佐々連(さざれ)鉱山は、宇摩郡(現四国中央市金砂町小川山)にあって、四国で別子銅山に次いで2番目に総産銅量を誇った銅山であることを、筆者は最近になって知った。別子銅山に近く、同じ層状含銅硫化鉄鉱床であり、その開坑状況を知りたいと思った。ネット検索で3つのホームぺージが見つかった。
1) 田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2)石川順一「自分史」>佐々連鉱山小史(1997頃)
3)ゆずぽんず「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
そこには「坑口の岩盤に「元禄二年大坂屋開坑」の彫があった」と興味深いことが書かれていた。この記述の初出は、「最新大日本鉱山史」4)と思われたので、以下にその部分を記す。
最新大日本鉱山史(昭和15年 1940)
佐々連鉱山
愛媛県宇摩郡 鉱業権者 岩城鉱業株式会社 校区面積1,029,610坪
沿革
(前略)
佐々連、金砂両鉱床は、発見者及び発見の年代は不明であるが、別子銅山と前後して開坑されたものと言われ、現存旧坑中には、掘鑿に際して火薬を使用しない個所が在る程である。相當古く開坑されたものの如く、金山谷旧坑口附近の磐岩に「元禄二年大阪屋開坑」との字句彫刻があったが、坑口加背(かせ)拡げの為、破壊されたとの説が有力であるが、その眞偽は確かなものとは言えない。右鉱床は、明治31年前後迄は何人が経営していたか、前記程度の口碑口伝に過ぎず、正確な記録を残していない。金砂天長坑上部の旧坑は、明治31年頃に至り、東宇和郡中筋村の人*三好春善が稼行した。その後、北宇和郡成好村の人、渡辺祐常が経営に加わり、両者共同して試掘中、明治40年頃現金砂坑通洞の露頭を発見した。(以下略)
*原文は、宇和島市の人三好某とあるが、訂正した。
考察
1. 「元禄二年大阪屋開坑」の彫刻があったという事の真偽は、確かなものとは言えない とある。「最新大日本鉱山史」の著者が、もとにした史料は何か。探せばわかるかもしれない。彫刻の存在を証明できるものが見出されることを願う。三好春善が稼行開始時には彫刻はあったのか、三好春善の書き物でもあればよいのだが、郷土史家は知らないであろうか。「三好春善は、明治44年(1911)9月、愛媛県会議員(定員36)に当選し、政友会と対立する進歩派と提携したが、大正元年(1912)7月に死去」とあった。5)郷土の名士のようであるので、何かわかるかもしれない。
また、「佐々連鉱山は別子銅山と前後して開坑されたもの」の根拠になる古文書は何か。大坂屋の古文書に「元禄2年宇摩郡さざれの銅山を開坑した」というような記述はないであろうか。6)
2. 以下は、彫刻はあったとして、筆者の推理を記す。
「大阪屋」は、「おおさかや」であり、彫刻字は「大坂屋」であったに違いない。元禄2年(1689)は、別子開坑元禄4年(1691)の2年前である。立川銅山はこの時期大坂屋が稼行していた可能性が非常に高い。立川銅山の大坂屋手代たちが絡んで佐々連坑を開坑したと推理する。立川銅山からかなり距離があるにも拘わらず、新しい坑を開発するのである。可能性のある鉱山に早く手をつけておきたいというのであろうか。立川銅山は、期待した程銅が出なかったのであろう。ではなぜすぐ近くの峰越しの別子を探さなかったのであろうか。立川のあまりに近くでは、期待できないと考えたのではないか。当然、元禄8年の抜合事件まで、一枚板の鉱床であるとは、考えもしなかったのではないか。
宇摩郡佐々連鉱山付近の村々は、延宝六年(1678)から享保六年(1721)までは、天領であった。別子と同じ天領である。川之江代官所への銅山問堀・開発申請は、別子と同じはず。大坂屋は、峰越しの別子を、期待薄として探さなかったのか、露頭は見つけたが、有望とみなかったのか、または、露頭はそう簡単に見つけられなかったのか。当時大坂屋は、泉屋に次ぐ銅商、銅吹屋、銅山経営者であったので、もし、大坂屋が別子の開発願を出していれば、受理されたのではないか。同じ天領にある佐々連銅山は、受理され開坑できているからそう考えてもおかしくない。川之江代官が、各々の露頭の有望性をわかるはずがない。本業でもわからないのだから。別子では、裏で泉屋に肩入れしたという説は、筆者は疑問に思う。別子を半年、1年と掘ってみて、すごい銅山に当たったということがわかったのである。
このように推理すると、この彫刻が本当にあったかどうかを知ることは、別子銅山開発の経緯を知る上で参考になる。
まとめ
1. 佐々連鉱山は 坑口磐岩に「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻があったといわれていた。
注 引用文献
1. web.田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>愛媛の鉱物・鉱山のページ>東予地域>赤石・宇摩地域>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2. web. http://www.shibasks.co.jp › machhapu › jibunshi 石川順一「自分史」 58 佐々連鉱山小史(1997頃)
3. web. 「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
4. 日本産業調査会編「最新大日本鉱山史」p59~65(日本産業調査会 昭和15年 1940)
web.国会図書館デジタルコレクション「最新大日本鉱山史」コマ67
5. web.データベース「えひめの記憶」 資料「愛媛県史 近代 上」(昭和61年発行) 第2章 地方自治制度の成立と愛媛県 第3節 国会開設と政党>2.明治後期の国政選挙と県政界
6. 本ブログ「立川銅山(4)大坂屋吉兵衛は豪商大坂屋久左衛門の手代ではないか」
補:筆者のメモ 明治30年(1987)以降の稼行者と事項。
明治30年(1897)東宇和郡中筋村の三好春善
明治36年(1903)北宇和郡成好村の渡辺祐常 明治40年頃金砂坑発見
明治43年(1910) 田村宇(卯?)之助
大正5年(1916)富郷村の加藤善右衛門が金立(きんりつ)坑発見
大正7年(1918)神戸市の岩城商会 岩城卯吉 全部の坑を合わせて「佐々連鉱山」と改称し、岩城鉱業(株)を設立
大正13年(1924)宇摩郡寒川村江之元港との間に鉱石搬出の索道(10.9km)を架設し、経営を軌道に乗せた。以後第2、第3の鉱床を発見し、出鉱量は増加した。
昭和16年(1941) 住友鉱業(株)経営に参加、17年佐々連鉱業(株)と改称、住友鉱業の子会社となった。
昭和25年(1950)別子鉱業(株)の佐々連鉱業所。27年住友金属鉱山(株)の佐々連鉱業所
昭和28年(1953)金泉抗発見。34年金剛坑発見。36年新泉坑発見。
昭和37年(1962)中央立坑完成。39年300斜坑延長完成。40年 第一先進斜坑完成。42年 下部立坑33L完成。44年 第二先進斜坑完成。46年 新風洞完成。51年 下部立坑完成。
昭和54年(1979)8月鉱山全面廃業
1) 田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2)石川順一「自分史」>佐々連鉱山小史(1997頃)
3)ゆずぽんず「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
そこには「坑口の岩盤に「元禄二年大坂屋開坑」の彫があった」と興味深いことが書かれていた。この記述の初出は、「最新大日本鉱山史」4)と思われたので、以下にその部分を記す。
最新大日本鉱山史(昭和15年 1940)
佐々連鉱山
愛媛県宇摩郡 鉱業権者 岩城鉱業株式会社 校区面積1,029,610坪
沿革
(前略)
佐々連、金砂両鉱床は、発見者及び発見の年代は不明であるが、別子銅山と前後して開坑されたものと言われ、現存旧坑中には、掘鑿に際して火薬を使用しない個所が在る程である。相當古く開坑されたものの如く、金山谷旧坑口附近の磐岩に「元禄二年大阪屋開坑」との字句彫刻があったが、坑口加背(かせ)拡げの為、破壊されたとの説が有力であるが、その眞偽は確かなものとは言えない。右鉱床は、明治31年前後迄は何人が経営していたか、前記程度の口碑口伝に過ぎず、正確な記録を残していない。金砂天長坑上部の旧坑は、明治31年頃に至り、東宇和郡中筋村の人*三好春善が稼行した。その後、北宇和郡成好村の人、渡辺祐常が経営に加わり、両者共同して試掘中、明治40年頃現金砂坑通洞の露頭を発見した。(以下略)
*原文は、宇和島市の人三好某とあるが、訂正した。
考察
1. 「元禄二年大阪屋開坑」の彫刻があったという事の真偽は、確かなものとは言えない とある。「最新大日本鉱山史」の著者が、もとにした史料は何か。探せばわかるかもしれない。彫刻の存在を証明できるものが見出されることを願う。三好春善が稼行開始時には彫刻はあったのか、三好春善の書き物でもあればよいのだが、郷土史家は知らないであろうか。「三好春善は、明治44年(1911)9月、愛媛県会議員(定員36)に当選し、政友会と対立する進歩派と提携したが、大正元年(1912)7月に死去」とあった。5)郷土の名士のようであるので、何かわかるかもしれない。
