寺尾九兵衛当主の墓を探していたら、「天満天神学問の里巡り」49番に「天満神社の参道下の中腹にある観音堂は、寺尾九兵衛大庄屋の墓守の庵として創建されたと伝承されている。」を見つけた。1)この観音堂墓地は草木に覆われ墓石が遠くから見えない状況であった。そこで、2023年9月2日に、天満神社総代の岸幸雄様、友人桑原忠勝様と三人で草刈りし、墓石の調査をした。墓石は8基余りあり、状態がよく刻字が読めるものから、崩れているものまでいろいろであった。寛永から元禄までのようであるが、総高6尺の五輪塔が2基、高さ5尺の笠付方形墓が3基あり、みな立派な墓である。→図
これらの墓は、以前は少し高い場所にあったのだが、斜面が崩れたため現在の位置に下ろして設置したとのことである。刻字が読みにくいこともあり、位牌と一致したのは、わずかに2基であった。過去帳で詳細に調べればさらに明らかになるだろう。
ここでは、はっきりした2基の五輪塔について記す。
観音堂墓地の五輪塔
観5 五輪塔 (周囲の四隅に愛媛県標石あり)→写真1,2
旹寛文九己酉年没 七月廿八日 (1669)
〇清
(アーク)月空常清禅定門
観6 五輪塔 →写真3,4
貞享元年甲子年 余月余日 (1684)
乃(生?)浩家(豪?)
(アーク)右為花山宗知信士霊
平等(稚?)(迂?)
対応する位牌
・月空常清禅定門 寛文9年7月17日 ----観5 に対応
・花山宗知信士 貞享元年3月26日 ----観6 に対応
これから、観5は二代九兵衛貞清、観6は三代九兵衛成清の墓と比定した。
考察
1. 二代九兵衛貞清の五輪塔は、周囲の四隅に愛媛県標石が建てられている。県が江戸前期の貴重な墓石と評価していると思われる。(2024.11.4訂正)土地が崩れて直した際に、周囲は愛媛県に移管されたが、標識で囲まれた土地は移管されていないということを表示している。古くて風化が少ない立派な五輪塔である。
没年月日は、寛文9年(1669)7月28日と刻字されているが、位牌では、同年7月17日でわずかな違いがあった。刻字〇清は、俗名貞清と思われる。墓の大きさは玉の直径45cm(1尺5寸)総高 183cm(6尺)であり、石材は花崗岩である。尾道石工の製作ではなかろうか。
戒名の上に刻まれた梵字は一般的な「ア」ではなく、「アーク」であった。寺尾家の菩提寺は、真言宗の清賢寺(現在の井源寺)であったので、真言宗による五輪塔であったことがわかる。
なお、二代九兵衛貞清の当主期間は1630~1650年と筆者は推定している。
2. 三代九兵衛成清の五輪塔は、二代とほぼ同じ大きさである。没年月日は貞享元年(1684)余月余日と刻字されている。余月は陰暦4月の別名。位牌では没年は、同年3月26日であるので、少しの違いがあった。
乃(生?)浩家(豪?)は出自の姓名であろうか。平等(稚?)(迂?)はよく読めず、意味がわからなかった。
なお、三代九兵衛成清の当主期間は1650~1670年と筆者は推定している。
3. 初代九兵衛 月窓常祐禅定門 寛永16年(1639)8月4日 の墓は、ここにあってもよさそうなものであるが、該当するものはなかった。四代目以降の当主の墓もここにはなかった。
まとめ
二代貞清・三代成清の立派な五輪塔が観音堂墓地にある。
次報では、寛文前後の天満村の様子や九兵衛の残したものについて述べたい。
注 引用文献
1)「天満天神学問の里巡り」49番(天満公民館 2021)公民館報178号(2006.2)
図 観音堂墓地と墓群 二代寺尾九兵衛貞清の五輪塔の大きさ
写真1 観5 五輪塔 (二代貞清)
写真2 観5の地輪 (二代貞清)
写真3 観6 五輪塔 (三代成清)
写真4 観6の地輪 (三代成清)
これらの墓は、以前は少し高い場所にあったのだが、斜面が崩れたため現在の位置に下ろして設置したとのことである。刻字が読みにくいこともあり、位牌と一致したのは、わずかに2基であった。過去帳で詳細に調べればさらに明らかになるだろう。
ここでは、はっきりした2基の五輪塔について記す。
観音堂墓地の五輪塔
観5 五輪塔 (周囲の四隅に愛媛県標石あり)→写真1,2
旹寛文九己酉年没 七月廿八日 (1669)
〇清
(アーク)月空常清禅定門
観6 五輪塔 →写真3,4
貞享元年甲子年 余月余日 (1684)
乃(生?)浩家(豪?)
(アーク)右為花山宗知信士霊
平等(稚?)(迂?)
対応する位牌
・月空常清禅定門 寛文9年7月17日 ----観5 に対応
・花山宗知信士 貞享元年3月26日 ----観6 に対応
これから、観5は二代九兵衛貞清、観6は三代九兵衛成清の墓と比定した。
考察
1. 二代九兵衛貞清の五輪塔は、周囲の四隅に愛媛県標石が建てられている。
没年月日は、寛文9年(1669)7月28日と刻字されているが、位牌では、同年7月17日でわずかな違いがあった。刻字〇清は、俗名貞清と思われる。墓の大きさは玉の直径45cm(1尺5寸)総高 183cm(6尺)であり、石材は花崗岩である。尾道石工の製作ではなかろうか。
戒名の上に刻まれた梵字は一般的な「ア」ではなく、「アーク」であった。寺尾家の菩提寺は、真言宗の清賢寺(現在の井源寺)であったので、真言宗による五輪塔であったことがわかる。
なお、二代九兵衛貞清の当主期間は1630~1650年と筆者は推定している。
2. 三代九兵衛成清の五輪塔は、二代とほぼ同じ大きさである。没年月日は貞享元年(1684)余月余日と刻字されている。余月は陰暦4月の別名。位牌では没年は、同年3月26日であるので、少しの違いがあった。
乃(生?)浩家(豪?)は出自の姓名であろうか。平等(稚?)(迂?)はよく読めず、意味がわからなかった。
なお、三代九兵衛成清の当主期間は1650~1670年と筆者は推定している。
3. 初代九兵衛 月窓常祐禅定門 寛永16年(1639)8月4日 の墓は、ここにあってもよさそうなものであるが、該当するものはなかった。四代目以降の当主の墓もここにはなかった。
まとめ
二代貞清・三代成清の立派な五輪塔が観音堂墓地にある。
次報では、寛文前後の天満村の様子や九兵衛の残したものについて述べたい。
注 引用文献
1)「天満天神学問の里巡り」49番(天満公民館 2021)公民館報178号(2006.2)
図 観音堂墓地と墓群 二代寺尾九兵衛貞清の五輪塔の大きさ
写真1 観5 五輪塔 (二代貞清)
写真2 観5の地輪 (二代貞清)
写真3 観6 五輪塔 (三代成清)
写真4 観6の地輪 (三代成清)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます