立川銅山の1番目の山師「戸右衛門」は見つけられなかったとブログで書いた。1) 神野旧記では、立川銅山の開坑は慶安元年(1648)とあるので、戸右衛門の時期は、1650年代となろう。
先日、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」を読んでいたら2)、「西条の十右衛門」を見つけた。「十右衛門」は普通には「じゅうえもん」と呼ばれているが、もし「とえもん」と呼ばれていたら、神野旧記では「戸右衛門」と書かれたかもしれないと気づいた。「西条の十右衛門」は財力あり、場所や時代も合うので、筆者は、この人物が「とえもん」であるという説を提起したい。
1. 以下の情報は、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」と「西条誌」による。
「寛政7年(1795)西条藩は藩札を初めて発行したが、その札元メンバー3人の内の一人が、志智屋(しちや)小左衛門(屋号と通称 下島山村庄屋格 西原家)である。小左衛門の諱は「十右衛門乗諧」であった。次代は荘左衛門吉慶(寛政11年発行)、次次代は12代十右衛門吉隆(文政期発行)。志智屋では、諱は十右衛門と荘左衛門が交互に一代毎に命名されている。
「西条誌」3)には、「家名を質屋と称す。先祖は禁裡北面の武士より出で、大和国に暫住の後、伊予国新居郡中村の瀧の宮に居てその後、下嶋山村に移住するとある。元御所の北面にあって、院中を警護した武士で、当時においては、武芸に優れた者が任じられる名誉ある地位であったと考えられる名門の出である。
天正15年(1587)「長安村本帳」(現在の西条市玉津永易)天正の検地帳には、「きもいり」・「与三左衛門」の名が記されている(名請人)。下嶋山村と長安村(現永易)とは隣接し、当該土地は渦井川の川下に位置する。
新居浜瀧宮神社(現滝神社)の棟札に「文禄3年(1594)大旦那西原與三左衛門と云文字あり、西原ハ、此家の氏なり、」と記されている。この時には、既に下嶋山村に移住していたと思われる。
西原家は、下嶋山村に来てのち、元和3年(1617)の村方本帳に、勘右衛門(十右衛門の家、三代目)は新開の田畑の大地主であったことが記されている。この勘右衛門の三男が近くの西福寺(さいふくじ)の開基精堯法印という。
明和年中(1764-1771)居宅焼失、古記類皆灰燼となり拠り所がなくなったので、先祖については申し述べずという。これ当時の十右衛門が申状にて、家風の一言宜しく聞こえる。
寛政期(1795)には、西原家は藩札の発行と両替の業務を担当し、藩の財政経済の維持、地域の発展に寄与したのである。天保元年(1830)には庄屋格を申しつけられた。
明治12年の地租改正「地価一筆限帳」記載の下島山村、西原荘左は、「与三左衛門」(十右衛門)の後裔である。
2. 下嶋山村の十右衛門であれば、立川山村庄屋神野家と距離的に近く、一番目の山師として可能性があるのではないか。西原家には、立川銅山に関係したという口伝はないであろうか?
まとめ
立川銅山の1番目の山師「戸右衛門」は「下島山村の西原十右衛門」であるという説を提起した。
注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(21)1番目の山師「西条 戸右衛門」は見つけられなかった」(2022.7.31)
2. 加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」p215「西条藩札札元志智屋小左衛門について」(2021)
3. 日野暖太郎編「西條誌」巻之五 下島山村(天保13年(1842))p36-41(西条史談会 昭和9年 1934)
web. 国会図書館デジタルコレクション「西条誌 第5-8」コマ40-42/257
写 「西条誌 稿本 五」 ○ 「庄屋格 十右衛門」のページ
先日、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」を読んでいたら2)、「西条の十右衛門」を見つけた。「十右衛門」は普通には「じゅうえもん」と呼ばれているが、もし「とえもん」と呼ばれていたら、神野旧記では「戸右衛門」と書かれたかもしれないと気づいた。「西条の十右衛門」は財力あり、場所や時代も合うので、筆者は、この人物が「とえもん」であるという説を提起したい。
1. 以下の情報は、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」と「西条誌」による。
「寛政7年(1795)西条藩は藩札を初めて発行したが、その札元メンバー3人の内の一人が、志智屋(しちや)小左衛門(屋号と通称 下島山村庄屋格 西原家)である。小左衛門の諱は「十右衛門乗諧」であった。次代は荘左衛門吉慶(寛政11年発行)、次次代は12代十右衛門吉隆(文政期発行)。志智屋では、諱は十右衛門と荘左衛門が交互に一代毎に命名されている。
「西条誌」3)には、「家名を質屋と称す。先祖は禁裡北面の武士より出で、大和国に暫住の後、伊予国新居郡中村の瀧の宮に居てその後、下嶋山村に移住するとある。元御所の北面にあって、院中を警護した武士で、当時においては、武芸に優れた者が任じられる名誉ある地位であったと考えられる名門の出である。
天正15年(1587)「長安村本帳」(現在の西条市玉津永易)天正の検地帳には、「きもいり」・「与三左衛門」の名が記されている(名請人)。下嶋山村と長安村(現永易)とは隣接し、当該土地は渦井川の川下に位置する。
新居浜瀧宮神社(現滝神社)の棟札に「文禄3年(1594)大旦那西原與三左衛門と云文字あり、西原ハ、此家の氏なり、」と記されている。この時には、既に下嶋山村に移住していたと思われる。
西原家は、下嶋山村に来てのち、元和3年(1617)の村方本帳に、勘右衛門(十右衛門の家、三代目)は新開の田畑の大地主であったことが記されている。この勘右衛門の三男が近くの西福寺(さいふくじ)の開基精堯法印という。
明和年中(1764-1771)居宅焼失、古記類皆灰燼となり拠り所がなくなったので、先祖については申し述べずという。これ当時の十右衛門が申状にて、家風の一言宜しく聞こえる。
寛政期(1795)には、西原家は藩札の発行と両替の業務を担当し、藩の財政経済の維持、地域の発展に寄与したのである。天保元年(1830)には庄屋格を申しつけられた。
明治12年の地租改正「地価一筆限帳」記載の下島山村、西原荘左は、「与三左衛門」(十右衛門)の後裔である。
2. 下嶋山村の十右衛門であれば、立川山村庄屋神野家と距離的に近く、一番目の山師として可能性があるのではないか。西原家には、立川銅山に関係したという口伝はないであろうか?
まとめ
立川銅山の1番目の山師「戸右衛門」は「下島山村の西原十右衛門」であるという説を提起した。
注 引用文献
1. 本ブログ「立川銅山(21)1番目の山師「西条 戸右衛門」は見つけられなかった」(2022.7.31)
2. 加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」p215「西条藩札札元志智屋小左衛門について」(2021)
3. 日野暖太郎編「西條誌」巻之五 下島山村(天保13年(1842))p36-41(西条史談会 昭和9年 1934)
web. 国会図書館デジタルコレクション「西条誌 第5-8」コマ40-42/257
写 「西条誌 稿本 五」 ○ 「庄屋格 十右衛門」のページ
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