また、「佐々連鉱山は別子銅山と前後して開坑されたもの」の根拠になる古文書は何か。大坂屋の古文書に「元禄2年宇摩郡さざれの銅山を開坑した」というような記述はないであろうか。6)
2. 以下は、彫刻はあったとして、筆者の推理を記す。
「大阪屋」は、「おおさかや」であり、彫刻字は「大坂屋」であったに違いない。元禄2年(1689)は、別子開坑元禄4年(1691)の2年前である。立川銅山はこの時期大坂屋が稼行していた可能性が非常に高い。立川銅山の大坂屋手代たちが絡んで佐々連坑を開坑したと推理する。立川銅山からかなり距離があるにも拘わらず、新しい坑を開発するのである。可能性のある鉱山に早く手をつけておきたいというのであろうか。立川銅山は、期待した程銅が出なかったのであろう。ではなぜすぐ近くの峰越しの別子を探さなかったのであろうか。立川のあまりに近くでは、期待できないと考えたのではないか。当然、元禄8年の抜合事件まで、一枚板の鉱床であるとは、考えもしなかったのではないか。
宇摩郡佐々連鉱山付近の村々は、延宝六年(1678)から享保六年(1721)までは、天領であった。別子と同じ天領である。川之江代官所への銅山問堀・開発申請は、別子と同じはず。大坂屋は、峰越しの別子を、期待薄として探さなかったのか、露頭は見つけたが、有望とみなかったのか、または、露頭はそう簡単に見つけられなかったのか。当時大坂屋は、泉屋に次ぐ銅商、銅吹屋、銅山経営者であったので、もし、大坂屋が別子の開発願を出していれば、受理されたのではないか。同じ天領にある佐々連銅山は、受理され開坑できているからそう考えてもおかしくない。川之江代官が、各々の露頭の有望性をわかるはずがない。本業でもわからないのだから。別子では、裏で泉屋に肩入れしたという説は、筆者は疑問に思う。別子を半年、1年と掘ってみて、すごい銅山に当たったということがわかったのである。
このように推理すると、この彫刻が本当にあったかどうかを知ることは、別子銅山開発の経緯を知る上で参考になる。
まとめ
1. 佐々連鉱山は 坑口磐岩に「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻があったといわれていた。
注 引用文献
1. web.田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>愛媛の鉱物・鉱山のページ>東予地域>赤石・宇摩地域>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2. web. http://www.shibasks.co.jp › machhapu › jibunshi 石川順一「自分史」 58 佐々連鉱山小史(1997頃)
3. web. 「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
4. 日本産業調査会編「最新大日本鉱山史」p59~65(日本産業調査会 昭和15年 1940)
web.国会図書館デジタルコレクション「最新大日本鉱山史」コマ67
5. web.データベース「えひめの記憶」 資料「愛媛県史 近代 上」(昭和61年発行) 第2章 地方自治制度の成立と愛媛県 第3節 国会開設と政党>2.明治後期の国政選挙と県政界
6. 本ブログ「立川銅山(4)大坂屋吉兵衛は豪商大坂屋久左衛門の手代ではないか」
補:筆者のメモ 明治30年(1987)以降の稼行者と事項。
明治30年(1897)東宇和郡中筋村の三好春善
明治36年(1903)北宇和郡成好村の渡辺祐常 明治40年頃金砂坑発見
明治43年(1910) 田村宇(卯?)之助
大正5年(1916)富郷村の加藤善右衛門が金立(きんりつ)坑発見
大正7年(1918)神戸市の岩城商会 岩城卯吉 全部の坑を合わせて「佐々連鉱山」と改称し、岩城鉱業(株)を設立
大正13年(1924)宇摩郡寒川村江之元港との間に鉱石搬出の索道(10.9km)を架設し、経営を軌道に乗せた。以後第2、第3の鉱床を発見し、出鉱量は増加した。
昭和16年(1941) 住友鉱業(株)経営に参加、17年佐々連鉱業(株)と改称、住友鉱業の子会社となった。
昭和25年(1950)別子鉱業(株)の佐々連鉱業所。27年住友金属鉱山(株)の佐々連鉱業所
昭和28年(1953)金泉抗発見。34年金剛坑発見。36年新泉坑発見。
昭和37年(1962)中央立坑完成。39年300斜坑延長完成。40年 第一先進斜坑完成。42年 下部立坑33L完成。44年 第二先進斜坑完成。46年 新風洞完成。51年 下部立坑完成。
昭和54年(1979)8月鉱山全面廃業
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