石川士郎「伊予今村家物語」では、今村祇太夫の家譜に続けて、別子銅山開坑の経緯を、藤枝家文書をもとに、推論している。この文書の内容を調べたので記す。1)
藤枝家文書:大永2年(1522)藤枝四郎重純(ふじえだしろうしげずみ 医名 玄瑞)が紀州から柏村に移住し、医師を開業して以来、毎年日記を書き続けてきたが、文政年間に一部が紛失した。そこで、藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた。以後下柏村庄屋である藤枝家の歴代当主がこれを引き継ぎ、安政2年(1855)まで書き続けた、地域の歴史の記録である。
筆者はこの文書の電子コピー本を四国中央市歴史考古博物館で見せて頂いた。電子コピーは、伊予三島市史編纂に当たって撮られたもののようであった。銅山に関する記述に絞って内容を検討した。
藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録
貞享2丑年(1685)8月 御代官御交代後藤覚左衛門*御初入り、御手代中野長左衛門、宮川安左衛門、下手代赤木与左衛門
貞享3寅年(1686)御代官御手代佐藤守右衛門、黒川常左衛門、岡崎三左衛門、塚口喜兵衛入也
A 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み銅山にて材木山仕成方候事
貞享3寅年(1686)同3月三嶋郷蔵痛に付き立替、寿(?)田荒神宮破損取繕
貞享4卯年(1687)5月 上之丁と水論御座候に付、下来りし囲水済口**一札有
B 別子山銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、尤立川之銅山30年も前より
元禄4未年(1691)5月 御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入
元禄4未年(1691)8月 大風吹
C 銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、立川口は銅山は30年前に有て候
*代官、手代の名が、正確に書かれ読み取れているかは疑問である。例:本文書⇔ほかの文書 覚左衛門⇔覚右衛門 安左衛門⇔安右衛門 三左衛門⇔三右衛門
**済口:すみくち 江戸時代の民事裁判手続(出入筋(でいりすじ))において,和解(内済(ないさい))が成立すること。
考察
1. 本文書には、余白が多い。あとから書き加えられるので、記録としての信頼性が低くなる。後世に正確に伝える記録文書としては、字間、行間の余白がある書き方は不適当である。後で、行間の余白に書き込まれても判別し難いからである。
2. 銅山に関する記述は、A,B,Cの3ヵ所である。
(1)Aの直前の行末の字句は、筆者は「入也」と読んだ。石川士郎は「入込」と読んで、次行の銅山への「入込」と関連があると考えたようである。しかし字は「也」であり、この行は、次行の銅山とは関係なく、単に手代4人が着任したことを書いているにすぎない。その傍証として全員フルネームで記している。
(2)A,B,Cは、後から余白に書き加えられた文であると筆者は結論した。
その根拠は以下の通りである。
① 筆跡が違う。本体は太い線と細い線がはっきりして先の尖った字であるが、A,B,Cは軟らかく滑らかな中細の字である。墨の付き具合が違う。書き手が違うかもしれない。
② B,Cは本体の墨よりうすい。特にBは非常にうすく、電子コピーの濃さを濃くしてコピーした紙をその左行に張り付けてB´としている。
③ B,Cの「(別子山)銅山始て大坂屋久左衛門の仕込み、尤も立川銅山は30年前よりあるが」は、貞享4年と元禄4年の2ヵ所に書かれている。しかし石川士郎はBのみを取り上げ論を組み立てており、Cを無視している。
(3)A,B,Cの内容は意味するところがあいまいで信用できない。
① 元禄4年のCは始めて仕込むのが泉屋であるなら解るが、大坂屋になっている。
② A「貞享3年 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み材木山仕成方候事」は、大事な銅山の場所や名が記されておらず、医師の書いた文としては、抜けが大きすぎる。この時期の宇摩天領の銅山開発であれば、「元禄2年大坂屋開坑」の佐々連鉱山の可能性があるが、何とも言えない。
(4)本文書は、「藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた」とある。この時、本文を一人で書き写し、そのあとA,B,C が書き込まれたのではないかと推測する。書き込んだのは、1823年以降ではないか。
結論として、本文書の銅山に関する記述A,B,C 3ヶ所は意味するところがあいまいで、信用できない。
3. 川之江代官の交代時期が書かれているが、この時期が正しいのか疑問がある。この文書では、元禄4年5月に、「御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入」とある。
一方、後藤覚右衛門は、元禄5年6月頃に平岡吉左衛門と替わったとされている。2) その根拠としては以下のものがある。
① 「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈未年御運上目録」3)
・銅5,122貫900目 出来銅辻 ---
・炭竈22口---
右の銅、未閏8月朔日分掘掛り、10月12日より同極月晦日迄焼吹仕---
元禄5年申正月 泉屋吉左衛門
後藤覚右衛門様
前書之通私共吟味仕、相違無御座候、以上
河野又兵衛印
沢田新助印
「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈申年御運上目録」
・銅9万5404貫700目 出来銅辻----
・炭竈452口----
元禄6年酉正月
平岡吉左衛門様
右之通相改、少も相違無御座候、以上
河野又兵衛
沢田新助
この二つの目録日付より、元禄5年中に両人の交替があったことがわかる。
②後藤覚右衛門は川之江代官と備中川上郡(吉岡銅山)代官を兼務していた。「備中川上郡吹屋村御山用控」収録の貞享2年9月付吉岡銅山制札の署名後藤覚右衛門のところに「元禄5年申6月平岡吉左衛門様と書直す」と記されていることから、その交替が元禄5年6月頃であったことが知られる。
③Web竹島問題研究所の杉原通信第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」の記述によれば、元禄5年8月が交替の時であることがわかる。4)元禄~享保5年は、隠岐は幕府の直轄地として、石見銀山代官が支配した。
根拠となる古文書は以下の通りである。
「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年)
「元禄5申年8月由比長兵衛様御代り、後藤覚右衛門様御支配、為御検見、稲塚平兵衛殿、中瀬団右衛門殿、丸斗九右衛門殿御渡、両島御立見御仕舞、石州へ御帰帆、
御在番 島後 三好平左衛門殿 (郡代)
田辺甚九郎殿 (郡代を補佐する代官)
島前 中瀬弾右衛門殿 (郡代を補佐する代官)」
以上のことより、後藤覚右衛門が、石見銀山代官に転出したのは、元禄5年6~8月であると結論される。
次の川之江代官平岡吉左衛門の手代林彦八郎が、代官任命の1年も前に、現地に入るということが、当時ではあり得ることだったのであろうか。辞令の出る1年も前に任地が決まって、現地に手代を行かせるのが慣行だったのか。筆者は、文書を整理し書き写す時に、年を間違えたのではないかと思うのであるが、どうであろうか。
まとめ
藤枝家文書・貞享元禄期の銅山開発の書き込みは、信用できない。
注 引用文献
1. 藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録 原本は伊予三島市下柏町藤枝喜一氏蔵 四国中央市の指定文化財(昭和37年)である。電子コピー本は、四国中央市歴史考古博物館にありそこで見せて頂きました。お礼申し上げます。
2. 住友修史室「泉屋叢考」第13輯p33 p40(昭和42年 1967)
3. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p9(思文閣 昭和62年 1987)
4. Web竹島問題研究所>杉原通信>第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」
国会図書館デジタルコレクション個人送信「新修島根県史.史料篇第2(近世上)」p267
原典「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年 海士郡海士村海士 村上重子所蔵)
島根県総務部総務課竹島資料室様に教えて頂きました。お礼申し上げます。
写1. 藤枝家文書 貞享元年~3年の部分
写2. 藤枝家文書 貞享3年~5年の部分
写3. 藤枝家文書 元禄3年~4年の部分
写4. 藤枝家文書 貞享2年~元禄4年の銅山関連部分
藤枝家文書:大永2年(1522)藤枝四郎重純(ふじえだしろうしげずみ 医名 玄瑞)が紀州から柏村に移住し、医師を開業して以来、毎年日記を書き続けてきたが、文政年間に一部が紛失した。そこで、藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた。以後下柏村庄屋である藤枝家の歴代当主がこれを引き継ぎ、安政2年(1855)まで書き続けた、地域の歴史の記録である。
筆者はこの文書の電子コピー本を四国中央市歴史考古博物館で見せて頂いた。電子コピーは、伊予三島市史編纂に当たって撮られたもののようであった。銅山に関する記述に絞って内容を検討した。
藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録
貞享2丑年(1685)8月 御代官御交代後藤覚左衛門*御初入り、御手代中野長左衛門、宮川安左衛門、下手代赤木与左衛門
貞享3寅年(1686)御代官御手代佐藤守右衛門、黒川常左衛門、岡崎三左衛門、塚口喜兵衛入也
A 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み銅山にて材木山仕成方候事
貞享3寅年(1686)同3月三嶋郷蔵痛に付き立替、寿(?)田荒神宮破損取繕
貞享4卯年(1687)5月 上之丁と水論御座候に付、下来りし囲水済口**一札有
B 別子山銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、尤立川之銅山30年も前より
元禄4未年(1691)5月 御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入
元禄4未年(1691)8月 大風吹
C 銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、立川口は銅山は30年前に有て候
*代官、手代の名が、正確に書かれ読み取れているかは疑問である。例:本文書⇔ほかの文書 覚左衛門⇔覚右衛門 安左衛門⇔安右衛門 三左衛門⇔三右衛門
**済口:すみくち 江戸時代の民事裁判手続(出入筋(でいりすじ))において,和解(内済(ないさい))が成立すること。
考察
1. 本文書には、余白が多い。あとから書き加えられるので、記録としての信頼性が低くなる。後世に正確に伝える記録文書としては、字間、行間の余白がある書き方は不適当である。後で、行間の余白に書き込まれても判別し難いからである。
2. 銅山に関する記述は、A,B,Cの3ヵ所である。
(1)Aの直前の行末の字句は、筆者は「入也」と読んだ。石川士郎は「入込」と読んで、次行の銅山への「入込」と関連があると考えたようである。しかし字は「也」であり、この行は、次行の銅山とは関係なく、単に手代4人が着任したことを書いているにすぎない。その傍証として全員フルネームで記している。
(2)A,B,Cは、後から余白に書き加えられた文であると筆者は結論した。
その根拠は以下の通りである。
① 筆跡が違う。本体は太い線と細い線がはっきりして先の尖った字であるが、A,B,Cは軟らかく滑らかな中細の字である。墨の付き具合が違う。書き手が違うかもしれない。
② B,Cは本体の墨よりうすい。特にBは非常にうすく、電子コピーの濃さを濃くしてコピーした紙をその左行に張り付けてB´としている。
③ B,Cの「(別子山)銅山始て大坂屋久左衛門の仕込み、尤も立川銅山は30年前よりあるが」は、貞享4年と元禄4年の2ヵ所に書かれている。しかし石川士郎はBのみを取り上げ論を組み立てており、Cを無視している。
(3)A,B,Cの内容は意味するところがあいまいで信用できない。
① 元禄4年のCは始めて仕込むのが泉屋であるなら解るが、大坂屋になっている。
② A「貞享3年 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み材木山仕成方候事」は、大事な銅山の場所や名が記されておらず、医師の書いた文としては、抜けが大きすぎる。この時期の宇摩天領の銅山開発であれば、「元禄2年大坂屋開坑」の佐々連鉱山の可能性があるが、何とも言えない。
(4)本文書は、「藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた」とある。この時、本文を一人で書き写し、そのあとA,B,C が書き込まれたのではないかと推測する。書き込んだのは、1823年以降ではないか。
