慈眼寺ご住職の厚意で、過去帳を見せていただき、忠七あるいは濱井筒屋と記された仏様だけをとりあげ、濱井筒屋年表を作った。表参照。
報告済みの忠七あるいは濱井筒屋に関する情報は以下のとおりである。
① 宝永6年(1709)岸段右衛門殿与州銅山へ下ル新ゐ浜忠七船ニ乗船---宝永六年日記
② 宝暦6年(1756)摂州兵庫沖にて、新居浜浦井筒屋忠七船が銅を積み登り節、大風雨に遭い難船した。----年々諸用留七番
③ 文化元年(1804)7月20日 為登銅250丸積 勇力丸忠七----大福帳
④ 弘化元年(1844)勇力丸が為登銅250丸積×8回-----銅請払書
⑤ 宝暦年間の天亮和尚の時期(1749~1756)忠七が慈眼寺に半鐘を寄進----半鐘銘文
⑥ 寛延2年~宝暦年間(1749-1763)に濱井筒屋が切上り長兵衛を追善供養---過去帳
上記に事項と濱井筒屋年表を照らし合わせて以下のことがわかった。
1. 宝永6年(1709)の忠七を初代忠七とする。
2. 濱井筒屋の屋号は、享保10年(1725)に使い始め明治15年(1882)まで続いた。
3. 宝暦6年(1756)に難船したのは、2代忠七・三左衛門である。
4. 勇力丸(1804 1844)は、5代忠七・五兵エ と6代忠七・嘉平の時である。
5. 切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋2代忠七・三左衛門であり、半鐘の寄進者である。時期は慈眼寺住職第10世天亮和尚の宝暦年間である。
結論:慈眼寺の過去帳と半鐘銘文から、切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋2代忠七・三左衛門であり、半鐘の寄進者であることがわかった。このことにより、切上り長兵衛の位牌や過去帳に書かれたことの信憑性が非常に高まった。
表.濱井筒屋年表
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