第1輯「新居郡立川山村里正年譜」に「神埜禮蔵忠紹の時 文化10年(1813)年11月12日に、立川山村で大火があり52戸が焼失し、里正宅も残らず類焼し、旧記諸帳簿等も過半が焼失した」とあった。第2輯「新居郡立川山村神野舊記」に、忠紹が記憶をもとに書き残したと思われる覚書(文化13年)があり、そこに山師の名前が書かれていることを発見した。今回の神野旧記の調査で最も重要なことであった。以下にその覚書を示した。→写真
立川銅山始り慶安元子年より157年に成り候
別子銅山元禄4未年より当年迄114年に成り候
文化13丙子
別子立川両銅一手相成る 宝暦12年午年也
山仕之名記
一番 西条 戸右衛門 二番 土佐 寺西喜助
右一柳監物様御代
三番 紀州熊野屋彦四郎 四番 大坂屋 平右衛門
五番 大坂屋 吉兵衛 六番 金子村 豫市右衛門
七番 大坂屋 永二郎 八番 大坂泉屋 理兵衛
九番 今之泉屋 住友吉二郎
解読と考察
1. 文化13年(1816)は、書かれた年を示している。書かれた年から振り返ると、慶安元年(1648)は、(1816-1648=)168年(数えで169年)前になり、元禄4年(1691)は、(1816-1691=)125年(数えで126年)前になる。覚書では、157年、114年と、どちらも12年少なく書いているが、十二支を1順少なく間違えたのである。
2. この原文を記したのは、8代神野禮蔵忠紹である。禮蔵忠紹は里正年譜によれば、文化元年(1804)~文化13年(1816)の13年間、里正を勤め、文化14年(1817)に歿した。文化10年(1813)52戸焼失、里正宅類焼し、旧記帳簿等過半数焼失したとある。残った帳簿や記憶を参考にして、禮蔵忠紹が文化13年に書いて引き継いだと推定する。それを、神野信夫が明治15年に筆写し、更に、明比貢が昭和11年に筆写したのであろう。
3. 記された山師の名前について
① 一番 戸左衛門ではなく、戸右衛門であった。
② 一柳監物様御代とは、一柳直興(なおおき)正保2年~寛文5年(1645~1665)である。「右一柳監物様御代」なので、これは、「紀州熊野屋彦四郎」に掛っているのではく、「戸右衛門と寺西喜助」に掛かっている。小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」は、「立川銅山は、西条藩の一柳監物の時代(明暦3年~寛文10年(1657~1670))に紀州彦四郎が稼行主であったという。」と書いていて、引用文献として、「新居郡立川山村里正年譜」が挙げられていた。筆者は、小葉田の記述を正しいとして本ブログ「立川銅山(2)」に書いた。
しかし、この「右」が正しいなら熊野屋彦四郎の稼行時期をうしろに修正する必要がある。そうするのがより正しそうであると筆者は考えた。理由の一つは、前報の里正年譜への書き込みより、この覚書の方が里正により書かれたものであるので信頼できる。二つ目は、以下の理由である。一柳監物が改易されて5年後の寛文10年(1670)に紀州徳川一門の松平頼純が西条藩主となったのである。西条藩から、同郷の熊野屋彦四郎が請われて立川銅山師になったと筆者は推定した。熊野屋は、銅山の経営や技術に既に力を貯えつつある時期であり、立川銅山の本格的な開発を期待されたと筆者は推定する。
③ 四番は、大坂屋平右衛門であった。渡海屋平左衛門や海部屋平右衛門ではなかった。大坂屋であれば、次の五番の大坂屋は、記す必要がないのではないか。四番と五番の間に稼行しない何年かがあったので、大坂屋と再度書いたのか。五番が大坂屋であれば、四番はほかの屋号(例えば海部屋)平右衛門だったのではないだろうか。泉屋叢考で「海部屋平右衛門」としたのは、その頃の「平右衛門」で銅屋に関係しているのが「海部屋平右衛門」なので、「大坂屋」でなく「海部屋」にしたのではなかろうか。
大坂屋平右衛門が、大坂屋にいたかを調べる必要がある。いなければ、記憶違いで「海部屋」である可能性がある。
④ 五番 吉兵衛は、大坂ではなく、大坂屋としている。
⑤ 六番 豫市右衛門であった。すなわち弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)のことである。与一右衛門と名乗ったこともあったのかもしれない。それとも単なる記憶違いか。
⑥ 七番に当たるところは、本来ならば、「京都銭座仲間」であるが、この山師だけが個人名でないので、思い出せなかったのか、記憶になかったのか。よってこの覚書は、思い出しながら作成したことがわかる。
⑦ 七番の大坂屋永二郎 は大坂屋永次郎で、六代大坂屋久左衛門のことである。
⑧ 九番の吉二郎は、住友吉次郎である。「今の」とある。
住友家歴代当主家督期間一覧によれば、当主が、吉左衛門ではなく、吉次郎を名乗ったのは、次の4人である。2)
歴代 当主名 家督期間
8代 友端(吉次郎) 寛政4年~文化4年(1792~1807)
9代 友聞(吉次郎のち甚兵衛) 文化4年~弘化2年(1807~1845)
10代 友視(吉次郎) 弘化2年~安政4年(1845~1857)
11代 友訓(吉次郎) 安政4年~元治元年(1857~1864)
文化13年(1816)が「今」に当たるので、今の吉次郎は、9代 住友友聞となる。
⑨ 以上に記したように、この覚書は、数字の間違いや、ぬけがあるが、文化13年(1816)に、当主が神野家に伝わってきた事を思い出しながら書いたものである。前報の「里正年譜」の書き込みより重要視すべきものであると筆者は思う。
明比貢はこの覚書も筆写しているはずだが、里正年譜への山師名の書き込みには、採用しなかった。里正年譜への書き込みは、この覚書とは、別の出典によるものである。
まとめ
1. 第2輯「新居郡立川山村神野舊記」に、山師の名を記した覚書があり、文化13年に当主神野禮蔵忠紹のものである。
2. 文化10年の火災で古文書類が過半焼失しているので、思い出しながら書いたため、少しあやふやなところがあるが、真実味はうかがえる。
3. 1人目は西条戸左衛門でなく、戸右衛門であった。2人目土佐寺西喜助までが一柳監物の時代であった。
4. 紀州徳川一門の松平頼純が寛文10年西條藩主になって、紀州熊野屋彦四郎が山師として請われたと筆者は推定した。
5. 4人目は、大坂屋平右衛門であった。「平右衛門」が正しければ、当時の業界からみて、「海部屋」の可能性がある。
6. 5人目は大坂屋吉兵衛であった。
注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(2)熊野屋彦四郎は 明暦3年~寛文10年の稼行主である」
2. 住友別子鉱山史[別巻] p236(住友金属鉱山株式会社 平成3年 1991)
写真 立川銅山山師名(文化13年神野庄屋覚書)
立川銅山始り慶安元子年より157年に成り候
別子銅山元禄4未年より当年迄114年に成り候
文化13丙子
別子立川両銅一手相成る 宝暦12年午年也
山仕之名記
一番 西条 戸右衛門 二番 土佐 寺西喜助
右一柳監物様御代
三番 紀州熊野屋彦四郎 四番 大坂屋 平右衛門
五番 大坂屋 吉兵衛 六番 金子村 豫市右衛門
七番 大坂屋 永二郎 八番 大坂泉屋 理兵衛
九番 今之泉屋 住友吉二郎
解読と考察
1. 文化13年(1816)は、書かれた年を示している。書かれた年から振り返ると、慶安元年(1648)は、(1816-1648=)168年(数えで169年)前になり、元禄4年(1691)は、(1816-1691=)125年(数えで126年)前になる。覚書では、157年、114年と、どちらも12年少なく書いているが、十二支を1順少なく間違えたのである。
2. この原文を記したのは、8代神野禮蔵忠紹である。禮蔵忠紹は里正年譜によれば、文化元年(1804)~文化13年(1816)の13年間、里正を勤め、文化14年(1817)に歿した。文化10年(1813)52戸焼失、里正宅類焼し、旧記帳簿等過半数焼失したとある。残った帳簿や記憶を参考にして、禮蔵忠紹が文化13年に書いて引き継いだと推定する。それを、神野信夫が明治15年に筆写し、更に、明比貢が昭和11年に筆写したのであろう。
3. 記された山師の名前について
① 一番 戸左衛門ではなく、戸右衛門であった。
② 一柳監物様御代とは、一柳直興(なおおき)正保2年~寛文5年(1645~1665)である。「右一柳監物様御代」なので、これは、「紀州熊野屋彦四郎」に掛っているのではく、「戸右衛門と寺西喜助」に掛かっている。小葉田敦「日本銅鉱業史の研究」は、「立川銅山は、西条藩の一柳監物の時代(明暦3年~寛文10年(1657~1670))に紀州彦四郎が稼行主であったという。」と書いていて、引用文献として、「新居郡立川山村里正年譜」が挙げられていた。筆者は、小葉田の記述を正しいとして本ブログ「立川銅山(2)」に書いた。