結論として、本文書の銅山に関する記述A,B,C 3ヶ所は意味するところがあいまいで、信用できない。
3. 川之江代官の交代時期が書かれているが、この時期が正しいのか疑問がある。この文書では、元禄4年5月に、「御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入」とある。
一方、後藤覚右衛門は、元禄5年6月頃に平岡吉左衛門と替わったとされている。2) その根拠としては以下のものがある。
① 「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈未年御運上目録」3)
・銅5,122貫900目 出来銅辻 ---
・炭竈22口---
右の銅、未閏8月朔日分掘掛り、10月12日より同極月晦日迄焼吹仕---
元禄5年申正月 泉屋吉左衛門
後藤覚右衛門様
前書之通私共吟味仕、相違無御座候、以上
河野又兵衛印
沢田新助印
「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈申年御運上目録」
・銅9万5404貫700目 出来銅辻----
・炭竈452口----
元禄6年酉正月
平岡吉左衛門様
右之通相改、少も相違無御座候、以上
河野又兵衛
沢田新助
この二つの目録日付より、元禄5年中に両人の交替があったことがわかる。
②後藤覚右衛門は川之江代官と備中川上郡(吉岡銅山)代官を兼務していた。「備中川上郡吹屋村御山用控」収録の貞享2年9月付吉岡銅山制札の署名後藤覚右衛門のところに「元禄5年申6月平岡吉左衛門様と書直す」と記されていることから、その交替が元禄5年6月頃であったことが知られる。
③Web竹島問題研究所の杉原通信第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」の記述によれば、元禄5年8月が交替の時であることがわかる。4)元禄~享保5年は、隠岐は幕府の直轄地として、石見銀山代官が支配した。
根拠となる古文書は以下の通りである。
「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年)
「元禄5申年8月由比長兵衛様御代り、後藤覚右衛門様御支配、為御検見、稲塚平兵衛殿、中瀬団右衛門殿、丸斗九右衛門殿御渡、両島御立見御仕舞、石州へ御帰帆、
御在番 島後 三好平左衛門殿 (郡代)
田辺甚九郎殿 (郡代を補佐する代官)
島前 中瀬弾右衛門殿 (郡代を補佐する代官)」
以上のことより、後藤覚右衛門が、石見銀山代官に転出したのは、元禄5年6~8月であると結論される。
次の川之江代官平岡吉左衛門の手代林彦八郎が、代官任命の1年も前に、現地に入るということが、当時ではあり得ることだったのであろうか。辞令の出る1年も前に任地が決まって、現地に手代を行かせるのが慣行だったのか。筆者は、文書を整理し書き写す時に、年を間違えたのではないかと思うのであるが、どうであろうか。
まとめ
藤枝家文書・貞享元禄期の銅山開発の書き込みは、信用できない。
注 引用文献
1. 藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録 原本は伊予三島市下柏町藤枝喜一氏蔵 四国中央市の指定文化財(昭和37年)である。電子コピー本は、四国中央市歴史考古博物館にありそこで見せて頂きました。お礼申し上げます。
2. 住友修史室「泉屋叢考」第13輯p33 p40(昭和42年 1967)
3. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p9(思文閣 昭和62年 1987)
4. Web竹島問題研究所>杉原通信>第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」
国会図書館デジタルコレクション個人送信「新修島根県史.史料篇第2(近世上)」p267
原典「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年 海士郡海士村海士 村上重子所蔵)
島根県総務部総務課竹島資料室様に教えて頂きました。お礼申し上げます。
写1. 藤枝家文書 貞享元年~3年の部分
写2. 藤枝家文書 貞享3年~5年の部分
写3. 藤枝家文書 元禄3年~4年の部分
写4. 藤枝家文書 貞享2年~元禄4年の銅山関連部分
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