「天満・天神学問の里巡り」17番には、郷土史家岡本圭二郎の以下の記述がある。
天満浦の船着場には口屋(濱宿)や倉庫(蔵)が建っていた。銅山の請負人は泉屋(住友)であるが、この支配は川之江代官所に属するものであった関係から、下天満の天領分大庄屋寺尾家は、代官所より荷役受け渡しなどに関する取り扱い権利を委譲され、船着場での采配を振るっていた。船着場の口屋では銅山用の食料米を荷役して別子荷送り、別子の粗銅をここから船積みにして大坂へ輸送していた。300有余年を経た現在では、その址は空しくよすがもないが、字地名「蔵ノ東(くらのひがし)」と呼ばれているのは、往時の船着場にあった「蔵」の名残だと伝わっている。
筆者としては、海岸沿いの船着場に口屋(元禄にこう呼ばれていたかは問題、また口屋の機能についてはいずれ論じたい)や粗銅蔵が建っていたとは、考えにくい。なぜなら泉屋の出店(でみせ)が八雲神社の近くにあったので、それらは、出店の脇にあったと推理する。代官所役人の立場と合理的な物流を考えれば隣にあるのが最も都合がよいからである。
字「蔵ノ東」の地名があることから「蔵」があったことは、間違いない。ではその「蔵」は何を貯蔵したのか、どこにあったのかに焦点を絞って、今回は検討したい。
1. 宇摩郡地図(1884)→写1
この地図より、字「蔵ノ東」の地区は、千々ノ木(ちちのき)川の東をほぼ真っ直ぐ北上して海岸に出る道(海岸道の表示)の東側に位置する。大庄屋寺尾家屋敷を含み千々ノ木川河口を囲んだ地区は、字「橋の川」である。よって、字「橋の川」地区で、千々ノ木川河口の東側に「蔵」はあったことになる。
また、粗銅は千々ノ木川より西側の海岸から出荷されたと推定されることから、東側には、粗銅蔵は置かれるはずがない。
2. 「西条藩領内図八折屏風」(元禄7年(1694))→天満村寺尾九兵衛(6)の写1
「千々の木川」の河口が広かったことが分る。すなわち弧の西側は大きく開いており、河口は100m程度あったと思われる(河口湾)。
天正13年(1585)の毛利水軍の四国攻めの上陸地点の一つとなったのではないか。
3. ゼンリン住宅地図(1986)→写2
千々ノ木川は、海に出る前に大きく弧を描いていることが分る。
4. Google Earth(2024)→写3
古い道、古い川筋、汐溜堀などの址などが、Google Earth写真で見つけやすいことがわかった。
ゼンリン住宅地図と同じ色で位置を書き込んだ。
5. 土居町誌(1984)
「1650年 天領分の上納米、上納銀は天満村の御蔵に納入し、大庄屋寺尾家がその役儀を兼ねていた。」
その根拠は書かれていない。
御蔵(おくら)は幕府が建てた蔵であり、その管理が大庄屋寺尾九兵衛に委託されたことは頷ける。
古文書における大庄屋寺尾九兵衛の初出は1666年であるので、年代的にも妥当である。二代九兵衛貞清ないし三代九兵衛成清の時代に相当する。
結論として、「蔵」は、「御蔵」を指し、別子銅山開坑より少なくとも40余年以前から存在した。「蔵」は別子銅山の粗銅蔵や口屋とは、直接的な関係はなかった。
では御蔵はどこにあったのであろうか。筆者は、御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。管理上、大庄屋寺尾九兵衛屋敷に近いことが好ましく、土地がしっかりしていることが重要である。当時の海岸は今より引いていたと地図上から推定されるので、上記の場所を第一候補として挙げた。この御蔵は幕末まで存在したはずであるから、その位置は、口伝により比較的容易に見付けられるだろう。
6. 以上の事をわかりやすくするために、ゼンリン住宅地図に書き込んだ。
① 字蔵ノ東 緑色
② 大庄屋寺尾九兵衛屋敷 赤色
③ 御蔵(推定) 黄色
④ 元禄には広かった千々ノ木川河口 青色
⑤ 筆者の推定する粗銅の道 赤色線 これについてはいずれまとめて記したい。
まとめ
1. 字「蔵ノ東」の蔵は、御蔵(おくら)のことであり、幕領の年貢米を貯蔵するものであった。
2. この御蔵の管理を大庄屋寺尾九兵衛が川之江代官所より慶安(1650)頃には委託されていた。
3. 「蔵」の名の存在は、別子銅山とは無関係であり、その近くに粗銅蔵や口屋の存在を示唆しない。
4. 御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。
注 引用文献
1. 「宇摩郡地図 地誌付」web.愛媛県立図書館デジタルアーカイブ →写1
地図の凡例脇に、「愛媛県令関新平 県主任七等属宮脇通赫」の名が記されていることより製作されたのは、明治17年と筆者は推定した。
2. 天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村(2024-07-28 )
3. 「土居町誌」p854(1984)
第八編 年表(執筆担当者 真鍋充親)真鍋充親は郷土史家。
写1 宇摩郡地図(明治17年 1884)
写2 ゼンリン住宅地図(1986)
写3 Google Earth (2024)
天満浦の船着場には口屋(濱宿)や倉庫(蔵)が建っていた。銅山の請負人は泉屋(住友)であるが、この支配は川之江代官所に属するものであった関係から、下天満の天領分大庄屋寺尾家は、代官所より荷役受け渡しなどに関する取り扱い権利を委譲され、船着場での采配を振るっていた。船着場の口屋では銅山用の食料米を荷役して別子荷送り、別子の粗銅をここから船積みにして大坂へ輸送していた。300有余年を経た現在では、その址は空しくよすがもないが、字地名「蔵ノ東(くらのひがし)」と呼ばれているのは、往時の船着場にあった「蔵」の名残だと伝わっている。
筆者としては、海岸沿いの船着場に口屋(元禄にこう呼ばれていたかは問題、また口屋の機能についてはいずれ論じたい)や粗銅蔵が建っていたとは、考えにくい。なぜなら泉屋の出店(でみせ)が八雲神社の近くにあったので、それらは、出店の脇にあったと推理する。代官所役人の立場と合理的な物流を考えれば隣にあるのが最も都合がよいからである。
字「蔵ノ東」の地名があることから「蔵」があったことは、間違いない。ではその「蔵」は何を貯蔵したのか、どこにあったのかに焦点を絞って、今回は検討したい。
1. 宇摩郡地図(1884)→写1
この地図より、字「蔵ノ東」の地区は、千々ノ木(ちちのき)川の東をほぼ真っ直ぐ北上して海岸に出る道(海岸道の表示)の東側に位置する。大庄屋寺尾家屋敷を含み千々ノ木川河口を囲んだ地区は、字「橋の川」である。よって、字「橋の川」地区で、千々ノ木川河口の東側に「蔵」はあったことになる。
また、粗銅は千々ノ木川より西側の海岸から出荷されたと推定されることから、東側には、粗銅蔵は置かれるはずがない。
2. 「西条藩領内図八折屏風」(元禄7年(1694))→天満村寺尾九兵衛(6)の写1
「千々の木川」の河口が広かったことが分る。すなわち弧の西側は大きく開いており、河口は100m程度あったと思われる(河口湾)。
天正13年(1585)の毛利水軍の四国攻めの上陸地点の一つとなったのではないか。
3. ゼンリン住宅地図(1986)→写2
千々ノ木川は、海に出る前に大きく弧を描いていることが分る。
4. Google Earth(2024)→写3
古い道、古い川筋、汐溜堀などの址などが、Google Earth写真で見つけやすいことがわかった。
ゼンリン住宅地図と同じ色で位置を書き込んだ。
5. 土居町誌(1984)
「1650年 天領分の上納米、上納銀は天満村の御蔵に納入し、大庄屋寺尾家がその役儀を兼ねていた。」
その根拠は書かれていない。
御蔵(おくら)は幕府が建てた蔵であり、その管理が大庄屋寺尾九兵衛に委託されたことは頷ける。
古文書における大庄屋寺尾九兵衛の初出は1666年であるので、年代的にも妥当である。二代九兵衛貞清ないし三代九兵衛成清の時代に相当する。
結論として、「蔵」は、「御蔵」を指し、別子銅山開坑より少なくとも40余年以前から存在した。「蔵」は別子銅山の粗銅蔵や口屋とは、直接的な関係はなかった。
では御蔵はどこにあったのであろうか。筆者は、御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。管理上、大庄屋寺尾九兵衛屋敷に近いことが好ましく、土地がしっかりしていることが重要である。当時の海岸は今より引いていたと地図上から推定されるので、上記の場所を第一候補として挙げた。この御蔵は幕末まで存在したはずであるから、その位置は、口伝により比較的容易に見付けられるだろう。
6. 以上の事をわかりやすくするために、ゼンリン住宅地図に書き込んだ。
① 字蔵ノ東 緑色
② 大庄屋寺尾九兵衛屋敷 赤色
③ 御蔵(推定) 黄色
④ 元禄には広かった千々ノ木川河口 青色
⑤ 筆者の推定する粗銅の道 赤色線 これについてはいずれまとめて記したい。
まとめ
1. 字「蔵ノ東」の蔵は、御蔵(おくら)のことであり、幕領の年貢米を貯蔵するものであった。
2. この御蔵の管理を大庄屋寺尾九兵衛が川之江代官所より慶安(1650)頃には委託されていた。
3. 「蔵」の名の存在は、別子銅山とは無関係であり、その近くに粗銅蔵や口屋の存在を示唆しない。
4. 御蔵は、千々ノ木川の大きく広がった河口の東側奥付近のあったと推定する。
注 引用文献
1. 「宇摩郡地図 地誌付」web.愛媛県立図書館デジタルアーカイブ →写1
地図の凡例脇に、「愛媛県令関新平 県主任七等属宮脇通赫」の名が記されていることより製作されたのは、明治17年と筆者は推定した。
2. 天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村(2024-07-28 )
3. 「土居町誌」p854(1984)
第八編 年表(執筆担当者 真鍋充親)真鍋充親は郷土史家。
写1 宇摩郡地図(明治17年 1884)
写2 ゼンリン住宅地図(1986)
写3 Google Earth (2024)
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