄〔一八九一(明治二四)〕〈斎藤緑雨〉六「黒の太利(ふとり)とかいふ袢纏の、袖口の毛繻子に褐色(ちゃ)の霞(カスミ)が来て居るのを、商売柄外見(みえ)無しに引被(ひっか)け」(7)大和絵で時間的経過、場面の転換、空間の奥行きなどを示すために描かれる雲形の色面。多くは絵巻物に用いられた。(8)「かすみあみ(霞網)(1)」の略。*物類称呼〔一七七五(安永四)〕四「てんのあみ 小鳥を捕あみ也。関西四国にて、てんのあみと云。京にては、かすみといふ」(9)喫煙することをいう盗人仲間の隠語。〔隠語構成様式并其語集{一九三五(昭和一〇)}〕【二】「かすみがせき(霞が関)」の略。*雑俳・柳多留-一三〔一七七八(安永七)〕「小百万石もかすみの中に見え」*雑俳・柳筥〔一七八三(天明三)~八六〕一「霞からのぞけば下につなぎ馬」【語誌】古く「かすみ」と「きり」が同様の現象を表わし、季節にも関係なく用いられたことは、『万葉集』巻二・八八の「秋の田の穂の上(へ)に霧相(きらふ)朝霞」などの例で知られるが、『万葉集』でも、「かすみ」は春、「きり」は秋のものとする傾向が見えており、『古今集』以後は、はっきり使い分けるようになっている。現在の気象学では、視程が一キロ以下のときは「霧」としている。また、「かすみ」を術語としては用いず、「もや」「煙霧」という。【方言】鳥を捕獲する時に張る網の一種。かすみ網。《かすみ》栃木県安蘇郡208広島県771山口県豊浦郡798【語源説】(1)「カスカ」に見える義から〔和句解・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解〕。(2)「カス」は明瞭でない意を表わす語根〔箋注和名抄〕。(3)「カ」は「カ(気)」から。気がたつこと〔国語溯原=大矢透〕。(4)「ケスミ(気進)」の転〔言元梯〕。(5)「ケウスミル(気薄見)」の義〔日本語原学=林甕臣〕。(6)「カ」は発声、「スミ」は染で、俗にいう朝やけ、夕やけのこと〔俚言集覧〕。(7)「カスミ(赤彩)」から〔東雅〕。 また、「アカソメ」・「アカソミ(赤染)」から〔名言通・和訓栞〕。(8)赤曇りの義から。「カ」は「アカ」の略、「ス」は「ク」に通い、「ミ」は「モリ」の反〔冠辞考〕。「スミ」はくもるの古語〔類聚名物考〕。(9)「カスミ(香染)」の義〔紫門和語類集〕。(10)峰にかかって山の稜線を染めることから「カカリ染メル」の義〔桑家漢語抄〕。【発音】〈標ア〉[0]〈ア史〉平安来●●●〈京ア〉[0]【上代特殊仮名遣い】カスミ(※青色は甲類に属し、赤色は乙類に属する。)【辞書】和名・色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【霞】和名・色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海【窔】名義
とあって、和語「かすみ」に漢字として【霞】字、字音「カ」を宛てる。
だが、漢籍詩文にみる「霞」字は「朝焼け」「夕焼け」の景をいう。訓読資料として『新訳華厳経音義私記〕〔七九四(延暦一三)年「晨霞 音計以反 可須美」』の語例を採録していて、標記語「晨霞」に、真名体漢字表記「可須美」を示す。
『万葉集』に「霞」字は、74語を載せ、単に「かすみ」とするのは、三例に過ぎない。あとは「あさがすみ」8語、「かすみかくれ」1語、「かすみたつ」15語「かすみたなびき」6語、「かすみたなびく」16語、「たつかすみ」2語、「たなびくかすみ」1語、「はるがすみ」16語、「はるがすみたつ」2語として見えている。此とは別に真字体漢字「可須美―」の九例をみる。歌として72語、詞書きに「烟霞」2語。万葉歌人は「霞」字をすべて「かすみ」の意として訓むことがうかがわれる。『古事記』には中巻に「霞壯夫(カスミヲトコ)」の語を見る。
茲で、「かすみたつ【霞立】」と「たつかすみ【立霞】」の相異に着目する。言わば「たはた【田畠】」と「はただ【畑田】」と逆位する語とも関わることになる。その「立霞」は二例と少ない。
巻十1912番と1913番の二首(訳=新潮日本古典集成で示す)
○この私の住む村里の山の上に立ちこめる霞ではないが、立つのも坐るのも、すべてあなたのお心のままです。
○遠く見わたすと、春日の野辺に霞が立ちこめているが、この眺めのように、いつもいつも見たくてならないあなたのお姿です。(春日の野辺に立ちこめている霞は、まことに見事、『万葉集釈注』)
とあって、「霞立つ」との差異を考えねばなるまい。その意味から1913の訳は如何なものかと疑問を生じる。
さて、室町時代の広本『節用集』加部の、
○霞(カスミ)[平]カ 國花合紀 交徒命〈カスミ〉異名。引素。/碧靄。九苑。正陽。仙佩。〔加部天地門二五四頁1〕
であり、この語注記からは本邦の和歌に見える春のかすみの光景にはどうも結びつかない。東麓破衲編『下學集』になぜ未収載なのかを鑑みるとき、大陸の「【霞】カ」=赤い氣の色と本邦の「かすみ【霞】」とのギャップを見ておくことにほかならない。万葉の歌にその原風景を見る思いである。
当該語 | よみ |
朝霞 | あさがすみ |
霞 | かすみ |
霞隠 | かすみかくれ |
霞立 | かすみたつ |
霞蒙 | かすみたなびき |
霞被 | かすみたなびき |
霞多奈婢伎 | かすみたなびき |
霞多奈妣伎 | かすみたなびき |
霞多奈毘伎 | かすみたなびき |
霞多奈妣伎 | かすみたなびき |
霞多奈引 | かすみたなびく |
霞田名引 | かすみたなびく |
霞多奈婢久 | かすみたなびく |
霞棚引 | かすみたなびく |
霞霏霺 | かすみたなびく |
霞多奈引 | かすみたなびく |
霞田菜引 | かすみたなびく |
霞軽引 | かすみたなびく |
霞棚引 | かすみたなびく |
霞多奈妣久 | かすみたなびく |
霞多奈婢久 | かすみたなびく |
立霞 | たつかすみ |
多奈引霞 | たなびくかすみ |
春霞 | はるがすみ |
春霞立 | はるがすみたつ |
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