武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

036. 滞在許可証 AUTORIZAÇÃO DE RESIDÊNCIA

2018-10-30 | 独言(ひとりごと)

 2ヶ月半の日本滞在を終えてポルトガルの我が家に戻って来ると、先ず玄関にある郵便受けの片付けをしなければならない。

 ぎっしりと紙が詰っているのだ。

 

 最近はインターネットをしているせいか、友人知人からの手紙は少ない。

 それに帰国していることは、そういった人には知れ渡っていて、その間に手紙をくれる人もいない。

 

 ぎっしり詰っている紙は、主に電気、水道、ガス、電話の使用量のお知らせ。自動車倶楽部の機関誌、ピッツアや旅行、スーパーの広告、それにセトゥーバルの無料の新聞などである。

 それが、これでもかというくらいにぎっしりと詰って固まりあっている。

 郵便受けから取り出すと、スーパーのレジ袋一杯にもなる。

 

 そんな中にしわくちゃに折れ曲がった「滞在延長許可受け取り」ハガキが混ざっていた。

 この1月10日に申請していたものが、ようやく許可が下りたのだ。

 

 ポルトガルの滞在許可は面倒なものだ。

 

 日本人ならヨーロッパの国では3ヶ月間までは旅行者として滞在はできる。

 それ以上になると何らかのかたちで滞在許可を取らなくてはならない。

 

 僕はかつてはスウェーデンやアメリカでも滞在許可を貰っていた。

 スウェーデンでは学校に行って、学生として滞在許可を延長していた。

 初めは3ヶ月ごとの延長がやがて6ヶ月になり、1年になりといった具合でその都度、警察本部のその窓口に行き面接をするわけである。

 学校に通っていたから滞在理由もはっきりしていたので、大して面倒なものでもなかった。

 

 アメリカではアルバイト先の雇い主が保証人になって弁護士の事務所に連れて行ってくれた。

 その同じビルの中に健康診断の診療所もあり、一つのビルの中で全て事が足りた。

 それ相応のお金を払えばやがて1年分の労働許可(H2)が貰えた。

 それで4年までは延長可能とのことであった。

 合理的で、さすがアメリカはマネー次第の国だとも感じた。

 

 その点ポルトガルは面倒である。

 いや、以前に比べるとどこの国でも、複雑で面倒になってきているのかも知れない。

 

 住み始めて初めの頃はその「旅行者の3ヶ月」を利用して国外に旅行をしていた。

 旅好きの僕にはいやでも3ヶ月ごとに旅が出来る訳だから好都合であった。

 少しでも国境を超えて戻ってくるとそれからまた3ヶ月が始まるという考えだ。

 おかげでスペインのセビリアやパリなどにはたびたび出かけて楽しんでいた。

 

 でもいつまでもそういうわけにもいかなくなった。

 EUが一緒になって国境がなくなる、という話も出てきていた。

 スペインやフランスではもはや国外に出た事にはならなくなる。

 その都度、3ヶ月ごとにモロッコまで行くか、日本に帰るかというはなしになってくる。

 それで遅ればせながら滞在許可申請をしたのである。

 住み始めて4年くらいは経っていたかも知れない。

 

 もう既に住みはじめていたから申請はなおさら面倒であった。

 日本に帰国した折にわざわざ東京のポルトガル大使館まで出向いた。

 許可が下りるまでは1年近くもかかるらしい。

 その間、日本にずーっと居る事が出来るわけがない。

 セトゥーバルの留守宅はそのままで、描きかけの絵も放置したまま。

 最初の許可はポルトガル国内では貰えないとのことで、最寄の外国である、スペインのセビリアの領事館で貰う手続きをしておいて、許可が下りるやそこまで貰いに行った。

 

 それからはセトゥーバルの外国人登録事務所(SERVIÇO DE ESTRANGEIROS E FRONTEIRAS)で1年に1回、毎年の延長申請である。

 その都度、無犯罪証明書や銀行の残高証明書など必要書類を集めなくてはならないのである。

 

 (必要書類は「ポルトガルのえんとつ-滞在許可を延長しなくちゃ」のなかに詳しく掲載されています。)

 

 やがて、許可は2年間になり少しは楽になったかと思ったが、その2年に一度といえども大変さはむしろ増していた。

 セトゥーバルの外国人登録事務所にはアフリカからの黒人たちで溢れかえるようになって、座る椅子も少なく立ったままで、しかも狭い中で長時間待たされるのは大変な苦労である。

 申請書類を提出する時と、申請が下りて受け取る時の2回である。

 

 受け取る時にはある程度の料金を支払う。

 今回のハガキに書かれている料金はいやに高いな、と思っていた。

 日本人はお金持ちだから、取れるところから取ってしまおう。

 との考えでぼられているのではないのだろうか?

 「ここは一つ文句を言ってやろうか?」とMUZは怒っている。

 

 日本から戻ってきて2日後にその事務所に出かけた。

 朝一番は混むので以前なら空いていた昼すぎに出かけたが、やはり満員であった。

 番号札は30番以上も先だ。

 黒人たちは受付の人とのやりとりを喋りに喋りまくっている。

 受付の女性もけんか腰のやりとりだ。

 あれではお互いストレスがたまって大変だろうと思う。

 とにかく書類が揃っていないのだろう。

 僕たちも最初のころはああだった。

 

 待合室内は黒人たちでごったがえしていたのでベランダに出た。

 生ぬるいけれど風が吹いていて気持が良い。

 市の中心にあるサン・ジュリアン教会が間近に見える。

 そしてその前に広がる古い赤瓦が美しい。

 すぐにアフリカ、カーボ・ヴェルデからの子供もベランダに出てきた。と思えば出たり入ったりと落ち着かなく一時もじっとしていない。

 小学校高学年くらいの少し大きさの違うそっくりな兄弟が入れ替わりたち代わり。 子供にとっては窮屈で退屈でしかたのないことであろう。

 両親は待合室で他の人に聞きながら書類に書き込みをしている最中だ。

 書き込みに一段落が終わったのか、親父も出てきて、ひょいとベランダの手すりに腰をかけたのには驚いた。

 けっこう高い手すりだから、バランスを崩して一歩間違えば12メートル程もある下の石畳までまっさかさまだ。

 僕は見ているだけで足元がゾワゾワしてきた。

 なにしろこのベランダより低いところに鳩が卵を温めているのを覗き見えるくらいの高さなのだから。

 

 番号札を取ってから待つこと2時間半、ようやく自分の番がまわって来た。

 僕たちは既に手馴れたもので「お願いします」とだけ言って、あとは無言でそのしわくちゃになったハガキを差し出した。

 もうすっかり顔なじみになった受付の女性も笑顔と無言で僕たちの許可証を探し出すのみだ。

 許可証を探し出したら、受け取りにサインをして、指紋を取られる。

 そして料金を支払う。

 指にべっとりと付いた墨を、手渡されたウエットティッシュでぬぐいながら、許可証に書かれた期限をみると、これまでの2年ではなく、なんと5年間になっていた。

 料金は高いはずで5年分であったのだ。

 

 せっかくだから、少なくともあと5年はポルトガルに住まなくてはならないだろう。

VIT

 

(この文は2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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