しかし、この「右」が正しいなら熊野屋彦四郎の稼行時期をうしろに修正する必要がある。そうするのがより正しそうであると筆者は考えた。理由の一つは、前報の里正年譜への書き込みより、この覚書の方が里正により書かれたものであるので信頼できる。二つ目は、以下の理由である。一柳監物が改易されて5年後の寛文10年(1670)に紀州徳川一門の松平頼純が西条藩主となったのである。西条藩から、同郷の熊野屋彦四郎が請われて立川銅山師になったと筆者は推定した。熊野屋は、銅山の経営や技術に既に力を貯えつつある時期であり、立川銅山の本格的な開発を期待されたと筆者は推定する。
③ 四番は、大坂屋平右衛門であった。渡海屋平左衛門や海部屋平右衛門ではなかった。大坂屋であれば、次の五番の大坂屋は、記す必要がないのではないか。四番と五番の間に稼行しない何年かがあったので、大坂屋と再度書いたのか。五番が大坂屋であれば、四番はほかの屋号(例えば海部屋)平右衛門だったのではないだろうか。泉屋叢考で「海部屋平右衛門」としたのは、その頃の「平右衛門」で銅屋に関係しているのが「海部屋平右衛門」なので、「大坂屋」でなく「海部屋」にしたのではなかろうか。
大坂屋平右衛門が、大坂屋にいたかを調べる必要がある。いなければ、記憶違いで「海部屋」である可能性がある。
④ 五番 吉兵衛は、大坂ではなく、大坂屋としている。
⑤ 六番 豫市右衛門であった。すなわち弥一左衛門(眞鍋八郎右衛門)のことである。与一右衛門と名乗ったこともあったのかもしれない。それとも単なる記憶違いか。
⑥ 七番に当たるところは、本来ならば、「京都銭座仲間」であるが、この山師だけが個人名でないので、思い出せなかったのか、記憶になかったのか。よってこの覚書は、思い出しながら作成したことがわかる。
⑦ 七番の大坂屋永二郎 は大坂屋永次郎で、六代大坂屋久左衛門のことである。
⑧ 九番の吉二郎は、住友吉次郎である。「今の」とある。
住友家歴代当主家督期間一覧によれば、当主が、吉左衛門ではなく、吉次郎を名乗ったのは、次の4人である。2)
歴代 当主名 家督期間
8代 友端(吉次郎) 寛政4年~文化4年(1792~1807)
9代 友聞(吉次郎のち甚兵衛) 文化4年~弘化2年(1807~1845)
10代 友視(吉次郎) 弘化2年~安政4年(1845~1857)
11代 友訓(吉次郎) 安政4年~元治元年(1857~1864)
文化13年(1816)が「今」に当たるので、今の吉次郎は、9代 住友友聞となる。
⑨ 以上に記したように、この覚書は、数字の間違いや、ぬけがあるが、文化13年(1816)に、当主が神野家に伝わってきた事を思い出しながら書いたものである。前報の「里正年譜」の書き込みより重要視すべきものであると筆者は思う。
明比貢はこの覚書も筆写しているはずだが、里正年譜への山師名の書き込みには、採用しなかった。里正年譜への書き込みは、この覚書とは、別の出典によるものである。
まとめ
1. 第2輯「新居郡立川山村神野舊記」に、山師の名を記した覚書があり、文化13年に当主神野禮蔵忠紹のものである。
2. 文化10年の火災で古文書類が過半焼失しているので、思い出しながら書いたため、少しあやふやなところがあるが、真実味はうかがえる。
3. 1人目は西条戸左衛門でなく、戸右衛門であった。2人目土佐寺西喜助までが一柳監物の時代であった。
4. 紀州徳川一門の松平頼純が寛文10年西條藩主になって、紀州熊野屋彦四郎が山師として請われたと筆者は推定した。
5. 4人目は、大坂屋平右衛門であった。「平右衛門」が正しければ、当時の業界からみて、「海部屋」の可能性がある。
6. 5人目は大坂屋吉兵衛であった。
注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(2)熊野屋彦四郎は 明暦3年~寛文10年の稼行主である」
2. 住友別子鉱山史[別巻] p236(住友金属鉱山株式会社 平成3年 1991)
写真 立川銅山山師名(文化13年神野庄屋覚書)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます